妓楼・6

 

 

 

 

 結局、番頭新造は、五日間、見世の務めを休んだ。

 その間の揚げ代は休業補償として金の跳ね馬が出した。昼夜の通しで二朱という値段の、あまりの安さに悲しみを感じながら。

 六日目には『全快』を祝う宴席が設けられた。跳ね馬は料理茶屋でやりたがったが職場復帰する本人がそれを嫌がり、見世の小座敷で、台のものをとってといういつもの宴会形式になってしまう。でも一つだけ違うこともあった。本人が、金の跳ね馬の隣に座った。添え役としてではなく。

「スクアーロ」

 オンナが自分の横に座った瞬間、男はハンサムな顔をくしゃくしゃにして喜んだ。仲直りの盃をルッスーリアが廻して、見世の全員に跳ね馬が祝儀を撒く。そうしてそわそわ、落ち着かない様子を見せる。そういう正直な可愛げは、悪く擦れたところがなくて、どこか坊ちゃんの甘さを漂わせて可愛げがあった。

 宴を切りのいいところで切り上げ、食事や酒は一同に好きなだけ飲み食いさせて、二人で別間に移るのが以前までの習慣。けれど座敷持ちでなくなったオンナにはもう移るべき別間がない。二人きりになることが出来ない。

「……」

 それで散々、何ヶ月も苦しめられてきた男が次第に、辛そうになってくる。十畳のさして広くもない座敷に、入れ替わりたちかわり祝儀のお礼を言って馳走にありついていく下っ端の女郎や振袖新造の追従、座を賑やかにする幇間や芸者の音曲を愉しむどころではなくなってくる。

 また、お預けなのだろうかと、思うと目の前が暗くなってくる。

 そんな時に。

「割り床は、イヤだぁ」

 それまで黙って、隣で酒ばかり飲んでいたオンナが口を開く。驚いてそっちを向いた男に。

「行燈部屋はもっとイヤだけどなぁ」

 嫌味ったらしくオンナは言った。どれだけ皮肉を利かせたところで、口を開いた時点で譲歩。

「……」

 男は返事をしない。オンナの声を聞いて胸がいっぱい、という風情に目尻が、嬉しそうにとろけている。その態度は桁外れの金持ちの札差ではなく、裏世界で顔の利くボスでもなく、惚れたオンナのご機嫌に左右されるただの若い男。ただし、とびきりハンサムな。

「俺は何処でもいい」

 男は正直なことを言った。

「お前と居れるなら」

 今すぐ触れたい、ぎゅっと抱きしめたい。焦がれて喘ぎそうになりながら口走る。格好つけない真っ直ぐな愛情。

「部屋を、持てよ、スクアーロ」

 グラスにオンナの好きな真っ赤な酒を注いでやりながら男が言った。現役を引退した番頭新造が見世の二階に部屋をもち続け、そこで一種の『自主営業』をすることは珍しくない。

「経費は全部、俺が払うから」

「それが足りなくなったから外に部屋借りたんだよ」

 振袖新造に急にバタバタといい贔屓客がつき、雑居・割り床の一階から二階に上がって部屋持ち・座敷持ちになった。そのせいで客をとらない引退済みの番頭新造を置いておける部屋がなくなって、だから、見世の外に寝起きする場所を借りたのだ。

「その相談、なんでオレにしてくれなかったんだ?」

 嫉妬をかくさず男がオンナを問い詰める。二人が小声で話すのを、座の皆は聞こえないふりをして賑やかに飲み食いを続けている。仕出し料理のオードブルか片付いた頃、竹寿司からの寿司台と蕎麦台が届く。

飲み気より食い気の若い新造たちは客の前であることも忘れてさかんに箸を動かす。そういうところが小見世の放縦さで、格好つけた通人の金持ち連中には忌避されることもある。が、空々しさのない本音の表情が親しげで、小見世には小見世の良さがあると贔屓客も多い。特に若い連中は、予算との関係もないでもないだろうが、芝居がかった装置の中に飾られた花魁より、擬似でも恋人のような親しみを見せてくれる小見世を好んで、よく通う。

「お前に、ここの近所で下宿させてくれる素人家の心当たりが、あるたあ思えなかったからだなぁー」

 それはその通りだ。世の中を渡っていくにはは金だけでなく、顔という要素も必要。懐に小判の用意は沢山あるけれど、金持ちの男はここで、よそ者でしかない。

「見世の改築の相談ならのれるぜ」

 男は物分りよく、そんなことを言い出す。長年の馴染み客だったとはいえ、売り物でないオンナを無理やり押さえつけてレイプして、ただで済むわけがないことは分かっていた。

「ヒノキの、おまえ専用の湯殿つくろうぜ。隣敷地買って、お姫様が住みみたいな御殿たててやるよ」

 この見世の隣は古い菓子店だったが、老夫婦が二人だけでやっている細い商売。夫婦は土地を売って引退したがっていると評判で、以前から、金の跳ね馬はそこを買いたがっていた。自分の別荘を建てるのだと無茶なことを言った。もちろん、スクアーロが自由に使っていい。というか、是非つかってほしい、いっそそっちに住んで欲しいという、そんなことを言うたびに、バカかぁンなこと出来っかぁと、オンナはまともに聞こうとしなかった。

「いらねぇよ」

 銀色のオンナは男が差し出そうとするものをいつも拒む。何もかもを、という訳ではなく、酒や食べ物は時々自分からたかってくれるけれど、そんな程度。

「そうか」

 分かっていたけれど残念。

「好きなようにしろ。見積もりを店に廻してくれ。完成するまでは、何処かを貸してくれるんだろうな?」

「狭くて暗くてかび臭くってもてめぇが我慢できるならなぁ」

「言ったろ、俺はどこでもいい。お前が抱けるなら割り床でも行燈部屋でも物置でも、車の中でも、本当に構わないぜ」

 言って、途中ででも、と、男は思いなおした表情。

「お前には似合わないな。御殿みたいな部屋じゃないと可哀想だよな。……悪かった」

「謝るのはいーけどよぉ、ナンかズレてっぞぉ」

 無理やりにいたした場所ではなく行為自体を反省しやがれてめぇとオンナが凄んでみせた。

「お前はいつも、スカウトやら上級生やらに囲まれて、女王さまみたいに、何人も引き連れて歩いて」

「おぉい、いつの話ししてやがるてめぇ」

「取り巻きの中に、俺は入れてくれなかった」

「あー?てめぇが寄って来なかっただけだろーがぁ、ビビってたんだろぉ?」

「お前は高嶺の花だった」

 オンナは才能に注目される剣士だった。剣帝を倒してからは特にスカウトがひきもきらず、偉い男が直々に来ることも多かった。強さの上に、子供が産める女だというところが価値を高めて、学校では大手の組織の息の掛かった上級生が牽制しあいながらオンナを取り巻いていた。強い女は強い子供を産む可能性が高い。強いということは裏稼業の男たちにとって、正義という語に等しい絶対的名価値があった。

「大昔のこと言うんじゃねーよ、ばぁか」

「……昔を忘れていないのはお前だろ」

 男がたまらずという様子で口走った言葉。それを受けてオンナが黙りこむ。そのまま二人は、気を利かせたルッスーリアが床を納めましょうねと水を向けるまで黙り込んでいた。

 

 

 何度部屋を大急ぎで片付け、壁に板を打ちつけ違い棚を造り、花の一つも飾ってみた四畳半の部屋で。

「……、ふ……」

「……ん」

 男はオンナを抱きしめる。オンナは数日前の若い男との情交がバレはしないかと少し警戒していた。そのぎこちなさがかえってよかったのか、男は気づかず、満足そうに息を吐く。そうして暫く余韻に浸って、甘い匂いを嗅ぎながら呼吸を繰り返していた。

 が。

「疲れたか?」

 オンナが先に身動いて、男の見栄で、そう声をかける。

「……ちょっとなぁ」

「そうか」

 仕方ないな、という風に言って続きを諦め、男はゆっくりオンナからカラダを引いた。避妊してくれピル飲むと寝込むんだよと哀願されしぶしぶながらつけたゴムのおかげで、後始末は簡単なものだ。

「ま、ちょっとずつ、な」

 もとに戻っていこうなと男が囁く。このオンナが現役の頃は何時間も抱き合い絡み合い、貪り揺れあって夜を過ごした。早くまたそんなセックスをしたいと思いつつ、男は物分りのいいフリ。

「……」

 オンナは答えない。その以前は戻りたくなかった。

「お前は酷いオンナだよ、スクアーロ。俺と寝なくても平然としているんだから」

 あんなに凄いセックスを繰り返してきたのにと、狭い部屋に敷けばほぼいっぱいになってしまう三つ布団の上で男はあらためて、そんな恨み言。

「女っていうのは残酷に出来てる」

 男の心からの言葉に、言われたオンナが少しだけ笑う。まだ身動きがとれず、くたりとシーツに横たわったまま顔は見えない。見えないが興奮して赤味を帯びた背中がゆれた。

「本当に酷い、オンナだ」

 しなやかな背中に思わず顔を寄せ、肩甲骨の間の窪みに唇を押し当てながら男が言った。オンナはくすぐったがって身動きしたけれどそれが間違い。浮き上がった肩に手をかけられ、うつ伏せのカラダを仰向けにされる。覆いかぶさってくる男に竦む間もなく、両の掌で柔らかな胸の膨らみを包まれる。

「……、っ、てぇ」

 本当は痛いのではなかった。優しく愛撫され尽くした胸は芯から凝って敏感になっている。さほど豊かではないが欲情に膨らみ張り切って、尖った先端の感触が重なる男を、ひどく喜ばせた。

「や……ッ!」

 ぴちゃっと音を立てて血を薄めた色に染まった乳首と、その周囲の膨らんだ部分を唇で覆う。

「ちょ、ヤ……、てめ……、ッ、も……」

 ちゅうっと本気で、激しく吸い付く男の舌の熱さにオンナが悲鳴を上げた。やめろ、ヤメロと繰り返す。が、嫌がって身悶える手ごたえに男は興奮して昂ぶる。

「ヤリやがったら二度とユルサねぇぞ、チクショウッ」

 体の芯までズキズキ響く刺激にやかれながら、苦し紛れにオンナが言った脅し文句は効いた。男は惜しそうに、嫌々、渋々、オンナの膝にかけていた手を離した。未練がましく左右の胸を交互に吸い上げて、そして。

「こんなに濡れてて、なんで厭なんだ……?」

 心から不思議そうに、切なそうに尋ねる。珍しい銀色の狭間は馴染んだ男の愛撫に反応して、確かに潤んでいたけれど。

「てめーが欲しくて濡れてんじゃねぇ。怪我すんのが、イヤな、だけ、だぁ」

 手足を引き寄せ丸くなりながらオンナは憎まれ口を叩く。よしよしと宥めつつ、男は背中を向けたオンナを背後から抱きしめた。しっとり湿った肌がすいつくようで、食べてしまいたいくらい、かわいい。

「この前の話、考えてくれたか?」

 腕と胸の中に女を閉じ込めながら囁く。

「いい加減もう諦めろよ、スクアーロ。お前が待ってる男はもう、帰ってこないんだ。……来れるならとっくに帰ってる筈だ。ツナが十代目を継承する前に」

 生きているならそれを阻止しに来たはずだと、金の跳ね馬が言う。オンナは答えず両手で耳を塞いだ。聞きたくないと、言っている仕草だった。

「現実を見ろ。俺たちはそろそろ、自分たちの次のことを考えなきゃならない年齢だ」

 男はオンナの手をはがそうとはしなかったが囁く声は止めない。聞こえているのは肩の震えで分かる。

「もう諦めろ。あいつは死んだ。お前はボンゴレ十代目の配偶者にはなれない。昔のことは忘れろ。諦めろ」

 あきらめろ、と、男は繰り返して。

「キャバッローネの十代目の妻で妥協しちまえよ。ボンゴレほどの規模じゃないが、札差の株も手に入れて、ずいぶん羽振りはいいんだぜこれでも。同じくらいの贅沢させてやるよ。俺がお前に甘いのは知っているだろ?むかしの夢は、もう諦めろ」

 優しく髪を梳いてやりながら。

「……俺が優しいうちにイエスって言っとけ」

 男が最後に低く凄んだ。それまでびくびくしていたオンナが動きを止め、そして。

「……ふ」

 笑い出す。おいおい、と、内心で呆れながら、男は口説を続けた。

「笑い事じゃねーんだ。マジもう、そろそろ、俺だって限界だ。俺が悪い男になる前に折れろよ」

「ふふ……」

「笑うなって。まったく。お前はなぁ、俺がどんなこと考えてるか、知らないから分かっているけどな」

「下取りの話でもしてんのかぁ?」

 腕の中でオンナが言った。図星を衝かれて男は息を呑む。それでもそうだと、かすれ声で答えた。

「罪人としてのままならって、言われた」

 沢田綱吉からではなく、このオンナを処罰したその前代から。

「結婚式もできない、籍も入れられない、子供を認知することも許されない、奴婢としてなら、って」

「はは……、らしいなぁ」

「笑い事じゃないだろ、スクアーロ」

「笑い事だぜぇ。もー慣れちまった。あのジジイはなぁ、俺がシアワセになんのが許せねーんだぁ。綺羅なんか飾らせやしねーよゼッタイ。てめーが俺を気に入って通い詰めてんのも、かなり気に入らない筈だぜぇ」

「お前のことを、廓の中から連れ出すにも条件があるって」

「手足きりおとせとでも言われたかぁ?」

「……愛してるぜ」

 男が告げる。この銀色のオンナの勘のよさと強さを、心から愛している。美しい女はこの世にごまんと居るけれど欲しいのはこれだけ。憧れを感じて同化したいと思う女は、いま腕の中に居るこれだけ。

「したくない」

「しねーでくれよぉ。イヤだぜぇ、オレは」

「そんな風にはしたくないけど、欲しい」

「井戸掘ってくれよ」

 寝床の中で珍しく、オンナが自分から、男にむかってそんなことを強請る。

「水道尻からの樋が古くなって、水が不味くて風呂も減ってよぉ、不自由してんだぁ」

 吉原のみならず江戸という街は洪積台地の先端部に存在し、水に不自由してきた。吉原も初期には上野あたりから必要な飲料水・生活用水を水桶で運び込んだ。

後年、仲の町通りの行き詰まりに掘りぬき井戸が作られ、そこから良水が出て廓全体に水樋で給水されるようになったけれど、裏通りの小見世にはその給水も豊かではない。その点、山本武の実家である寿司屋には太い樋で新しい水がふんだんに配水されている。その特権は、父親が昔むかし、この街の顔役だったから。深井戸を掘った時の発起人の一人。

「ん?」

「それもあって、外に部屋欲しかった。掘って部屋つくってくれたら言うこときくからよ、奴婢はカンベンしろぉ」

「いいぜ。深井戸掘ってやる」

 江戸は関東ローム層と、その下の青へなという粘土層に阻まれて水質が悪い。井戸を掘っても二十メートルほどの中井戸では掃除や洗濯といった用途に使う雑水しか手に入らない。上総掘りと呼ばれる、櫓を組んで地中に管を打ち込む方式で六十メートルも彫りぬいて青へなの下にある岩盤を貫けば、さすがに文句のない水質の自噴井戸が手に入るけれど。

「お前がここに、居たがる気持ちも、分からないじゃない」

 昔の仲間が何人も、この小見世に居る。罪人がまとめて処罰として放り込まれた場所でも、他のどこよりも安全といえなくもない。虐待を繰り返された子供が自室のベッドに引き篭りたがるように、この場所から離れたがらないのも、理解できないことではない。でも。

「いつまでも、昔の仲間と傷を舐めあってるのは、お前らしくないぜ?」

 男の言葉にはとげがあった。昔の仲間というのはつまり、昔の男に一緒に惚れていた仲間。死に子の歳を数えるように居なくなったボスのことをまだ想いながら、肩を寄せ合っているような様子が男には気に入らない。

「お前の言うことがぁ、全部正しいんだろーなぁ」

 男の腕の中でオンナが呟く。そうだと、男はオンナを撫でながら答えた。

「お前が一番聞きたくないことをズケズケ言って、おかげで最近、嫌われてたけどな。でも、オレが一番、この世でお前に優しいんだぜ?」

「一番、ひでぇよ。死にたくなってくる」

「子供を産め」

 祈るように男の掌がオンナの下腹に当てられる。

「産めよ。孕んだら寮(見世の別邸)に移って、そこで産め。子供は引き取るから。取り合えず産んどけ。後はまあ、あとのことでいい」

 今は正妻にすることが出来ない。けれどそう遠くない将来、状況は変わるだろう。

 居なくなった男が起こした反逆事件は、闇に葬られた。行方不明の男のことは既にボンゴレ本部でさえ話題にのぼることがない。十代目には別の人間がついて、そこままそう、息子を破滅させたという個人的な恨みを抱く九代目さえ目を閉じてしまえば。

「避妊をするな。俺以外の客をとるな。山本武と手を切れ。約束してくれたら、俺は悪い男にならずに済む」

「……なっちまえよ」

「スクアーロ。冗談を言ってるんじゃないんだ」

「俺だってそーだぜぇ?」

 オンナが笑う。今夜のうちでは一番、正直な声で。

「なっちまえよ。そしたら、俺も楽になれっからよぉ」

「……スクアーロ」

「んなことな、なった後なら、しょーがねーって、思ってくれっだろーからよぉ」

「自殺をしてもってことか?」

 男の声も、今夜のうちで一番優しかった。

「アイツに庇われて生きてんじゃなきゃよぉ、とっくに……」

 雨が降り出したらしい。雨音に紛れてそれきり、二人は黙り込んでしまう。