大型犬の告白

 

 

 

 経験はまぁ、ない訳ないだろう、と思ってた。

 ごくノーマルなつもりの自分にさえ、何度かそういうことはあったのだから。

ここでは昔、ひどい戦いがあった。命の危機を感じた男が、しようとするのはたった一つのこと。自分自身を、せめて残そうとする。隣に眠てる戦友ではその目的は果たせないけれど、それでも。

代用でも、擬似でも、しないと気が狂いそうだった。

 それは愛情じゃなく、もちろん恋なんかじゃない。時として甘ったるい気配が漂うことがあるにしても、それは情事に絡む反射みたいなものだ。証拠に戦場から後送される都度、兵士たちは皆、戦時手当を握りしめて女のいる酒場に走る。

 男には二種類の男が居る。戦場に行った事がある男とない男。命がけの戦地で、一番シビアに向き合ったのは俺の場合、自分自身の欲望とだった。生きたい。隣の奴を殺しても。

 一兵卒として従軍した戦争も終わり、不足した士官候補生を補給するために、マトモな頭の若いのは問答無用で、東方司令部管轄下に新設された士官養成学校に放り込まれた。俺もその一人だ。

 戦時には軍人の昇進が早い。軍中央の競争率からは嘘みたいな容易さで、俺は兵卒から士官への登竜門を越えた。中央の士官学校なら卒業と同時に少尉に任官されるらしいが、さすがに俺たちは卒業後、全員が見習い下士官として、中央士官学校卒の連中の下に配属された。この規格外たちをよろしく頼む、という訳で、仕込みを依頼されたエリートたちは気の毒だった。

 俺も、ビシバシとやられた。中央士官学校卒、童顔で美人な女性士官の下に配置された俺を他の連中は羨ましがったが、もちろんそんな、甘いモンじゃなかった。

幼年学校、十二の頃から軍隊育ちの彼女の日常は筋金入りで、軍中央のエリートさんたちを少し、舐めてた自分の認識をおれは反省した。優秀な人間は過酷な部署を任される。エリートはしんどい。

 自分より三十センチも小柄な彼女に、俺は見習いらしく、コーヒーを煎れたり書類を整理したり、送迎したり荷物を持ったり公用の護衛を勤めたりした。半年後、めでたく准尉に任官されて正式に当方司令部配属になった。

俺が見習うべく配属された女性士官は、東方司令部の実質上のトップ、国家錬金術師を兼ねるロイ・ムスタング、当時中佐の副官を勤めていた。彼女の推薦で俺は司令部勤務になった。だから、俺はやっぱり運が良かったのだろう。

雲の上の存在、現在は大佐になった焔の錬金術師に、俺が最初に会ったのは彼女の残業に付き合って、何杯目かのコーヒーを運んだとき。それは夕食後、既に四杯目くらいで、やり過ぎと自分でも思ったが、他に出来る事がなかったのだ。

『私はいいわ。中佐、どうぞ』

 彼女は司令室の執務室に居た。書類の山が広い部屋を隔てて、その向こう側で声がした。おぅ、とか、あぁ、とか、そんな風な声。

 コーヒーカップを載せた盆を持って、書類の山を廻っていくと、そこには偉い人が居た。高齢の将軍の下で東方司令部の実権を握る男。二十代の中佐。その人を俺はもちろん、以前から知っていた。でもそこに居たのは、俺が知っている司令官じゃなかった。

 中佐は仕事をしていなかった。少なくとも、俺にはそう見えた。広い机の周囲に書類は散らばっていたけど、どれにも目を向けていなかった。片肘を机についてそこに顎をのせて、じっと目を据えて。

 ひどく、暗い表情を、していた。

 俺が差し出した盆からカップを受け取って口をつける。味を分かってる様子じゃなかった。何かを深く考え続けてる顔で、俺には視線も向けなかった。

俺は中佐が飲み終わるまで待って、空のカップを受け取って下がった。その、背中で。

『まだ考えておられるんですか、あの兄弟のこと……』

 女性士官が司令官に、話し掛ける声を聞いた。

 

 司令部に馴染むにつれて、あの人のあんな表情は例外中の例外だと、俺にも分かった。当方司令部の焔の錬金術師は有能だがとぼけた、口の達者な男だった。切れ者である事は確実だが、部下に向けてはその切れ味を見せなかった。上官にしてはよく笑う方で、仕えやすかった。コーヒーを煎れればご苦労と、労わる一言は忘れない男。でも。

 それは擬態だ。俺は忘れない。最初に近づいた時のあの人の、ほの暗い瞳の翳り。長い睫毛の影まで落ちて、東方系の顔立ちが、どれだけ艶っぽく見えたことか。赤い魔方陣を描いた手袋は脱ぎ捨てられ、机の端に放り出されてた。白い指はちょっと、他で見た覚えがないくらいきれいで、洗い物やら洗濯やらに縁のない人生を思わせた。

 男には二種類の男が居る。自分の欲望を知っている男と知らない男。俺は知ってた。俺は暗くて凄いのが好きだ。多分、あんまり若い頃に戦争に行ったからだと思う。あの場所で俺は自覚した。俺は明るくて柔らかくて優しいより、怖くて悲惨な方がいい。後方とはいえ戦地の一角で、一晩に何人も相手をする年増の疲れた売春婦に、抱いた俺の欲望は激しかった。あれと同等の衝動は、平和な今では、抱きようがないって諦めてた。

 馬鹿な話だった。

 戦争は何処にでもある。今もほら、焔の錬金術師は何やら、コトを起こそうとしてる。どきどきしながら俺はそれを眺めた。悪事のお供は主に女性士官。でも一生懸命、つかえるうちに時々は、俺にも一枚、噛ませてくれるようになった。それは主に、女性士官の補佐としてだったが。

 俺は若くて健康だ。働く事は少しも苦にならない。選抜されて士官養成学校に行かされたぐらいだから、たぶん頭も悪くない。一生懸命やってるうちに、女性士官もたまには親しみを見せてくれるようになった。信用されるのなんか本当は簡単な話。こっちに誠意がありさえすれば。

 査定の時期が来て、中佐は大佐に、少尉は中尉に昇進した。半年遅れて、俺も少尉になった。なれて嬉しかった。権限が広がれば、できる仕事が増えるから。

 軍中央との連絡、現場小隊の指揮、管轄地区に住む錬金術師たちの研究報告、なんかに俺は走り回った。同期で少尉に任官された連中は何人か居たが、俺ほど司令部に食い込んでる奴はおらず、俺は美人の上官に身体で取り入って出世した、ことに何時のまにかなっていた。

 噂話を、俺は信じない。嘘ばかりなのをよく知ってるから。俺とホークアイ中尉はなんでもない。ちょっとは好かれてて、俺はかなり好きだが、俺の狙いは別の相手に向いていた。

『君は、いいなぁ』

 忙しいのを、俺は嫌いじゃない。疲労が溜まってくると俺の狙ってる人は少しだけ正直になる。目つきが剣呑で鋭い。そういう顔を、してる時が好きだ。見られるとどきどきする。

 その時、大佐が見ていたのは俺でなく中尉だったが。

『そうですか?』

 中尉も少し疲れていた。いつもみたいな、余裕が声になかった。

『上司に恵まれず、苦労していますよ』

『その分、可愛いポチが助けてくれているじゃないかね』

『あら……』

 思い掛けない、という顔で中尉は俺を見て大佐を見た。大佐は行儀悪く脚を高々と組んで、拗ねたような顔でそっぽを向いた。

『嫉いているの?ロイ』

 俺はビクンとした。その口調は、部下が上官に告げる口調じゃなかった。俺はうわさを信じていなかった。軍隊で、偉い指揮官が補佐や秘書や副官の女性に手をつけて、侍らせてるのは、よくある話だが。

『悪いかね?』

『わたしの男はあなただけよ、ロイ』

 俺の目の前で、中尉は堂々と言った。わざと俺の前で言ったのだ。

『……本当かな?』

 意地悪な口調で大佐がこっちを向く。口調は意地悪だったが機嫌は直ったらしい。目は笑っている。

『証明しましょうか?』

『ぜひとも』

 中尉が机から立ち上がる。大佐は椅子を引いて、組んでいた足を下ろす。椅子ごと横を向いて中尉を待った。中尉は伸ばされた腕に引かれるまま、軍服の膝に横向きに腰掛ける。

 目の前で、偉い大佐と直属の上官が口づけるのを、俺は馬鹿みたいに眺めた。唇が重なる瞬間、茶色の綺麗な目と黒い瞳が細められて揃って俺の方を向く。バチンと音がして何かと思ったら、大佐が中尉の髪留めを外していた。長い髪がはらりと散って、大佐の手袋に包まれた指で梳かれて、中尉の女の顔を隠す。無駄なことだった。俺は大佐の方しか見ていなかったのだから。

『……、ッ』

 くすくす、中尉が笑い声を漏らす。大佐の肩に額を押し付けて。大佐は優しく、中尉の髪を手ぐしで梳き上げて、元通りに髪留めでとめた。慣れた仕草だった。

 中尉が俺の方を向く。これは自分のものなんだと、その目は俺に言っていた。牽制と言うより挑発。

『……、彼はあなたに、懐いてみたいのよ』

 見抜かれていた。女性は聡い。隠せるとは、思っていなかった。

『こっちへ来なさい、ハボック少尉』

 俺は中座して部屋を出て行くべきだった。それが礼儀だった。でも出来なかった。敵に背中を見せられるかよ、という意地で度胸を、無理矢理きめて立ち上がった。呼ばれるのに近づく。大佐は中尉を引き寄せるように、手袋の掌で中尉の肩を抱く。

 そんなことには、俺は興味がない。

 中尉は大佐の膝に乗っていた。それは中尉には失礼だが、重石を抱えているに等しくて大佐は身動きできなかった。動けないのをいいことに、俺は無礼な真似をした。近づく俺をなんと思ったのか、大佐の両手が中尉の背中に廻る。白い手袋が眩しい。俺に彼女を、渡さないとでもいいたいのか。

『……、ッ、ツ……ッ』

中尉は笑う。背中全体を波立たせて。それに戸惑う大佐に向かって、俺は無礼な真似をした。中尉の背中を抱いてた右手を引き剥がして。

『……、なんだ……?』

 掴んだ手が、戸惑う隙に手袋を引き剥がして、裸の指先にキスを。

 大佐の戸惑った声と中尉の笑い声が重なる。

『好きです』

 俺は真っ直ぐに言った。大佐は意味を分かってくれなかった。俺の告白を、膝の上から中尉が。

『彼もあなたの膝に乗りたいんですって』

 完璧に補完してくれるまで。