大型犬の告白・2
そう、俺は彼の膝に乗りたかった。驚いた後で苦笑して、俺の告白も女性士官の補完も聞かなかったことにしたずるい人。それでいて忘れた訳ではなさそうで、証拠に俺をそばに寄せ付けるようになった。俺はまぁ、こき使われた。嫌なことじゃなかった。
「大佐、大佐」
中尉を通さず、じかに口をきけるようになって。
「大佐、中央から電話ッすよ」
それを取次ぐたびに、彼が微妙にゆれるのに気付いて。
「私だ。……お前か……。……、それしか言う事がないのか……」
口調はそっけない。表情は曖昧に笑ってる。でも指先が強張っているのを、俺は我ながら目ざとく気付いた。いつもこの人の手ばっかり見てたせいだ。受話器を持っていない方の指先が落ち着かない。ペンを廻したり襟の階級証を撫でたり。
「……、あぁ……。……、そうか……」
通話の内容は殆どがムダ話。その合間に、ほんの少しだけ、そうじゃないネタが混じってるらしい。電話を切った後、彼は時々、執務室で考え込む。そんな時には俺が好きな顔をした。
邪魔したくなかったから無言で机の端にコーヒーを置く、ことにもちょっとずつ慣れて。他の側近にさせないことも俺にはさせるようになった。私用の送迎とか、街の店に買いに行く、昼食用のジャンク・フードとか。彼の指は貴族のものだったけど、生活はかなり俗っぽく、中央から二日遅れで東部に届くゴシップ誌を月に二度、買いに行かされるたびにますます好きになった。
もちろん、司令部で必要な新聞や情報誌は中央の印刷所から直接、発売前に特急列車に積み込まれ当方司令部の、彼の机の上に乗るのだが。
「面白いッすか?」
そっちには手も触れず、買って来た安い印刷のグラビア誌を、捲る人に声を掛ける。まぁなと、返事はセミヌードのグラビアごしでいい加減だったが、中綴じのその本を掴んだ手は動かなくて、かなり真剣に読んでるって分かる。
中央の歌手や水商売の女性たちの、華やかな醜聞、高官とのゴシップ、時々は無茶なでっち上げ、フレーム・アップで部数を伸ばしてる、俗っぽい写真週刊誌。
「叱らなくていいンすか、中尉?」
俺が一緒に市場から買って来たフィッシュ・アンド・チップスは匂いでバレて彼女に没収された。路上の食べ物は不衛生だから食べてはいけませんと、母親が言い渡すような宣告にしゅんとなった彼が可愛かった。彼が食べられなかった新聞紙に包まれた不衛生なフライは、
「まぁいいでしょう。お腹を壊すわけではないし」
口紅を塗っている様子もないのにほんのり、ピンクの唇にぽんぽん放り込まれ、咀嚼され飲み込まれていく。ポテトを口に運びこむ彼女の指も、俺はかなり好きだ。安い油で汚れていたから、彼女が最後のタラの切り身を食べ終わるのを待って、
「はい」
ティッシュを差し出す。正確に言うと、何枚か引き出したティッシュを持った自分の手を。それで彼女の手を拭った。右も左も人差し指がおっそろしく硬い。射撃部隊のエースと比較して遜色ない腕前の彼女は当然、連中と比較しても見劣りしない指をしてる。両手とも第二関節から先が左右に歪んでて、それは銃掴を握りやすい形。
熟練は最終的に、自分自身を目的にあわせて改造してしまう。
「ありがとう。美味しかった。代金は?」
「大佐に貰ってます。お腹に気をつけて。不衛生ですから」
「雨水飲んでも草を噛んでも、腹を壊したことはないわ。煮沸蒸留水飲ませていてもふらふらしてた、そこの人と違って」
「……、へぇ……」
そんなことがあったのか。いつの話だろう。東部内乱の時かな。あの時は、苦戦だったけど補給線はかなり確保されてた。士官学校卒の女性士官が、餓えて草を噛んだようなことはなかったろう。いやでも戦線は広かったから、俺が知らないところでは悲惨だったかもしれない。
「これから俺も気をつけます」
コーヒーも、ちゃんと手を洗ってから煎れようと思っていたら。
「あれは神経性だ」
雑誌の向うから抗議の声。
「それに下したんじゃない。食べられなくなったんだ」
「はいはい」
おやつを食べ終えて再び、中尉は午後の仕事に向かう。大佐はまだ、じっと雑誌を眺めてて、それを咎めない彼女に抱いた違和感は。
半月後、正しかったことが証明された。
次号を買って来た時、ついでに中尉にフィッシュ&チップスと、彼と俺には悩んだ挙句に、ココナッツ・プリン。中央からの直送で、東部では珍しかったし、きちんとラップされて衛生的に見えたから。
差し出した本を、彼は受け取ってページを捲っていく。最初から最後まで、そして最後からもう一度。二往復して、溜息をついて、雑誌は机の上に放り出された。グラビアの美女が俺に向かって笑いかける。
「また居なくなったよ」
「少尉がおやつを買って来てくれています。お茶にしませんか?」
もちろん、費用は大佐の財布から出ている。買い物に行く前に毎回、一番でかい額の紙幣を渡されて、釣りを催促されたことはない。偉い人の周囲には役得が落ちてるもんだが、俺にはこれが一番大きかった。はっきり言って、生活費に余る。
「召し上がって元気を出してください」
彼の前に、あぶらじみた新聞紙が置かれる。偉い人は食欲がなさそうだったけど、中尉の笑顔に促されて手を伸ばす。もともと好物なんだろう。食べ出したら、その手は止まらなかった。
中尉は笑ってココナッツ・プリンに手を伸ばす。彼女がこっちを好きなのか、それとも、俺がわざわざ、彼と同じ物を自分にも買って来たことが気に触ったのか。
ティッシュの箱もわきにひきつけて離さなかったから、後者だ。
その日も、中央から電話がかかってきた。彼は相変わらずの態度で相手をしてた。けど。
「そういえば、……、が最近、面白くないな」
珍しく自分から話題を振る。俺がお使いに出されて街から買って来た週刊誌の名前。
「……、放っておけ、愛読していたんだ。……、ふん……」
世間話の裏側で彼が何を話してるか知りたかった。中尉に聞けば教えてくれたかもしれないが、俺にも意地があったから自分で調べた。彼が読み終わった雑誌は廃棄の箱に入れられて、宿直室あたりで廻し読みされる。前号、その前、その前の前。
消えた連載記事と記者。名前を変えてゴシップ誌に身を売っていたけど、以前は中央誌の主筆で。
イシュワール殲滅に反対したせいでそこを追われた男、だった。
それを調べるのに二日かって、三日後、中尉に、そっとカマかけてみたら。
「熱心な記者だったわ。従軍中に、私も取材を受けた。子供を産む女性の立場で、子供まで惨殺する今回の戦争をどう思いますかって聞かれて困ったから、よく覚えています」
「なんて答えました?」
「殺人の罪は女の方が重いとお考えですかって、聞き返したわね」
「やりますね」
「アナクロな男だった。でもまぁ、女性蔑視なんて可愛い罪」
あの戦場で流された血の量に比べれば。
「大佐も取材を受けられたんですかね?」
「知らないけれど、目だっておられたから、或いは」
「……、ふーん……」
間近で眺めているうちにべらべら、無造作に捲れていく、下には思ったとおりの形があって。
「中尉、俺が大佐のこと、口説いたら怒ります?」
尋ねると目を細めて彼女は俺を見た。皮膚の薄い、肌のきれいな人だ。茶色の瞳の中に怒りの色はない。物分りの悪い子供か子犬を、優しく諭すように。
「あなたがロイの子供を産んだら」
柔らかそうな唇が動く。
「あなたを殺して子供は私のものにするわ」
こっちもいいなぁと、俺は心から思った。
彼女のことも、俺は大好きになった。