大型犬の告白・3
軍隊の、偉い人には私生活がない。当方司令部のマスタング大佐も例外じゃなくて、司令部と官舎を往復することが生活のほぼ、全てを占めている。勝手な一人歩き、夜の街に遊びに行ったり映画を見たり、そんなことは出来ない。特に東方の、内乱は鎮圧されたとはいえ情勢の不安定な土地で、上級軍人はテロの対象になりやすく、不用意な一人歩きは本人のみならず周囲にも大迷惑。
外から眺めるより彼はそのへん、物分かりが良かった。実戦経験豊富な軍人はさすがに危機感が違う。デートと称しての外出は大抵、ヤバイ相手との内緒の会合だったが、そういう時も公用車の送迎は欠かさない。もちろん、お供は大抵が中尉で、俺はごくたまに。
中尉と大佐がいつ寝てるのか、俺にはなかなかわからなかった。中尉は早番・遅番・夕勤・夜勤と入り乱れるシフトを華麗にこなして、忙しい時は仮眠室で寝てる。女性士官用の仮眠室は司令部の中庭近く、日当たりのいい場所に建つ女子休憩室の隣で、とても情事に転用できる立地条件じゃない。壁一枚向こうはロッカーだ。
大佐の執務室には続き部屋で仮眠室がある。あるにはあるが、そこに時々、転がっている偉い人を起こすのは俺の役目だった。部屋に入ればそこでセックスがされてるかどーかぐらい分かる。俺の嗅覚には、そんな匂いは、一度もひっかからなかった。
あんまり気配がないから、この人たちって本当にヤってんのかなぁと、疑ったこともある。実際、大佐に近づけば近づくほど、同僚たちは二人の噂を信じていなかった。うまく騙してるなあっていうのが、俺の感想だが、途中からもしかして、俺の方が騙されてんじゃ、って気になった。
俺が気付いた気配は一度だけ。
「……遅くなったな」
デートと称した、ホテルのレストランの個室で。得体の知れない初老の学者風の男と密談していた彼からホテルの玄関へ車を廻せと、ベルボーイを通して連絡が入ったのは午前二時。
「いいぇえぇー、勤務中ですからあぁー」
嫌味たらしく語尾をのばしても、返って来たのは苦笑だけだった。顔をみればセックスした後かどうかはすぐわかる。髪形も服装もばっちり整えられてはいたが、柔らかく暖かそうな血色は隠せない。幸福な優しい情事の後の顔。まさかあの学者とじゃあるまい。
夜勤だった俺は大佐を感謝まで送ったあとで司令部に戻って勤務につき、翌日の昼前、遅番だった中尉に事務引継ぎをした。頷きながら俺の報告を聞く中尉の、うなじにも耳元にもあとはなかった。でも肌全体がきれいなピンク色で、昨夜は美味しくハライッパイに喰ったと、頬の色艶が証明してた。
「……、ちぇ……」
嫉妬というほどの深さも真剣さもなく、敢えて言えば、
『俺だけ仲間はずれにしてズルイ』
という程度の気持ちで、俺は私服に着替えて司令部を出る。尉官昇格してからは寮を出て、司令部近くの民家に下宿していた。そこのオバサンは料理が上手で、部屋は古いけど広くて、俺はかなり、快適に暮していたが。
ふと。
あの人はどんな部屋に暮しているのかな、って。
気になった。見たくなった。俺は玄関までしか入った事がなかった。その日、大佐は休みで官舎にいるだろうことは分かってた。俺は私服のまま送迎で通い慣れた道を辿っていく。天気のいい日で、官舎は司令部に近く、途中の市場で目に付いた屋台の、中華粽を買って立ち寄っても一時間とはかからない距離だ。
衛兵が立っていた。俺の顔を知ってはいたが、私服を不審がった。内線で大佐に連絡をとってもらう。約束をしていなかったから、彼は何しに来たとか、そんなことを言った。
「うまそーな粽があったんで」
買ってきましたと告げる。ちょうど昼前だった。食欲に負けた人は入れと俺に言って、衛兵は敬礼して俺を通してくれた。中には当番の警護兵が居てドアを開け、そこでも一応、身分と指名を確認されそうなーになったが。
「いい。馴染みだ。通せ。それとコーヒーを二つ」
長くて暗い、廊下の向こうから声がする。初めて見た私服姿の彼は、実に見事にくつろいで、パジャマ姿だった。
「お茶の方があいますよ。にしても、サービスいいっスね」
「なにを言ってるんだ」
「寝てました?一緒にも一回、寝ません?」
「起きていたと言っているだろう」
素足にスリッパを穿いてぺたぺた、絨毯の敷かれた廊下を歩いていく。髪はセットされてなくて、彼が歩くたびに、柔らかくて薄い生地ごしの身体の線が見えて困った。両開きのドアを押し開けられた部屋の内側は書斎らしく、本や紙が散乱していた。
寝室じゃないことにがっかりしながら、それでも初めて、目にするプライベートにどきどきする。ソファの横のサイドチェストには内線用らしい電話、その隣にはよみさしの本。金文字のハードカバーで、タイトルがナンて書かれてるか俺には分からない。そこへ従卒がコーヒーを二つ持ってきて、彼が多分、今まで横になって自堕落に本を読んでいたんだろうソファに腰をおろし、簡単な包みから竹の皮に包まれた粽を出す。湯気のたつそれに、一緒にかぶりついた。彼は腹が減っていたらしい。はぐはぐ、食べていく。
「具合、悪いんですか?」
「悪いように見えるのか」
「食欲はありそうに見えますが」
「服装のことなら、私は家では、いつもこれだ」
「……、衛兵になりたくなりましたよ」
俺をソファに座らせて、彼は部屋の隅から椅子を引っ張ってきた。偉い人なのにあんまりらしくない。物凄くきれいな指をしてるけど、贅沢な暮らしぶりじゃない。今も柔らかな、肌触りの良さそうな綿のパジャマ、モスグリーンの無地と白の縁取りは、よく似合ってるけど、何処でも売ってありそうな代物で。
「触っていいですか」
「ダメだ」
「せめてどこにか聞いてから返事してくださいよ」
「ろくでもない所のような気がする」
「どこなら触っていいッすか?」
「ハボック少尉」
「イェッサー」
「君は何かを勘違いしていると思う」
「なにかって?」
「私に関する噂を私も、それなりに知っているが」
「軍中央で某将軍の奥方を寝とって、東にトバされたってのはガセですよね」
「ガセだ。率直に言って、俺は情事には自信がない」
「うわ……」
「どうした」
「直球できましたね。……ちょっと、タンマ」
「……なんだ?」
「動悸が治まるまで続きは待ってください」
「幻想に付き合ってはいられないんだ。君が噂を真に受けて」
「どれのことッスか?出世に身体使ってきたとかいうあれ?」
「そのへんを真に受けて、私に愉しませて欲しいのなら間違っている」
「必要ないですよね、そんなの。国家錬金術師兼務だと、問答無用で即座に佐官でしょ?それから内乱、終息時には従軍してた軍人は全員が昇格したから中佐、それから五年たって大佐。妥当な経歴だ」
なんせあの戦場では塹壕を掘ってた俺が今、一応は士官なんかになって、兵卒からは少佐殿なんて言われて司令部をうろついているんだから。
軍中央の偉いのに、カラダを使って出世なんか、するまでもない実力者。そんな真似して『出世』できるのは兵卒の女兵士か後方勤務専門の事務官くらいだ。この人の場合はかえって邪魔になると思う。
「我が軍に軍人の性的性向を規定する条項はない。軍務規約がない場合は一般法に準じるわけだから、同性愛は個人の嗜好の問題だ。合意の自由意志ならな」
「口説くのは自由ってことッスよね?」
「それをご遠慮申し上げているのだよ、少尉」
「要するに、男とはセックスしたくないってことですね?」
「そうだ」
「嫌ならしませんよ。当たり前でしょ。でも時々、メシ買ってお訪ねするくらいいいでしょ」
「……、あのな」
「レイプの隙を狙ってんじゃないですよ」
負けないように、俺も露骨に言ってみた。
「触りたいけど、犯したいんじゃない。分かってくれますか?」
「そんな嘘を真に受けるのは女性だけだ」
「じゃ、好きだからなんでも言うことききます、ってのは?」
どうですかと尋ねる。彼は、よく分からない顔をした。そういえば以前、ホークアイ中尉に挑発されて告白した時もぴんとこない顔をしていたっけ。
「今もこんなに近いのに触ってないでしょ。触るなって言われたから」
手を伸ばせば無防備な肩に触れるのに。
「言いつけてくれれば何でもしますよ。お使いでも中尉とのデートの手配でも、寝ずの門番でも、運転手でも塹壕掘りでも」
「それは君の仕事だろう」
「勤務時間外でも、二十四時間受け付けます」
「……おかしな奴だ」
困ったらしい。苦笑しながら前髪を掻きあげる指先が白い。手袋はなくて、爪の色さえ薄く見えるのは軍服を着ていないからか。
「だって、好かれたいから」
好きになって欲しいから言うことをきく。それは自然な気持ちだと俺は思ったけど。
「服従と好意は違うだろう」
ビシッと、厳しい声が返って来る。なにやら気に障ったらしいが、ここで謝るのが逆効果だというくらいは、俺にも分かった。
「同じですよ。男だから」
言いながら証明する。ソファから立ち上がって、警戒される前に床に膝をつく。柔らかな絨毯に両手もついて、そして。
「……、帰れ、馬鹿者」
俺はやっぱり、彼を好きだった。
手足を床について、殆ど降服に近い姿勢で、そっとスリッパを外した足の爪先に唇を差し出すのが、少しも屈辱じゃなかった。
触れる前に脚が動かされて、桜色した爪には触れなかったけど。軍靴に慣れた軍人の足にしては爪がきれいに伸びてる。勤務中以外は素足でいるのが多いんだろうなって、俺はそんなことを考えた。
「はい。では、また明日」
立ち上がって敬礼。返礼はいい加減だったけどしてくれた。見送りはしてもらえなかったから自分でドアを開けて出て行ったけど、振り向いた部屋の中で、彼はソファに仰向けに転がろうとしてた。休日なのにパジャマを着たままで、この部屋で難しい本を読んで過ごすのか。それもまぁ、楽しいかもしれない。
組まれてソファから放り出された足の、裸の指先に、懐きたいなと思いながらドアを閉める。長い廊下を歩いて門を出ると、見張りの衛兵がちらっと俺の服装を確認した。中で彼とナンかいいこと、してたと思ったのか?
全くしなかった訳じゃなかったけど、服従を証明したのより、俺には得た情報の方が重い。男とセックスしたくないのか、怖いのか、服従と好意は別って思っているのか。それは女性の発想だ。若しくは男に支配される側の。
やっぱり噂は、どっかで事実を掠めていくんだろうか。好意じゃなくて服従をしいられて、誰かの膝に無理に乗せられたことがあるのか?とりあえず今現在、進行形で男が居ない事だけは確実。
処女のつもりで口説いた方がいいか、いやでも経験ありなんだったら、てっとり早く機会をみつけて、身体で証明しちまうか。考えながら歩いてるうちにふと、俺は重大なことに気がついた。
俺は、処女もそれ以外も、そもそも女性を、いや男も含めて。
『口説いた』経験が、一度もなかったのだ。
彼の警護の、シフトに入れて欲しい、と。
俺が頼んだとき、中尉はまじまじと俺を見た。あんまり表情は動かない人だが瞳の色には虚偽がない。よく見ていれば分かる。この顔は驚いている。
「……、大佐に聞いたの?」
なにをですか、何にも知りません。ただ昨日、大佐に会いに行ったらパジャマ姿で、あれが見れるなら宿直もいいなって思っただけです。俺は独り身の一人暮らしで、警備の役目には向いた身の上でしょう?
「その通りよ。大佐の警護のために、専用の部隊をつくる予定があります。あなたは隊長の最有力候補です。交代勤務で三十人くらいの小隊だけど」
今度は俺が呆然とする番だった。なんて好都合な展開。
「辞令交付は、予定より早くなりそうよ。特に用意は必要ないけれど、泊り込みが増える可能性があります」
「中尉は、いいんですか?」
俺が大佐の近くに行くのを、彼女は少しも警戒していない。どころか俺の勘違いじゃなけりゃ、応援というか、近づきやすく、してくれる。
「私が宿直は出来ません。司令部に泊まらなければならないことが多いし、単身の男性上司の官舎に女性兵が泊まることは内規で禁止されています。緊急時以外は」
単身というのは独身と意味が違う。妻子もちでも妻子と同居しない単身赴任なら、女性の警護を宿直させてはいけないのだ。中尉の正確な表現に俺は脱帽したが、それどころじゃなかった。
「俺が大佐のそばに行ってもいいんですか?」
彼女の態度が俺には不思議だった。だから尋ねてみた。中尉はじっと、俺を眺めて、そして。
「ロイが誰を手に入れようが、私は平気」
女の人の顔になって、俺に本当の言葉を。
「あの人が自分自身を差し出さない限りは」
聞かせてくれた、理由はなんだろう。俺に事情を察しろというのか。
「……、大佐、男、居るんスか?」
気配はない。でも気配だけじゃわからない。
「そいつを中尉、お嫌いなんですか」
「よくできました」
澄ました顔で微笑む、なんていい女だろう。こんな女を、俺は今まで知らなかった。正直に、胸がときめく。ここには静かな激情が渦巻いて、俺もそれに、一枚噛んでいる。戦争ばかりが暗いわけじゃなく、戦場だけが罪深いのでもない。自分の男に俺を食いつかせて、別の相手から引き剥がそうとしている、彼女は見事な悪党。
俺は、暗くて悪くて、悲惨で悲しいのが、好きだ。