大型犬への告白・2
「どうぞ」
こっちにグラスを持たせようとする男をソファに座らせて、持たされたフルート形のシャンパングラスを逆に持たせる。驚いて瞬きを繰り返す男の目の前で、発火布で覆ってからシャンパンの栓の、頑丈な針金の封を解いてポンと音立ててコルクを抜く。布の内側に当った感触も金髪の男の髪が日差しに輝くのも、何もかもが愉快だった。
「飲め」
とくとく、シャンパンをグラスに注いでやる。
「……、はぁ……」
よく分からないながら、男はグラスに祝福の酒を受けた。黄金の泡がグラスのくぼみから一筋にたちのぼる。それが無限に連なる錬成陣に見えて愉快に拍車をかけた。
「あの……」
男の手が私の持つ瓶を受け取ろうとして伸ばされる。離さず、飲めと男にもう一度いった。乾杯の必要はない。
「お前は偉い」
説明抜きでそう言うと、よく分からないながら褒められたのは分かったのか、はぁともう一度、答えて男は素直に飲み干した。あんまり味わう様子じゃなかったが、
「美味いッすね」
「そうか。もっと飲め」
「はぁ、どーも」
「お前は本当に偉い」
毎日食べている朝食の卵焼きで、俺を真理に導いた。
「……、えぇと、その」
「もっと飲め」
「いただきます」
「お前は世界で二番目に偉い」
一番は無論、朝食の目玉焼きに真理を見つけた私だ。
「……、よく分からんのですが、大佐」
「もっと飲め」
「ご機嫌そうなところでお願いです。……、触っていいッすか?」
「いいとも」
答えながらもグラスにシャンパンを注ごうとしていた私の手を、瓶の先を掴むことで男は引き寄せた。手袋は最初からしていない素手を、手にしてじっと、眺めていたが。
「……、こう……」
掌を包むように持たれて、軽く丸められる。指をあわせて窪んだ掌に、男は自分で私から奪ったシャンパンを注いだ。
そうして私の、掌を捧げるようにして。
「……、くすぐったい」
顔を伏せ、炭酸性の液体を舐めとる。
それが性的な行為の暗示だとは分かっていたが、不快感はなかった。「犬だな、お前」
「ポチって呼ばれましたから」
「こんな飲み方で美味いのか?」
「東部内乱の時の」
「ん?」
「ずっと泥水ばっかりで、二日ぶりに飲めた真水より美味いです」
「……そうか」
「お代わり」
「あぁ」
掌の窪みに、瓶からシャンパンを注ぎ足す。本当に嬉しそうに美味そうに、若い男は私の掌からそれを飲んだ。ヘンな男だ。おかしいくらい可愛げがある。残りを全部、飲み終えて。
「知ってます?」
伏せていた顔を上げる。濡れた口元をパジャマの袖で拭ってやった。なんとなくそうした。
「犬って、好きな相手の口元、舐めたいんですよ」
「舐めたいのか?」
「凄く。舐めていい?」
「好きにしろ」
キス、と言われなかったからだろう。嫌悪感はなかった。相手が男というより犬みたいな気がしたせいかもしれない。明るいけなみの一途に懐いて来る、犬は可愛かった。今更同性の、こんな若い男を腹に乗せる気はなかったが。
「……」
唇を合わせる。だがこれはキスじゃない。男の手が私の肩にかかる。だがこれは抱き合っているんじゃない。そっと、そぉっと、丁寧に、その手は私を柔らかな絨毯に押し倒した。もう一方の手が後頭部に添えられて、貴重品みたいに細心の注意を払って、横たえられた。
いつの間に手にとったのか、コルクを包んでいた発火布が顔の下には敷かれていた。
それからほんの少しだけ。少しだけ触られた。頬を寄せられてくすぐったい。そのまま頬が胸に降りていく。明るい色の髪が肩に触れる。なんだか可愛くてその髪を撫でた。
「……大佐……」
俺の手を犬は掴んで、指を絡める。その瞬間に、違和感が肌を走る。その感触は、一瞬後。
「……、好き、です」
囁かれる言葉とともに、もう一方の手で頬に触れられた、途端に生々しく膨れ上がる。ゆったり床に伸びてきた私がいきなり起き上がろうとしたから、上にのしかかってた男は驚いた。そうして多分、反射で押さえ込もうとした。
「……なに、どーしました?」
何でもない。なんでも、ない。
『男』の気配にカラダが竦んだなんて、そんなことは、ない。
「どうか、しましたか?」
頬を掌で包まれる。もう一度、唇を舐められた。キスではなかった。証拠に触れたのは、奴の舌先だけ。押さえつけた手は離れていた。無邪気に見せかけて、こっちの反応を敏感に読んでる。
「……、お前、案外……」
「はい?」
「いや……」
言いよどんだ言葉を、口元を舐めていく犬は促そうとはしなかった。案外、知能は高いらしい。こっちの緊張が緩むまで舐め続けて、二度と両手は使わなかった。
「……、終わりだ」
舌が口元から喉を伝い降りて、パジャマの襟の隙間を探ろうと、する。金色の頭を軽く叩くと、イヤイヤと左右に振られた。舌は一旦おさめたが、もう少し、もうちょっと、そんな感じに頬が寄せられる。両手は床につかれたままで、あくまでも、それでは触らない。
「こら……。言うこときかないと追い出すぞ」
脅すと犬は名残惜しそうに、胸元に頬を押しつけてから離れた。起き私は上がって、ずれたパジャマの上着をなおす。男の手が伸びて髪を梳いてくれた。なんだか恋人同士のペッティングの後みたいで、妙な気持ちだった。
「大佐」
「非番だろう。もう、行け」
「好きです」
「はいはい」
分かっている、と続けようとした言葉は。
「……、ッ……っ」
途切れる。いきなりの、攻撃。
さっきまでは触れようとしなかった手に、きつく強く、顎を包むように掴まれて。
「……、な……、せ……ッ」
隙間で告げたが、床に仰向けにもう一度、倒された後ではその隙間もなくなった。歯が当る。顎骨が軋む。無様なほど、もう完全に開かされて噛みこまれてるのにそれ以上に、何かを求めてくる。……、痛い……。
無意識に床を探った。自分で見つけるより早く、違う手が私の指先にそれを運んだ。さっきまで顔の横に敷いていた発火布。
苦しさに滲んだ視界を持て余しながら目を開けると、輪郭のぼやけた若い男の顔が見える。表情は近すぎてよく分からない。ただ、その目がおそろしく真剣なのは分かる。敵意と見まがうほど。
押さえ込んでいない方の手が私に発火布を渡す。気に入らなければ燃やせと自分から。……、バカな……。
部屋に入れたのも、最初に触るのを許したのも私だった。これは多分、自業自得というものだ。目の前の男が私に対して特殊な、おかしな気持ちを持っていることを分かっていて挑発した。
渡された発火布を手放す。いいのか、という風に男は目を細める。こっちの真意を探るような気配があった。私は目を閉じ、身体の力を抜く。なんだかもう、なにもかも馬鹿馬鹿しい。
抵抗がなくなったからか、男は指の力を抜いた。被さっていた体の重みも軽くなって、そのまま、離れていく。
「……」
距離をとられて真意がつかめずに、とりあえず口元をパジャマの袖で拭って顔を見ると。
「……、すいませんでした」
蚊の鳴くような細い声。さっきまでの勢いはどうした。コロコロ態度の変わる奴だ。
「帰ります。……、すんませんッした」
立ち上がって、頭をフカブカと下げていく。足もとが危うい。
「……」
ドアが閉まる。なんだった、今のは。……嵐か……。
ほっとして起き上がる。ほっとしたつもりだったが、起きた途端に腰骨の置くがズキンときた。あの馬鹿があんなキスをしたせいだ。キスで痛かったのは久しぶりだった。本当に久しぶりだ。
セックスじみた触れ合いも。
床に座り込んで片手で顔を覆う。それは自分自身に対するポーズ。参ったな、という感慨は欲情しかけた本能に対してではなくて。
……生々しかった。
私はおかしい。本当におかしい。性欲を司る本能が歪んで壊れている。証拠に、私はリザや、時々は他の女性たちを、抱く、あれがセックスとは、あんまり思え、ない。
優しく柔らかく暖かい、あんなのはセックスじゃない。気持ちよさと悦びに満ちた、あんなに幸せなのは、自慰。
男のキスは痛かった。セックスは多分、きっともっと痛い。そう思うだけでズキンと、萌しかけた熱が深い場所で脈打つ。
久しぶりにあの匂いを嗅いだ。欲情したオスの匂いだった。
男に。
ベッドに誘われたことは何度もある。だが襲われたことはなかった。礼儀正しく手をとって口説かれると、私は苦笑してとられた手を取り戻すしかない。容姿や性質に対する褒め言葉、私を好きとか愛しているとかの告白、私に何か有利なことをしようという申し出、そんなものは私にとって、セックスの要素ではなかった。
男の匂いを思い出す。
本当に久しぶりの、恐怖に近い鮮烈な刺激。
……、知っているか、少尉。
お前が抱きたがっている上官はすれっからしの使い棄て、マゾで淫乱な年増女だ。