初恋・11

 

 

 

 失神というほどでもないが混濁していた意識が、ゆっくりとはっきりしていく。

「……」

 オンナがベッドの枕元に置いた非常用通信機のライトがぼんやりと室内を照らしていた。そこは見慣れた部屋。気難しいボスの寝室にこの銀色はズカズカと入り、ボスを起こしたり礼服に着替えさせてボンゴレ本邸の式典に出席させる為に部屋から引きずり出したりしていた。

オトコのプライバシーの奥までずかずか、無造作に踏み込んでいた事は否定できない。女房気取りといわれればその通りだった。けれどもその部屋を、天蓋つきの豪奢な寝台のナカから眺めたのは本当に初めて。

「……」

 自分の手足が何処にあるのか最初はぼんやりしていてよく分からなかった。ふかふかのベッドの中、上等の絹毛布は肌触りが素晴らしくて暖かく心地よい。けれどいつまでもそうしている訳にもいかない。肘と膝を曲げてみる。ちゃんと動いた。カラダが何処にあるのか分かった。

 ぐっと力を篭め勢いをつけ起き上がろうとする。出来なかった。すぐに戻される。シーツの上に。腰に廻された腕に引かれて、背中から抱きしめられていた懐の中へ。

 怖くて、群色は敢えて、そちらには意識を向けていなかった。

「あ……、の、よぉ」

 オトコは何も言わない。言葉にしては何も言わないけれど意思はいつでもはっきりとしている。行くなと言われている。

「あ、の……、」

 なんとかそこを誤魔化して抜け出したがっているオンナに。

「なんだ」

 オトコはまっすぐに答えた。はっきりとした声で。最初から眠っていなかったらしい。オンナが目覚めてもぞもぞと身動きしていた間も、じっとオンナを抱きしめていた腕の持ち主。

「だから、その……」

 言葉を捜して、オンナは口ごもる。要求したいことは簡単。腕を放して欲しいのだ。ここから逃げ出したい。自分の部屋に帰って、ぐちゃぐちゃになってしまった気持ちとずくずくにされたカラダを癒したい。自分をそうしたオトコから離れたい。距離をとりたかった。

「……便所」

 口から零れた逃げ口上にオトコが苦笑したのが分かった。それでも行くなとは言わずに腕を解いてくれる。

オンナは起き上がった。脱がされて床に落ちた服を拾っては着込んでいく。続きのサニタリーへ行くだけにしては厳重すぎる身支度に、逃げようとしていることをオトコは察した筈だが、それに関しての言及はなくて。

「言いたいことがあるなら聞くぞ」

 ベッドの中で姿勢を変えて服を着ていくオンナを眺めながら、オトコはその気性からは珍しいことを言った。他人の話を聞く性質ではなかったのに、銀色のオンナから何かを言わせようとしている。

「別に、ねぇよ」

 スラックスのジッパーを引き上げながらオンナは答えた。足腰に違和感はある。けれど馴染んだものだった。半日もすれば消えるだろう。それほど酷い抱き方をされた訳ではない。

「……そうか」

 オトコの方こそ何かを言いたそうだった。けれどオンナが聞きたがっていないことを察して口を噤む。部屋を横切り出て行く背中へ、そっちのドアじゃねぇぞと嫌味を言うこともなく。

「明日は起きなくていい」

 嫌味どころか優しいことを告げる。ゆっくり眠っていろ、と。

「昼までに、オレにカフェだけ持って来い」

 その要求は聞き流せずに、銀色のオンナはドアにかけていた手を止める。恐る恐る、という様子で振り向く。ベッドの中のオトコとばっちり目が合った。枕に片肘をついた斜めの姿勢で自分を見送っている。艶やかな黒髪の下でルビーのように深く赤く、沈んでいるのに澄んだ色の目がじっと自分を眺めている。

「あ……」

 眺める目には慈悲があった。そうとしか呼びようのない確かな愛情が。振り向いたオンナに少しだけ笑いかけ、片手で毛布の端を持ち上げる。来るか、と、まるで子供を誘うように。思い直して一緒に眠るか、と。

「……おやすみ」

 オンナはその誘いには乗らなかった。けれど物凄い引力を感じた。何も考えないガキの頃なら誘われるまま飛び込んでいただろう。好きなようにされた復讐に勢いをつけて体ごと、体当たりに近い勢いでぶち当たっていたかもしれない。

 けれどもさすがに、もうそれほど天真爛漫ではなくなったオンナは静かに、そっと部屋を出た。押さえつけられてのセックスを、従わされた夜のことを結局、オンナは糾弾しなかった。

 

 

 翌朝。

 食卓に、銀色の鮫は出てこなかった。その理由を誰も尋ねなかった。ただ、食事が終わって、銀色の鮫の変わりにカフェを渡しながらルッスーリアが、そっと。

「お食事、お部屋に届けましょうか?」

 彼らのボスに尋ねる。嵐の後の朝、冬には珍しいほど明るい朝日を浴びながら、好みどおりの分量でなくとも文句を言わずに口をつけているボスは顔色がいい。

「自分の部屋に戻った」

 シンブルにだが、顔に傷のある男はそう答えた。そっちに食事を届けてやれと言っている。ああやっぱりと、オカマと王子様は思った。レヴィは意味がよく分からない様子で居る。カフェを飲み終えてザンザスは席を立つ。カチャカチャ、ルッスーリアが汚れた食器を片付ける。王子様がそれを手伝った。銀色が居なかったから。

「やっちゃったのかな?」

「やっちゃったみたいね」

「やっちゃったのかー。そっかー」

「まぅでも、今まで、やっちゃってなかったのがおかしかったのかもしれないわねぇ」

 皿やカップを食器洗い機にセットして、ルッスーリアは差し入れの朝食作りにとりかかる。冷凍しているクロワッサンをオーブンにセットして焼いて、ジャムとクリームを挟んで運んでやるつもり。甘いものを殆ど欲しがらない銀色の鮫だが、疲れている時は食べる。甘いクロワッサンはナカでも一番好きで、仕事の後に時々食べているのを王子も知っていた。

「ずっと仲良しだったもの。スクちゃんとボスは」

「それを言うなら王子とルッスもじゃん」

 ゆりかごからの、十数年の仲。

「そうね。でも、ボスとサブは特別よ」

 ファミリーの中でその二人だけがつがいになって巣を作れる。というよりも、既に作っている。あの二人が互いに選びあって、一緒にやっていくことを誓い合って紡ぎだした糸を基礎に現在のヴァリアーは出来上がった。なのに何もなかった今までが変則。おかしかったと、言えるかもしれない。

「ボスってさー、やっぱセンパイんこと好きだったんだぁー」

「分かりきっていることを言わないのよ」

「うん。王子は分かってたけどさ、ボスは一生、気づかないまんまかと思ってたー」

「そうね。あたしもなんだか、そんな気がしてたわ」

 溜め息をつきながらルッスーリアはカフェを濃く淹れて、ミルクを足してフランス風のカフェ・オ・レにした。それを二人分。王子様と分け合って飲む。

「なぁ、王子もしかして、センパイに今日から敬語使わないとダメかな?」

 ボスの女はファミリーの中で尊重される。構成員たちには、自分の母親に対するよりも恭しく仕える義務がある。ザンザスが銀色の鮫とのことを食卓で認めたという事は、色々正式に、きちんとするつもりだということ。

「それは気が早過ぎるでしょ。障害がたくさんあるし。それにスクちゃんも、あたしたちが今まで通りにしていた方が気が軽くていいと思うわよ」

 卵黄を使ったカスタードクリームを、手早く作りながら恋愛沙汰に関しては道理を心得たオカマそう言う。

「センパイ、どー思ったかなぁ?」

 王子様はそれが心配らしい。言葉は軽いが口調が重かった。

「ちゃんと分かってっかなぁ?」

「分かっている訳がないじゃない」

「んー。……だねぇ」

 彼らのボスはずいぶん長い間、隣に侍る美しいオンナを見逃してやっていた。

「ボスもさぁ、なんでこのタイミングかなー。喧嘩してるうちにやっちゃえば良かったのに」

 そうしたら、障害の一つの排除は比較的、簡単だった筈。

「ボスはそんな細かいことを気にする男じゃないわ」

 きっぱりとルッスーリアが言って、色よく焼けたクロワッサンをオーブンから取り出す。王子様にはハチミツを少しだけ掛けて手渡し、他は二つ割りにしてジャムとカスタードを挟んでいく。

「センパイさぁ、もしかして落ち込んでたりしてると思う?」

「しているかもしれないわね。でも、フォローはあたしたちのやることじゃないわ」

 確かにそうだ。けれども気になる。王子様はさっきから様子を見に行きたくてソワソワしている。でも一人で行くのも不自然な気がして、それに『ボスの女』の部屋に単身で訪問することも憚られる。ルッスーリアが朝食を差し入れに行くのについて行って、ドアからそっと様子を見るつもり。だから席を立たないでいるのだ。

 その王子様の目論みは外れた。怪我や病気で寝込んだ幹部には、いつもなら枕元へ食事を届けるルッスーリアだか、今朝は銀色の鮫の寝室には踏み入らず、手前の居間のテーブルにトレーを置いて。

「スクちゃん、朝ごはんここに置いておくわ。おなかがすいたら食べてね」

 そう言って部屋から出る。なーんだ、と、ついて来た王子様は唇を尖らせた。けれど勿論、自分ひとりでそのドアを開けて声をかけようとは思わなかった。

 そのドアに手を掛けて中を覗くことはもう、ヴァリアーのうちでたった一人にしか許されなくなった。でも、それは当然かもしれない。

 彼らのボスの寝室のドアをあけることが出来るのも、ずっと前から、一人だけだった。