初恋・12

 

 

 

 挽いたコーヒー豆を機械にセットしながら、銀色はまだ迷っていた。

「あら、起きたの、スクちゃん」

 昼前の幹部用の食堂でコーヒーメーカーの前に立っていた銀色は、食堂を管理運営するルッスーリアに声をかけられて。

「おう。メシ、ありがとうな」

 朝食の差し入れの礼を言う。いつものことだが大変お行儀がいい。しなやかな指先がボタンを押して、機械の奥で湯がコポコポと沸騰する。蒸気が噴出して、やがて馥郁とした香りが漏れてくる。

「ボスに持っていくの?」

「……考え中だぁ」

 問われた銀色は正直に答える。そんなことを話している間にも機械は濃いカフェをぽたぽたと抽出する。持って行けば昨夜の出来事を受け入れたことになってしまう。それは不本意だった。けれど命令に逆らう習慣がない。

「そう」

 ルッスーリアは冷蔵庫からパンを取り出した。モチモチ生地の表面にはぼこぼこと穴があいたフォッカチオ。丸く膨らんだ中にはハムとチーズとポテトが入って焼かれている。それをオーブンでごく軽く暖め、つくり置きのスープとともに器に盛る。スープは、野菜嫌いの彼らのボスが好んで食べる唯一のトマト味風味のミネストローネ。今日のはインゲン豆とカボチャが目立つ、身体が温まりそうなもの。

 ヴァリアーの幹部たちの昼食はバラバラだが、ルッスーリア簡単なランチを食べる習慣。そうしてそれはボスへ『お裾分け』される。それを持っていくのはこの銀色の役目だった。

「……」

 金色の鮫はゆで前もって暖めたカップにカフェを注ぐ。そこへ、上等のクリームと砂糖を溶かす。あの我儘な男の好きなようには銀色しか淹れられないから、これは随分長く、銀色の役目だった。

「……」

 本当だろうか。

 極上のグラニュー糖はさらさらと溶ける。ティースプーンで軽く三回、掻き回せば十分。その液体の表面を眺めながら銀色は考える。本当にコレをそんなに好きなのか、と。

 適当にやっている時もある。豆もその他も最上級の贅沢品なのだから、誰が淹れても美味い筈だ。そもそもドリップするのは機械だし。もしかしてオレは騙されていないかと、そんな気がしてくる。心の中に疑念がむくむくと芽生えた。

「どうする?」

 簡単なランチを作り上げたルッスーリアが皿の乗ったトレーを手にして銀色に尋ねる。残りのカフェを保温ポットに移して、持って行くと銀色は答えた。

逃げられるかよと自分に言いきかせる。逃げても、なんにも、どーにもなりゃしねぇぞと内心で自分に言いきかせた。それは勿論、逃げ出したくてたまらないほんしんの裏返し。

「そう。じゃぁお願いね」

「おぅ」

 トレーを片手で持って食堂を出て行く銀色をルッスーリアはドアを支えて見送った。そうして戻って、ミネストローネを自分の為にスープ皿に注ぐ。パンと一緒に皿に並べたところで内線が柔らかな和音をたてる。端末を手に取ると、聞こえてきたのはついさっき、上階のボスの部屋へ向かった銀色の声。

『あの、よぉ……、メシってあと一人分、用意できっかぁ?』

「すぐにできるわ。持って行ってあげる」

 と、ルッスーリアが言ったのは『ボスの女』に対する優遇。一人分のランチを持って行ってもう一人分というのは銀色自身の分に決まっている。

『いや、とりに行くから』

「本当にすぐに出来るわよ」

『……ごめんな』

 銀色は戸惑った細い声で詫びた。自分の分を融通するつもりのルッスーリアは皿をトレーに載せ、銀色の好む鉱泉水のボトルを冷蔵庫から取り出して部屋のドアを開け上階へ向かう。途中の廊下で銀色と行き会った。

「はい、どうぞ。飲み物はベルニーナでいいのよね?」

「……ごめん」

 申し訳なくて面目がない。そんなしょんぼりした様子で銀色はトレーを受け取った。カフェを持っていくと言ったときのカラ元気もない。俯き気味の美貌は戸惑いと不安に青白い。頬にキスして大丈夫よと言ってやりたくなる気配だった。

「気にしないで」

 なるべく軽く、そう言って踵を返す。とぼとぼ歩いていく気配を背中で感じる。衝撃を受けている。それも仕方がないだろう。分かっていなかったのだから。分かっていたルッスーリアでさえ、さすがにびっくりしてしまったくらいの事だ。

「まぁ、でも、悪いことじゃないわ」

 ファミリーが揃っての食卓ではなく私的なランチ。その給仕を長年、させてきた銀色を、彼らのボスは今日から給仕ではなく前に座らせるつもりらしい。部下ではなく妻の待遇。それは優しい事だった。銀色にとって悪いことではない。大切に尊重する気があるという意思表示。銀色本人は八つ当たりで殴られた時よりも辛そうな、不安な表情をしていたけれど。

「悪いことじゃ、ないけど……」

 銀色がそれをちゃんと、受け入れることが出来るかどうかか、やや不安ではあった。

 

 

 

 

 男の執務室のドアをノックした。入れと言われてドアを開けた。制服の上着を肩に掛けて椅子に腰かけた男は朝から、わりと真面目に仕事をしていたらしい。処理済案件の箱に書類が、かなり溜まっている。

職業柄、外から見えて狙撃される可能性のある窓際が落ち着かない男は広い部屋の角に机を置き、壁を背にして銀色を見た。睫の長い印象的な赤い瞳は見慣れたものだ。なのに真っ直ぐな視線を向けられると銀色はいつも怯む。

 銀色の姿を認めて男はペンをペン皿に置く。そうして立ち上がる。近づいて来られて銀色は逃げ出したくなったが我慢した。手にしたトレーが障害物になって距離をとることが出来た。

 男の手がすっと伸びる。銀色はびくっとしたが、その手はトレーの上のカップを掴んだ。男の専用、大きな黒のコーヒーカップを立ったままで飲む。こくりと喉の動く様子がやけにリアルだった。喉ばかりではない。

 顔も肩も腕も、重々しい存在感を銀色に見せ付ける。俯けば長い脚が視界に入ってしまう。何処もかしこも、昨夜、抱き合ったもの。服の下の裸の形と肌の色、体温を知ってしまった。知らされた。唇さえ何度も重ねられて唾液を啜られて、舌の動きまでリアルに思い知らされた。

 男は黙ってカフェを飲み続ける。銀色を眺めながら。見られて銀色は目を合わせることが出来ない。怖い。この男が怖いのは昔からだがそういう意味ではなく、存在の違和感が怖い。長く馴染んだ相手だけれども、間近で静かに意図的に、こんな風に眺められたことはなかった。

 その眼差しの意味は多分、優しいとか愛おしいとか、そんな範疇に入る。男は実は抱きしめたかった。けれど片手のトレーを盾のようにして、肩を竦めているオンナに無造作に近づくことも出来かねて、ただ眺めている。

 昨夜、言ったとおりに持ってきたカフェが甘い。砂糖とは違う甘さがある。給仕は側近の名誉な役割。そんなマフィアの欺瞞的名習慣のもと、側近の服従を確認するために仕えさせるのがボスというもの。この銀色に、オトコは長くそうさせていた。けれど意味は、最初から違っていたかもしれない。

 小奇麗な銀色が淹れたカフェが美味いのは味覚の問題ではない。この髪と、顔と手で、差し出される満足の味を含んでいる。酒場で美女に火を点けてもらった煙草の味が格別なのと同じことだった。人間の感覚は気分が左右する。

 コトリ。軽い音をたてて空になったカップがトレーに戻される。

「めし、くう、だろ」

 銀色がやっと口を利いた。男は笑う。そうしてとうとう、我慢できずに、斜めに半歩を踏み込んで屈んだ。中身はともかく形は素晴らしいさらさらの髪が生えた頭にそっと、唇を押し付ける。頭は動かなかったがトレーが揺れたらしく、スプーンとフォークが触れ合って軽い音をたてる。

「……」

 男は咎めず、黙ったまま、両手を自分の背中に廻す。殴らねぇよと伝えようとして。怖がられているのは暴力だと思った。そうではなくて自分から愛情により怯えられているのだとは、さすがの男も、気がつかなかった。

「てめぇの分は?」

「……あ?」

「とって来い。奥で食うぞ」

 普段は執務室の机に座ったまま、給仕の銀色を横に立たせてランチは簡単に済ませる。ほんの数分、最後にポットのカフェをカップに注いでやって銀色がトレーを持って部屋を出るのが、本当に長い間の習慣だった。

 執務室の奥の居間で、この男がランチをとったのは銀色の記憶にない。もちろん、自分がそこで一緒に食べたことなども、ない。

「先に行っとくぞ」

 硬直している銀色の手から男がトレーを奪う。片手に載せられていただけのそれは簡単に奪えた。この男が自分の食事を運ぶことは初めて。執務室に置き捨てられ、銀色は泣きたくなってしまう。逃げておけばよかったと心から思った。

 マフィアとの生活習慣には銀色も馴染んでいる。現在のヴァリアーはやや異色な集団だが、もとは天下のボンゴレ本邸で御曹司のそば近く仕えていた筋目のいい剣士。門外顧問の秘蔵っ子を野良犬と罵ったこともあるほど、自分のボスと自分自身の正統を信じていた。

それはボンゴレの血筋の問題ではない。権力や実力でさえなくて信仰に近いかもしれない。要するに惚れている。オレのがこの世で一番だと心から思っている。オレらのが、と。オレらのボスが、と、何の疑念もなく。

マフィアの習慣に即して判断した場合、自分がどうされようとしているのか、自分の身に何が起こっているのか、銀色にも分からない訳ではなかった。けれども頭で理解できても気持ちはそれを受け入れ切れていない。

セックスでメスの役割を務めることと、ベッドの外でこんな扱いをされることは違う。本当に違う。ガキの頃から抱き合っていたキャバッローネの跳ね馬にさえ、エスコートじみた真似をされるたびにその尻を蹴り上げてきたのだ。

 どうしよう、と思いながら、でも、男が、居間で待っているから。

「あの、よぉ……」

 内線を鳴らして食堂へ電話をした。自分をますます追い詰めることになるとは分かっていたけれど。

 カフェをあんなにおいしそうに飲んだ、男が待っているから。