初恋・14

 

 

 

 その夜、銀色の鮫は当直の当番だった。

「待機扱いに変更だ」

 夕食の席でヴァリアーのボスが言ったのは理由のないことではない。数人の幹部で不寝番の当直を廻すのは最初から無理があった。しかもこのボスがボンゴレの後継者から外れて以来、毒蛇の巣穴へ敢えて足を踏み入れようとする者は居なくなった。ボンゴレを敵に廻してまでそうしようとする動機がない。

「週がわりでな」

 警備担当者は待機勤務、ということになれば、私的な外出が許されなくなるだけでことが起こらない限り睡眠はとれる。一週間交代でもバテることはない。そうなれば幹部のスケジュールに余裕が出来て『任務』も廻しやすくなる。

彼らのボスの指示は的確なもので、全員が承服した。ただしそこに別の意図が在ることにも、銀色のサブを覗く全員が気づいた。当直当番で銀色を侍らせることが出来ないのが不自由なのだろう、ということに。

 夕食が尋常に終わって、ボスが食堂から自失に引き揚げる。去り際、隣に座っていた銀色の肩を掴んでいった。一瞬だったが指の力は強くて、銀色が思わず背中を揺らしたほど。

「……」

 何を言われているのか流石の銀色も気づいた。銀色が何を言われているかも、見ていた全員が気づく。彼らのボスは無口だがいつでも意思ははっきりとしている男。

「あ、のよぉ、オレなぁ」

 警備担当の自分が今夜、自室に居ないことを仲間にどうやって伝えようか、銀色が戸惑いながら口を開く。いつも大口あけてがんなりたてる銀色が口ごもる、珍しい事態だった。

「構わないのではないか、別に」

 あーあ、という風に呆れたルッスとベルとマーモンが、どうフォローを入れるべきか戸惑っているうちに。

「待機なら、敷地内にいれば何処でも、どうしていても、構わないだろう」

 口を開いたのはレヴィだった。ああやっと気づいたのねとオカマがレヴィを見る。彼らのボスに最も忠実な男はボスの意思を尊重することに生命を賭けている。

「あたしもそう思うわぉ。ねぇ?」

 オカマの言葉に王子様と赤ん坊は頷いた。わりぃ、とかなんとか口の中で言って銀色も席を立つ。やがて食堂には、また王子様とオカマとが残った。

「なんか、センパイさぁ、シアワセそーじゃなくね?」

 それが気になるらしい。銀色が出て行ったドアをなんとなく眺める王子様はやや心配そう。

「もっとラブると思ってたんだけど、イガイー」

「そうね」

「ボスやっぱ乱暴なのかな?わりとさぁ、昔はモテてたよね。王子子供でよく覚えてないけど」

 昔というのはゆりかごの前。まだ少年だったボンゴレの御曹司に、ゾクゾクという勢いで女が貢がれていた時期。派手な装いの美しい女たちがボスのの寝室に多く出入りするのを子供だった王子様も覚えている。

そういう種類の訪問者は発送元の顔を潰さないように扱わざるを得なくて、優しくしてやるからか、事後にボンゴレによく電話がかかってきた。御曹司に取り次がれたことは一度もなかったけれど。後日、関係があった女がパーティー会場に別の男に連れて来られていて、同伴者そっちのけでボンゴレの御曹司に一生懸命、話しかけてはいい加減にあしらわれていた。

「センパイ、ボスと喧嘩したのかな?」

「したかもしれないわね」

「なーにトボケてんのさ、ルッス。オマエ専門家じゃん。あれどーなってんの?教えてよ」

「うちのボスは、それはそれは、とてもいい男よ」

「イマサラなに言ってんの?」

「アタシはボスをダイスキよ。許されるならぼーっと一日中、動いたり食べたり眠ったり新聞を読んだりしているのを眺めて居たいくらい、スキよ」

「キショクわりーからヤメロって」

「でもねぇ、迫ろうとか口説こうとかは、夢にも思わないのよ。具体的な行為の対象じゃないわ」

「ッタリマエだろぉー?」

 オレら家族みたいなモンじゃん、と続けかけて、王子様は。

「……あぁ」

 ようやくオカマが言いたいことに気がつく。

しかし。

「いーんじゃねーの、別に。ボスとセンパイなら」

「何がいいのよ」

「キショク悪くねぇから。したらオマエ、ヴァリアーのお袋さんからシュートメに昇格な。オメデトー」

 棒読みの王子様の台詞にオカマは、皿を洗っていた流しに突っ伏して。

「いやあぁあぁあーッ!」

 全身全霊で叫んだ。

 

 

 

 当直である銀色の鮫が部下たちに指示を出し、雑用を済ませて自室を出たのは日付がかわる一時間ほど前。

「おせぇ」

 出迎える声がそれだったのはまぁ、遅かったことは事実だから我慢できた。しかし、来いと男が言ったから、重い心を引き摺って嫌々来たというのに。

「そのへんに座れ」

 ソファに長々と寝そべった男に、外国語の新聞を読みながら言われて銀色は思わずムッとした。

「そのへんじゃ分かんねーよ」

 男の居間は広い。奥には寝室への隠し扉があって、壁にはバーとカウンターが作り付けになっていて、中央にはヴァルリンクスのソファセットが置いてある。ドイツ製のその家具はウォールナット仕上げ、座面と背もたれは金襴入りの赤いサテン張りで、さぞ寝心地がいいだろう。

「ここだ」

 そのソファから男が頭を持ち上げる。新聞を持ったまま腹筋だけで上体を起こした男に、それまで頭の置かれていたクッションを叩かれて銀色は自身の発言を後悔した。

 それでも後には引けないようなキモチで部屋の中へ足を踏み込み、クッションを退けて、ふかふかの座面にどかりと腰を下した。

「……っ!」

 膝の上にごろんと、無造作に男の頭が転がってきて、思わず悲鳴が漏れてしまう。

「なんだ」

 どうかしたのか、と、新聞の端から尋ねる男の真っ赤な目は真面目だった。悲鳴を上げた銀色を揶揄するのではなく心から不思議に思っている。なんだよもぉ、と、銀色は思った。なんなんだよ、と。

「かてぇ腿だ」

 新聞を読みながら男が感心するように呟く。

「柔らかいわきゃねぇだろぉがよぉ」

「そうだな」

 吠えた台詞に納得されてそれ以上、何も言えなくなってしまう。やがて男がばさりと新聞を折りたたむ。邪魔そうにソファの背面へ放り投げる。

「……」

 遮蔽物がなくなって銀色の鮫は戸惑った。間近で男の赤い目に見上げられる。目を反らしたくなったがそれは卑怯な気がして、でも、どうしても男の視線に耐えられなくなって。

「……」

 思わず男の目元を覆う。生身の右手で、そっと。男は笑った。口元がはっきりその形になっている。けれど銀色の手を跳ね除けようとはしないまま、軽く身動きして居心地のいい位置を探る。首を傾げて少し斜めに、頭と言うより肩を堅い銀色の腿に載せ、頭はソファの肘掛にもたれさせる。

「別に重かねぇぞぇ?」

 気を使うなと銀色は言った。つもりだった。けれど口にしてしまうと、オレは嫌がっていないぞという響きになってしまって内心で焦った。

「そうか」

 男がまた笑みを赤くする。誤解されたらしいことを悟って銀色は困惑する。けれど今さら、何が言えるだろう。

「風呂は入ったか?」

 火傷の痕のある、やや肉厚で素晴らしくセクシーな唇が動いてそんなことを尋ねる。おぉ、と銀色が答えると、その唇は少し皮肉そうになって。

「気のきかねぇヤツだ」

 笑い混じりだったけれど非難されて。

「髪にすっげぇ手間かかるんだぁ。てめぇと違ってよぉ」

 思わずがなってしまう。しまってまた、しまったと思った。男の手が動いて銀色の髪を抓む。一房、指先で弄りながら口元へ持っていかれる。

「明日は洗わせろ」

「あぁー?」

「どんな風なのか興味がある」

「おまえにンな真似、させられっかよォ」

「オレがしたいと言っているんだ。構わねぇだろう」

「馬鹿馬鹿しい。なに寝言いってやがる」

「したがった男は居なかったか?」

 真っ直ぐ尋ねられる。根が正直な銀色は咄嗟に黙ってしまう。返事をしなかったことが答えになっている。本当は尋ねるまでもない。この見事な髪を触りたがらない男は居ないだろう。

「明日、させろ。いいな?」

 別に男は怒っているのではない。穏やかにもう一度そう言う。別の男にさせたことがあるのに、それを否とは、銀色は言えなかった。分かったと答えると男がまた笑う。口元しか見えないけれど、本当に嬉しそうに。

「何か、飲むか」

 銀色の膝からゆっくり、起き上がりながら尋ねる。銀色の右手が外れた目元も笑っている。上機嫌だ。しかも起きた男は立ち上がり、バーカウンターの内側へ入った。飲み物を出してくれるつもりらしい。

 奇跡に近い珍事である。

「んー。じゃあ、ベルニーナ」

 なんとなく、本当になんとなく、つられて銀色も立ち上がりバーのある壁際に歩いた。飲みたいものを尋ねられて答えた。顎先で椅子を示されてつい、本当につい、それに腰を下してしまう。カウンターを挟んで向き合って初めて、もしかして自分はとんでもない真似をしているのではないか、と、いうことにようやく、気づいて青くなる。

 ボスが立っているのに自分は座っている。しかも給仕をさせようとしている。真っ青になっている銀色に気づかず、オトコはカウンターの中の冷蔵庫を開けて。

「夜中に冷たいものは止めておけ」

 男が言った。優しい声だった。似たようなことを以前、言われたことがあるのを銀色が思い出して全身を強張らせる。言ったのは長い付き合いの跳ね馬。宵の口から抱き合って喉が渇いたと訴える銀色に、優しくそう言って、ホテルのエグゼクティブルームに用意されていた十種類近いティーバッグのうち、菩提樹の葉のハーブティーを選んで淹れてくれた。

「ホットワンでも飲んで寝ろ」

「あー。酒はやめとく。宿直だからよぉ」

「オレがいいと言っているんだぞ?」

「アルコール入ると加減がきかなくなんだぁ」

 死なないように斬るつもりが殺してしまったりするから、待機とはいえ酒は飲みたくないと言い張る銀色に男は苦笑した。そして代わりに紅茶を淹れた。ポットを操る手つきには気品があり、しかも手際は相当、堂に入っている。

 御曹司だもんなぁと銀色は眺めながら思う。こういうサービスの仕方も習うのだろう。ボンゴレの跡取りになっていれば本邸にバチカン関係者の訪問を受けることもある。そういえばこいつ枢機卿にコーヒーを淹れたことかぜあったなぁと、ぼんやり銀色は、昔を思い出した。

「砂糖は?」

「いらねぇ。グラツィエ」

 ありがとう、と言って受け取ったストレートのミルクティーを受け取る。カウンターの内側で男も同じものを飲む。カップの中の液体は本当に美味い。ストレートなのに甘い。あれ、と、今頃なことに銀色は気がついた。

「オマエもしかして酒、飲んでねぇんじゃねぇか?」

 夕食の時に水割りは飲んでいたけれど、それきり晩酌をしていないのではないかと尋ねる。そうだと男は事実をあっさりと認めた。

「珍しいなぁ。肝休日かぁ?」

その問いかけに、まるっきり素面な顔でにやりと、オトコは銀色を眺めながら笑った。

「酔うと加減が効かなくなるからな」

「なんの加減だぁ?」

 銀色のオンナは確かに愚かだった。

「ちゅ」

 けれどその愚かさを、あくまでも可愛らしいと思っている様子で、男はカウンターごしにミルクティーの味がする唇を啄ばむ。

「あ……」

 意味をやっと分かったらしい銀色が顔色を変えた。離してやった唇を震わせ、そうしてそっと、俯く。空のカップを静かに受け皿に戻す。

「……ッ」

 その細い顎を男が掴んだ。かなり強引に。またキスするのかと銀色は思ったが、違った。いっそその方がマシだった。

「そんなに痛かったか」

 心配そうな真面目な顔で尋ねられる。銀色の顔色が悪いのも、怯えている様子なのも、繋がる苦痛を恐れているのではなかったけれど。

「酔っては、二度と」

 抱かない、と、誓う口調で告げられる。違うと銀色は言いたかった。けれど、でも、酔った力ずくの乱暴なセックスより、優しく暖かく、真摯と言っていい表情を浮かべた今のオマエの方がなんか得体が知れなくって怖いんだ、とは、言えなくてまた俯く。どうしていいか分からない。

「先に行ってろ。風呂に入ってくる」

 男が視線で奥の寝室を示す。

「今日はヤらねぇ。心配するな」

 そんなことを恐れて震えているのではなかった。

「先に眠ってていいぞ。おやすみ」

 優しく言われる。頭を撫でられる。男が居なくなった居間のカウンターで銀色は、いっそ、幼い子供のように泣きじゃくりたくなってしまって、困った。