初恋・15

 

 

 

 ナンか、こう。

『ボスが自室にいらっしゃらない』

 慣らされてんなぁ、と。

「……あー。ここで寝てる」

 銀色の鮫は自分のことを思った。慣らされ過ぎだろ、と、自分自身に大丈夫かと尋ねたくなった。

『そうか。ならいい』

 セックスをする日もしない日も、夜はオトコの部屋に呼ばれていた。抱きしめられて眠ることには慣れていたけれどでも、やっぱり緊張で眠りは浅かった。オトコがどうこうという訳ではなく、相手が跳ね馬でもそれは同じ。他人が居る空間では熟睡できず、仮眠になってしまう。

 睡眠不足の夜が続いていた。ゆっくり一人で眠りたい、と、オトコにそう訴えたら、昼寝をしろとあっさり言われてしまった。確かにその通りだ。夜の仕事が多いヴアリアーでは、幹部が昼間にすやすや眠っているのはよくあること。でも銀色はそれをしたくなかった。なんだか……。

 このオトコとセックスしていることは仲間に知られてしまっている。同じ屋根の下での共同生活だ。隠しようがない。仲間の態度には大して変化がなく、レヴィが棘のある物言いをしなくなったくらい。

それでもやっぱり、知られた上で仕事帰りでもないのに、昼寝をするのはイヤだった。何を想像されるか分かりきっているし、その想像は当たっていなくもない。跳ね馬と会って朝帰りの日に、枕を抱えて部屋に篭るのは全く平気だったのだけれど。

どうしてだろう。このオトコとの後はイヤだった。後ろめたいからかもしれない。悪いことをしているという意識が消えない。骨の髄からマフィアの暗殺稼業に染まりきっている銀色にも善悪の意識はある。世間と大きく隔たっているけれど、ある。

『起こして済まなかった』

 嫌味も抗議もなくあっさりと電話を切ったレヴィにも腹が立つ。どうして今頃気が付くんだこのボケは。ザンザスの部屋には温感探知機が設置されていて主人がどの部屋でどう過ごしているか、警備室では分かるようになっている。賊の侵入を防ぐ為の措置。

 それを誤魔化してどうやってコイツここに来やがった、と、銀色はすぐ横に転がっているオトコを見下ろした。すかすな寝息がかかるほど近い。自分の腰に腕を廻して、自分が起き上がっても目覚めずに熟睡している。

「……寝首、掻くぞぉ、てめぇ……」

 低く呻いた。口惜しいというより泣きたくなってくる。なんなんだこの事態は。

 昨夜は一人で自分の部屋で眠った。怒鳴られたって殴られたって、一晩中呼び出しの内線を鳴らされたって男の部屋には行かないつもりだった。オトコの名医に逆らうことに慣れていない銀色の鮫は緊張していたが、夜が更けても内線も鳴らなければ使いが部屋をノックすることもなかった。日付が変わる頃、アイツきっと、酔いつぶれて寝たな、と、思って安心して、ベッドに入って、目を閉じた。

 ところまでは覚えている。

 部屋にこのオトコが入ってきたのも知らなければベッドに入り込まれたのも気づかなかった。

「こんなの、アリかよ……」

 業界で少しは知られた自分自身の、名を酷く裏切る自己嫌悪に沈む。いくら寝不足だったとしても抱きしめられて起きなかったというのはひどすぎる。このオトコもそうだ。

薄暗い部屋の中で、夜目のきく銀色は自身のボスを見下ろす。きつい光を宿す目が閉じられているとひどく若く見える男は目をさ○気配も見せない。安らかな表情で、うっすら開いた唇はかすかな寝息を漏らしながら、笑っているようにさえ見える。

「なに考えてんだぁオマエぇ。こーゆーのはぁ、チガウんじゃねぇのかぁ?」

 銀色の唇からは嘆きの言葉しか出ない。シーツの上で膝を立て、くしゃりと自身の髪に手を突っ込んで悲しむ。怒鳴られるより、殴る蹴るより、はるかにひどいことをされている気分になる。一番大切にしていた物を崩されていく。大地のように堅固だと思っていたのに、あっけなく。

「……、っ」

 揺れて、崩れる。

 奥歯を噛み締めて声を忍んで、銀色がひくりと震えながら気持ちの振幅に耐え切れず泣き出した、瞬間。

「ぁ……」

男が目覚めた。腰に廻された掌に力が篭って、毛布の下に、引き戻されてしまう。

「うぉ……、ッ!」

「どうした」

 オトコの腕が銀色の頭を抱く。左右の掌が頬を包むように当てられた。銀色は唇を噛む。こんな風に優しくされるより、拳で思い切り殴られる方がマシなんだとは、さすがに言えなかった。こんな扱いをされるのは不慣れな以上に不本意だ。おかしい。あり得ない。

 苦しい。

「レヴィが何か言ったのか?」

 耳元に囁かれる。優しい穏やかな声で。違う、と、銀色はかぶりを振った。嫌味を言われるならまだ良かった。けれどあいつは嫌味どころか、起こしてしまったことを自分に詫びた。それが苦しい。これはなんだ、まるで、まるで……。

「なにが辛いのか言え」

 言葉を促すように男の固い指先が片手だけ、頬から外れて銀色の白い喉を撫でる。腕の中のオンナが震えるほど悲しんでいることは分かる。楽にしてやりたいと心から思っている。

「別の男が恋しいか?」

 心の中に一番強く引っかかっていた疑念を男は口にした。気軽に裏切り、あっさり別れようとしていたけれど長い仲だった。きらびやかな二枚目が恋しいのか、そのせいで自分とこうしているのが辛いのか、と。

「……チガウ」

 搾り出すような声で銀色はそれも否定。そんなことは二の次。アレは勿論お気に入りだったけれど、悲しみはもっと重くて大切なものが崩れていく痛み。

「どうして欲しいのか言え」

 どうでもいいことはうるさく喚き散らすのに、肝心なことにはなかなか口を割らない強情なオンナを、オトコは困ったように撫でる。

「自分で言わねぇとオレは気づかねぇぞ」

 何処かの跳ね馬と違って、と、オトコは続けようとしたが、嫌がらせになってしまいそうだったから止めた。イタリアマフィア界で色男といえばまず間違いなく最初に指を折られる金持ちに、十何年も尽されてきたこれが今を嘆くのは仕方がないかもしれないと思いながら。

「諦めろ」

 それでも勿論、手離すつもりはない。

「もう、あきらめろ」

 オレのものだと言いきかせるように、オンナをオトコの掌が撫でる。目の前にあるつむじに唇を押し当てる。ひどく形のいい小さな頭は片手で掴み取れる。いとしい。

「不満があるなら言え」

 悲しむオンナは声を出さない。溜め息をついてそれでも、せいぜい優しく抱きしめるオトコの胸の中に、なじみのない感情がゆっくりと湧き出し、溢れて、広がっていった。

 無力感、とかいうものだったかもしれない。

「よく眠っていたぜ」

 オトコはとりあえずそんなことを言ってみる。だから起こさなかったのだというのは、勝手に部屋に入ったいい訳にはならないけれど。

「よく眠ってた」

 オトコが繰り返す。ベッドの中で安らかに眠っていたオンナは、オトコが毛布の端を捲くると眠ったまま身じろぎして場所を空けた。同衾に不慣れなのではない仕草だった。抱き寄せると腕の中で身動きをして楽な姿勢を自分から捜した。甘えた様子は意識がある時には見せない仕草で、オトコをうっすら傷つけた。

 他人と眠るのがイヤなのではなく、自分とがイヤなのだと、気づいて溜め息をつきたい気持ちになる。

 それでも。

「慣れろ」

 オレの腕にも胸にも慣れて、オレにもあんなふうに和らげ、と。

 殆ど願いを、こめて抱きしめる肩はまだ強張って、小刻みに苦しそうに震えていた。

 

 

 

 愛しいと思っているのは本当のこと。可哀想にとも、心から思っている。

 けれど同時に腹立たしくもある。セックスは幾夜も繰り返した。なのに馴染む様子を見せない銀色のオンナの様子が気に入らない。抱いて眠らせても緊張した態度を崩さず、優しくしてやっても甘えて応えようとしない。

「ザン、ザス……」

 オトコは御曹司育ちだった。気持ちに逆らわれることに慣れていなかった。それ以上に、焦りも、あった。抱いても抱いてもオンナが嬉しそうではないのは、自分ではない男を恋しがっているのだと、思っていた。

「それ、って、……、ダロ……?」

 ベッドの中でオンナが喋るのは珍しい。いつもはぎゅっと、目と口を閉じている。生殖器は刺激すれば零すが、甘い陶酔にひたる様子は、一度も見せなかった。いつも苦しそうで。

「ヤメ……、なぁ、ちょ……」

 ふるふる、オンナは嫌がって逃げようとする。オトコの腕がそれを捉え、シーツにうつ伏せに押さえつけた。

「イヤ……」

「じっとしていろ」

「なん、で、だよぉ。ちゃんとしてっじゃねーかぁ……。なぁ、ちゃんと……、ナンでも……、から、ヤメ……」

 チューブからゲル状の中身がオトコの指に搾り出される。見えていないけれど気配でそれを、察した銀色のオンナが嫌がって背をのたうたせる。

「クスリは、イヤ……」

「動くな」

「……ヤメテ、くれ、よぉ……、たのむ、から……」

 泣き声が混ざった哀願にも、オトコはそれを塗りこめようとする手を止めなかった。

「オレちゃんと、オマエの言うこと、全部きいてっじゃねぇかぁ!なんでもさせて、逆らってねぇだろ?!なぁっ!」

 恐怖で悲鳴を上げるオンナに、そうだなと、オトコは静かな声で答えた。

「嫌なのを我慢されてても面白くねぇ」

 ウソだった。面白いとか面白くないとか、そんなレベルの話ではない。本当はもっと切実に、辛い。嫌がられること自体が悲しくて、強張った背中や鼻の頭に皺が出来るほどキツク目を閉ざされると、そんなにオレを見たくないのかと切なくなる。

オトコにとって、それは不慣れな感情だった。……いや。

遠い昔に似たような気持ちになったことが、ないでもないような気がするけれど、考えたくなかった。養父に裏切られていたことを知ったあのときほど一方的に相手を責めるつもりにはならなかったが。

「てめぇが、わりぃ」

 頼むから止めてくれよと泣き出されて、怯みそうな自分自身を叱咤するために決め付ける。

「オレに言わねぇからだ」

 何をどうして欲しいのか言わないから。セックスでカラダを熔かして、そこから気持ちも引き寄せて、自分のものにしてしまいたいのに、それをさせないから。

「ぜんぶ、よこせ」

 欠片も残さず自分のものにしてしまいたい。他の男のそばへ行くのを見逃していた十数年が、今さら口惜しくてならない。

「オレの……」

 ものにする。いや違う。ものだった筈だ。最初にそうしておくべきだった。最初からそうしたかった。ずっと。

「ちからをぬけ」

 愛した相手に愛されたい欲求が強い自分であることを、オトコは薄々、自覚しながらそう、告げる。