初恋・18
なれない苦しさに耐えかねて睡眠導入剤に手を出したヴァリアーのボスが、クスリを睡眠薬に変えるのに時間はかからなかった。
アルコールとの併用はその夜、初めて、した。ヤバイことは勿論分かっていたが、楽になりたかった。それは死ぬという意味ではなかったが、どうなっても構わないという自暴自棄が含まれていないこともなかった。
どうして、と思いながら過ごす夜が辛い。自己嫌悪という慣れない感情が辛い。感情が揺れて欲しいモノがことごとく手に入らないことを嘆きはじめると、昔のことまで次々に思い出してしまう。痛い。
酒と睡眠薬のカクテルは効いた。ベッドに倒れこむなり意識を失うことが出来た。目覚めたとき、目の前に銀色が居た。てっきり夢だと思ったから本心を漏らした。
部屋を移れ。俺のそばに戻って来い。
言いたかったことは、夢の中では案外すらりと口にすることが出来た。勢いのまま腕を伸ばし、なんだか嘆いている銀色を引き寄せて抱きしめた。夢の中でまで悲しむなよてめぇ、と、思いながら撫でながら、また眠った。
次に起きた時には現実が待っていた。
「薬物の入手先は?」
ボンゴレ十代目おんみずからの尋問。
「答えて。正直に。でないと、ここで寝起きをしてもらうよ」
それは勘弁だな、と思いながらザンザスは部屋の隅を眺める。銀色の鮫がそこに立っている。顔色が悪く表情が冴えない。誰かに苛められたのだろうか。監督不行き届きを責められたのかもしれない。可哀想に。
「朝食も夕食も七時だ。基本的に禁酒。朝はみんなでラジオ体操もするぜ。耐えられるか?」
若い十代目の口調が変わった。うっすら瞳がオレンジ色を帯びる。どれもゴメンだが、何よりもここでというのが一番の苦痛だ。かつて御曹司として暮らしていたボンゴレ本邸にゲストとして滞在することは辛い。
「死んでしまうつもりだったのか?答えろ」
詰問の口調が厳しくなる。
「そんな気はねぇ」
さすがにそれ以上、無視することはヤバイと悟ったザンザスが口を開く。静かに怒っているボンゴレ十代目の凄みを誰よりも知っている身の上だ。その焔に凍りつかされたことがある。
じゃあどうしてこんな真似をした、という追求に。
「ノリだ」
あっさりと答える。何のノリだよとボンゴレ十代目が凄む。童顔でいつまでも少年に見られる姿の持ち主だが、眼光だけは磨かれて鋭い輝きを宿すようになった。
「なんとなくの、ノリだ」
「ノリでそんなに危ないことをしたくなるほど、辛いことがあるのか?」
ボンゴレ十代目の学校の成績は悲惨なものだったらしい。しかし、話してみれば意外と頭は悪くない。気性が真面目すぎるせいで明敏ではないが、本質を見抜く能力は高い。
「たまにな。テメェもあるだろう?」
それでもやっぱり、知能はザンザスの方が格段に高い。反問されて虚をつかれ、沢田綱吉は黙ってしまう。ないと答えたいし、実際に思い当たることもないのだか、そう言ってしまえばザンザスの言動を真っ向から全否定してしまう。せっかくの、初めての、このオトコの方から共感の申し出だったのに。
「……なにが辛いか、聞いても答えないだろうな」
結局、否定しきれずに矛を収める。この年上の『身内』に対して自分が甘いことは自覚している。しているが、どうして厳しく、など出来るだろう。
「強情もいい加減にしろよ。たまにはオレを上手に使え。でないと欲しいものをむざむざ、失ってしまうぞ」
若いボンゴレ十代目にとって目の前の男は厄除けの形代。自分が背負うはずだった災いを全て肩代わりした挙句、何もかもを自分に奪われてしまった可哀想な犠牲者。それでいてボンゴレを愛し続け、利権を何も欲しがらず飄々としているさまは見事で、鮮やかで。
愛しい、とさえ思うことがある。
「二度としないと、ボンゴレの紋章に誓え」
それだけは約束させたくて、意識して厳しい声で言った。
「しねぇ」
ザンザスがあっさりと答える。あんまりあっさりだったから、かえって不安になった十代目が。
「破るなよ。破ったらオマエの一番大切なものを貰うぞ」
念押しに、凄んだ。
「今度同じことをしたら、オマエの片腕を預かる。他所に高値で貸し出すぞ。いいな?」
「……」
「おい、ザンザス?」
黙りこんでしまった相手の態度がおかしいことに沢田綱吉が気づいて声を掛ける。脅しを恐れる気質ではないこの男のことだ。鼻先で笑われて終わりと思ったのに、やけに神妙な表情で、何かを考え込まれてしまった。
「どうした?」
かけた言葉を聞き流されることに慣れた若い十代目は逆に戸惑ってしまう。
「……」
いっそそっちが幸福かもな、と、男は真面目に考えた。ヴァリアーの銀色の鮫に一番の高値を付けるだろう出向先が何処かなんて、入札をするまでもなく分かっている。
優しい恋人のもとへ戻してやろうかと、そんな仏心が自分に生じたことが男には意外だった。強引に奪ったけれど少しも幸福にしてやれなかったオンナに、それが慈悲かもしれないと、本気で考えた。
「見張っていて下さいね、スクアーロさん」
瞳に生じた音字の光をゆっくりと納めながらボンゴレ十代目が丁寧な口を利く。
「この外をよく見ていて。あなただけが頼りです」
「おぉ」
自分が話題に上げられても尚、ボス同士の会話に口を挟まずに黙って聞いていた銀色は、話を振られて顔を上げ凛々しく頷く。
「殴りつけても、二度とさせやしねぇ」
「……やってみろ、ドカス」
「はは。じゃあオレは行くけど、今夜は泊まってもらう。スクアーロさんにも」
既に時刻は夕方に近い。薬剤性ショックで一時は血圧低下だったザンザスにはクスリの効果が完全に抜けるまで、中枢神経系の抑制を警戒して経過観察の必要があった。沢田綱吉の言う事は当然。
「勝手に帰ったら命令違反にするよ。明日の朝、また医者を連れて来る。帰るのはそれからにしてね」
そう言い残して、沢田綱吉は出て行く。パタンとドアが閉まる。二人きりになった部屋の中で、男が壁際に立っている側近を視線で呼ぶ。銀色の鮫が足音もなくベッドに歩み寄った。
そうして屈む。覆いかぶさるような姿勢で、男の口元に耳を寄せる。監視カメラがあることを承知している銀色は、男の唇の動きで会話の内容を悟られることを避けようとしていた。
「行っても、かまわねぇぞ」
思いがけない、そんなことを言われてしまう。
「義理立てはもういい。好きなようにしろ」
「行かねぇよ。……棄てンなよ」
銀色は喚かなかった。小さな声で男に囁き返す。
「オマエをこの世で一番愛してるって言ったろォ。なんでもすっから役に立たなくなるまでオマエの側に置いとけぇ。誓った、だろぉがぁ」
大昔、まだ少年だった頃、交わした約束を銀色が口にする。そうして自棄の勢いで唇を重ねた。押し付けるだけの不器用さは、イタリアマフィア界で随一のUn bel uomo、二枚目の色男として知られたあの跳ね馬の情人だったとは思えないやり方。
決死の覚悟のキスだった。けれど唇を離したとき、オトコは少しも、嬉しそうではなくて。
「ムリすんな」
ごく淡白に、冷静にそう言われて、銀色は情けなくて、泣きたくなってしまう。
「してねぇよ」
「情けねぇツラしてるぞ」
「そりゃぁなぁ、キスしてやってんのにてめぇがちっとも、喜ばねぇからだぁ」
「顰めツラでムリして、されてもな」
あまり嬉しくはないと男が呟く。身体に掛けられていた毛布を手に取り、もう一度、シーツに身を横たえる。まだ本調子ではないらしい。
「ちょ、待てよ。水のんでから眠れぇ」
「……カフェがいい」
男が贅沢を言う。おぉよと答えて銀色は部屋の隅に用意された茶器とポットでカフェを煎れる。ぬるめにしてミルクと砂糖を混ぜ、一応の毒見をしてベッドの上の男のもとへ持ってきた。手渡そうとはせずに口元へ差し出す。男は素直に顔を傾けて。その手からカフェを飲んだ。
「いいぜ」
こくこくと動く喉を眺めながら、銀色が覚悟を決めたように、告げる。
「つめろぉ。一緒に寝てやっからよぉ」
銀色の鮫は昨夜から殆ど睡眠とっていない。男にぴたりと付き添って、その容態に一喜一憂していた。
「いらねぇ。退け」
「うっせぇ。邪魔なら投げ飛ばしてみやがれ」
出来もしねぇくせに我儘言うんじゃねぇよと、銀色が吠える。男は本当に眠いらしい。がなり立てられながらも目を閉じ、深く息を吸い込む。
「使って、いいぜぇ。明日、好きなよーに。部屋に行くからよぉ、なぁ、だから……」
自分のカラダを男が好きなように、セックスに使ってくれていい。だから。
「そばから、追い出すなよ。なぁ?」
半分眠りながら、オトコは銀色のその言葉を聞いていた。かわいそうにと本当に思いながら。追放されたくなさにセックスを差し出そうとしている様子が憐れだった。でも。
義理寝じゃ意味がないんだと、まだ分からない、コレを本当に愚かだとも心から思った。あきれ果てた。絶望に近い気持ちに胸が塞がる。ムリヤリの力ずくでいいなら、とっくに自分のオンナにしていたのだ、十何年も隣に置いていたのに手をつけないで置いてやった、理由をまだ、理解していないコレは本当に馬鹿だ。
「……来るな」
夢うつつの中で正直なことを呟く。
「オレを……」
愛していないくせに、愛せなかったくせに、来るな。
台詞の後半は寝息に紛れた。けれどこの男の生態に慣れた銀色の耳には最後まで届いた。
「よく、分かんねぇぞぉ、そーゆーの」
眠ってしまった男に腕を伸ばす。意識のない男は素直だった。銀色の薄い胸に顔を押し付けるような仕草で大人しく抱きしめられる。銀色は虎を懐かせているような気持ちになってしまう。キュッと胸が絞られる感覚が愛情ではない訳がないと思う。
「……分かんねぇ」
セックスには違和感があった。発情しない相手に引き据えられてカラダを繋げられるのは苦しかった。苦しさに耐えかねて性交は拒否した。でも愛情がない訳ではない。そんなに欲しいンならカラダぐらい、やつぱ好きにしやがれと、思うのは愛情に決まっている。
「心配、した」
ヴァリアーの医務室では処置しきれず、薬剤性ショックで体温の下がった男を担いで車に乗せボンゴレ本邸に駆けつけた。ルッスーリアが運転して、銀色の鮫は男を抱いて暖め続けていた。熱がなかなか移らずに指先が冷たいままで、コイツこのまま死んじまうんじゃという恐怖は洒落にならない深刻さだった。
「オレを棄てるな。居なくも、なるなぁ」
抱きしめた男の耳元に言いきかせるように囁く。返事はない。
「……ごめん」
それに安心して正直な本音を漏らしてしまう。
「ビビッて、たんだぁ。ごめんなぁ」
気まぐれで抱かれるならまだ良かった。妻のように扱われてどうしたらいいか分からなくなった。恋人は居たし浮気もした。どっちもお気に入りだったし、今でも好ましく思っている。けれど結局、どっちも遊び。人生を左右するほどのことではなかった。
「怖かった……」
この男をなくすほどの恐怖はこの世にない。
「元気になれぇ。んで帰ったら、ナニしてもいいぜぇ」
我儘を言ってこんな事態を招いてしまったことを銀色は心から悔いている。
「なんでもオマエの言うとおりに、すっから」
だから二度と、こんな真似はしないでくれと切なく、繰り返す。