初恋・7
夕食の席に銀色の姿は見えなかった。それに関しては幹部の全員が沈黙を守った。ボンゴレ十代目の車を検問で止めて、跳ね馬ディーノとだけ他所に行ったことはボスであるザンザスの黙認済み。ということは、その後の泊まりのこともだろうと、全員が承知していた。
朝食には姿を見せた。かなり眠そうで欠伸を噛み殺していたけれど食欲はあった。チーズのフォッカチオを千切っては、ベーコンの効いたトマト味のミネストローネスープに浸してぱくばくと食べている。その横顔に後ろめたさの翳はない。
ルッスーリアの食堂に集まった幹部のうち、前夜の当直当番だった王子様は銀色が夜明け前、跳ね馬に送られて検問の手前で車を降り、そこから検問まで歩いて、検問からは隊員の交代の車に同乗してきたことを知っている。普段の銀色なら悠々と山道を走るから、実は疲れているんだろうな、ということを分かって、前髪の下でニヤニヤとしている。
夜型生活が身についているマフィアたちの朝食時間は遅く、全員が低血圧気味朝の食卓は会話が弾まない。特にザンザスは殆ど声を出さない。その前に置かれるカフェは、その前に銀色に手渡される。
気難しいボスの好みに、朝のカフェにミルクと砂糖を混ぜられるのはこの銀色だけ。だから銀色は『仕事』以外では外泊をしてもなるべく朝食時間に間に合うよう帰ろうとする。ランサツナ気質のくせしてそういう健気な、ところがあった。
「なんか今日、オレに用事、あるかぁ?」
別にと男は淡白に答える。用事ではなく話はあったのだが、全員集合している朝の食卓ででする話でもなかった。
「んじゃオレ、昼まで寝てっから」
気だるそうな容子で大きな声を出さない銀色は艶やかな色香があった。
「好きにしろ」
「一緒に寝よっかぁ、センパーイ♪」
銀色の色香に気を引かれた王子様がそんな戯れを口にする。夜勤あけの王子様も当然、これから眠るのだが。
「イヤなこった。寝首かかれそうでおちおち、目ぇつぶっていられねぇ」
「あはは……。ジョーダンだよ勿論。本気じゃないよ全然。……あははははー」
「うるさいわよ、ベルちゃん」
ザンザスが空になったカフェのカップを置いて席を立つ。部屋に戻るボスの為にドアを開けたのは部屋の主人であるルッスーリア。それから銀色の鮫がごちそうさんとお礼のキスをルッスーリアの頬に残して出て行く。そのあたりこの銀色は王子様と並んでたいへんにお行儀が言い。
しかしその王子様は今朝、なかなか立ち上がらなかった。
「カフェをもう一杯飲む?」
「紅茶欲しい」
「いいわよ」
香りのいいダージリンをノンシュガーで、たっぷり淹れて、大きなカップでルッスーリアは王子様に渡してやった。
「びっくりしたわねぇ」
優しい声で優しいオカマは、子供の頃から知っている王子様を慰めてやる。うん、と、椅子の上でまだ固まっている王子様は暖かな紅茶に手を伸ばす。
「王子の声、大きかったかな?」
「そんな問題じゃないと思うけど」
ギロリ、と。
この王子様はさっき、ボスに睨まれた。カフェをその前に置こうと立ち上がっていた銀色は気づかなかったけれど、かなり露骨に、キツク。『怒りんぼ』のザンザスは基本的に常時不機嫌だが、感情を露わにすることは滅多にない。睨む、というはっきりとした威嚇は珍しい。
「ジョーダンだったんだけど」
「もちろん分かっているわ」
情人と逢瀬を愉しんで朝帰りの仲間をからかっただけ、ということは分かっている。そこに嫉妬は混ざっていないでもないが、それは母親の再婚に反発する子供のようなもの。この王子は、ほんの子供の頃にヴアリアーに引き取られて育った。銀色とオカマが親代わりだった時期がある。
「ボスだって本当は分かっているわよ」
「んじゃナンで、王子睨まれたのさ」
「スクちゃんの身代わりでしょう。気にしないでいいわよ」
「えー。王子納得できなーい」
やっと元気の出てきた王子様は、紅茶を飲み終わる頃、あれ、と気がついた。
「そもそもナンで、センパイが起こられんの?」
別に悪い事はしていない。
「それがアタシも、さっきから怖くて」
自分の為に淹れたカモミールのハーブティーを飲みながら、オカマはサングラスの奥で目を伏せる。
「どうしようかしらって、思っているところよ」
「なにを?」
キョトンとした王子様の鈍感さが、オカマには心底、羨ましかった。
ボスの給仕は側近中の側近にだけ許される名誉な仕事だ。
「オレもコーヒー飲んでいいかぁー?」
ヴァリアーの幹部たちは、ランチは各々、好きなように食べる。朝食が九時なので食べない者も居る。この銀色もそうで、昼さがりのおやつの時間に甘いパン、コルネットやバンドーロを抓んで夕食までの腹を持たせる。
ザンザスは昼もきちんと食べる。食べるが量はさすがに軽い。今日はキャベツとチーズのマスタード和えにハムを敷いたバニーニ。男にカフェを注ぎながら、寝起きで喉の渇いている銀色は自分もそれを飲んで良いかと主人に尋ねる。
「……」
ノーの返事がないのはイエスだと勝手に解釈し、予備のカップに暖かなカフェを注いで、壁によりかかり口をつける。こういう適当さがあるからこそ、この銀色は気難しい男に、時々キレたりキレられたりしながらも長く仕えてきた。
銀色はカフェをブラックのまま飲む。苦味と暖かさが、寝足りたカラダに沁みこむようだった。昼からは少しトレーニングをしようと思いながら外を見る。気温は低いが雲は少なく、明るく、いい天気だった。
「オマエのガキは」
声をかけられ銀色は男の方を向く。バニーニを食べ終えてカフェを飲む男がカップの淵から自分を眺めている。
「オマエ以外に本命が居るらしいぞ」
ぼんやりしていた銀色は最初、男が何を言っているのかよく分からなかった。
「沢田綱吉が話していった」
「……ああ、知っているぜぇ。お前もお気に入りのアッシュグレイだろ」
銀色はあっさりと答える。名前ではなく珍しい髪の色を呼ぶ。気に入った覚えのない男はそれには答えなかったが、銀色が平気そうなのは気に触った。
「遊ばれたんだぞてめぇは。腹が立たねぇのか」
少し厳しい声で尋ねる。べつにぃと、銀色はごくあっさりとした口調で答えた。
「真剣に愛しあうつもりなんざねぇよ。お互い、最初から」
「じゃあなんで寝た」
遊びならもっと後腐れのない相手が街にはいくらでも居る。なのにどうして、わざわざ、よりによって、後の揉め事の種子になりそうなボンゴレの守護者とそうしたのか、男には本当にワケが分からない。
「だから、前から、約束しててよぉ」
その説明はもう聞いた。そうではなく、そもそもの最初の話を。
「なんでそんな約束しやがった」
その気になった、理由が知りたいのだ。何故知りたいのかは分からないけれど。その条件がいずれ成立することを承知で約束をしてしまったのはどうしてなのか。愛し合ったというワケでもないのに、どうして?
「あー……。んー……」
「答えろ」
「ちょっと待てぇ。まだ考えてんだぁ」
銀色が美しい髪をくしゃっと掻き上げる。さらさら、指の間から流れる絹糸。顔色は冴えて、昨夜の情事が甘い優しいものだったと眺めている男に悟らせる。浮気をされて逆ギレされて尚、手を上げることもしなかったらしい跳ね馬を心の中で、男は忌々しく思ったが口には出さなかった。オマエにゃカンケーねぇだろうと言われることが分かっていたから。実際、何の関係もありはしない。……筈だ。
キャバッローネの跳ね馬、あの極上の相手にあれほど愛されているくせにどうして、他に本命が居るガキに触れさせたのかという、疑問の、返答は。
「縁が深いんだぁ、アイツとは、色々、凄く」
それは分からないでもない。あのガキはこの銀色の、人生初めての敗北の相手。ガキに負けたこの銀色は、ガキに自身を食わせるつもりらしい。そうしてより大きく育て上げるつもり。研鑽の技を惜しみなく与えているのは、そういうことなのだろう。剣の継承と言うものは、そんなものなのだろう。少なくともこの銀色にとっては。
「一遍ぐれぇ、ヤっちまっとかねぇと色々、落ち着かねぇじゃねぇか」
「ヤって落ち着いたのか?」
騒ぎになっただけではないのかと、男は忌々しく尋ねる。
「めーわく掛けたのは悪かったけどよぉ」
「……」
別に迷惑ではない。逆に好都合だった。この銀色に会いたくて焦がれる余り、ドン・キャバッローネは希少な匣兵器を探し出し、それは沢田綱吉の手を経て顔に傷のある男のものになった。
「それでもやっぱ、ツマンネーじゃねぇか。何時までも赤の他人じゃよぉー」
つまんねーじゃないか、と、銀色が悪い顔で笑う。
「……」
頭を殴られてような衝撃を、どうして自分が受けるのか、オトコにはワケが分からなかった。
「どーした?変な顔してっぞぉ?」
銀色が不思議そうに尋ねる。
「てめぇの馬鹿馬鹿しさに改めて呆れンだ」
男はすらりと嘘を答えた。真っ赤な嘘だった。そんなことではない。そんなレベルの衝撃ではない。
「ほっとけぇ。オレが馬鹿なのぐれぇ、とっくにご承知じゃなかったのかぁ、賢いボスさんはよぉ」
憎まれ口を叩き返しながら銀色はトレーを持って出て行く。後ろ足で器用にドアを引っ掛けて閉めていく、後姿を、男は最後まで眺めていた。
昨日眺めた、アレもなかなかだった。けれど後姿の腰つきはこっちの方がイイと、思うのは身贔屓だろうか。多分、そうだ。それにしても。
なんてバカだと、男は天井を仰いで息を吐く。そうしてブーツの脚を机の上に行儀悪く乗せた。腕を上げて顔に乗せて暫くじっとして、自分の気持ちが落ち着くのを、待った。
他人のまんまじゃつまんねーじゃねぇかと、あっさり言ったあの銀色が気になる。気に入らない。分かっているのか、居ないのか。多分百パーセント、あれは何一つ分かっていない。
自分たちもそうだ。他人だ。あんなガキより自分との方が、ずっとずっと縁は深い筈。なのに自分とは他人のままでいいのか。オレより先に、あっちと契ったのか。
その事実に衝撃を受ける自分を、男は、本当に愚かだと、心からそう思った。これは何かの間違い、こんな気持ちになるのはおかしなことだ。おかしな……。
衝撃が静まって気持ちが落ち着くのを待つ。感情のふり幅が大きい自分であることは自覚している。そうして男は賢かったので、感情のままに行動してろくなことにならないことも、きちんと分かっていた。
深呼吸を繰り返す。心の中の波はなかなか収まらない。銀色の後姿がチラチラする。新顔のガキのくせしてあの姿を抱いたのか。ドン・キャバッローネの長い情人だと知って手をつけたのか。馬鹿馬鹿しいほどいい度胸をしている。バカ同士で気があったのかもしれないと心の中で悪態をついてみても感情の波は収まらない。波頭はいっそう白く泡立つ。
気持ちの中の、ひどく苦い味の正体を男は知りたくなかった。男は本当に賢くて、だから薄々、もう分かっていたから。それが嫉妬というもの、だと。