初恋・9

 

 

 

 昼過ぎから曇りだした天気は夕暮れの後に荒れ始めた。

「嵐になるわねぇ」

 と、ルッスーリアが言ったのは銀色の髪を見ながら。アジのグリルを熱心に解体する銀色の髪が、普段はゴムが滑り落ちるストレートなのに緩くカーブがかかっている。湿度の変化に気圧の急変が加わるとそうなる。

「今夜はお外に出ちゃダルよ、ベルちゃん」

 優しい声でそう言われ、出ないよと王子様は答えた。

「王子、雨、大っ嫌いだもん」

 答えながらじっと銀色の手元を羨ましそうに眺める。片手が義手とは思えぬ器用さで解体している魚の皿は本人ではなくザンザスのもの。アジは美味いが身が崩れやすくてやや食べにくい。そういう皿が出ると、サブがボスの魚の身と骨を分離してやるのはヴァリアーの長年の習慣。

白ワインを振り掛けられ、腹にタイムを詰められ、ニンニクとオリーブオイルを掛けてローストされた味わいは素晴らしく美味しい。面倒くさがりのボスは魚も骨付きに肉も自分からは食べようとしないが、銀色が解体してやれば口に入れる。御曹司らしく、我儘でというより甘ったれなところがあった。

甘ったれでは負けていない王子様は、いいなぁアレ、と思いながら眺めている。子供の頃は王子様のも銀色は解体してくれた。オトナになりかける頃、何度か教えられて、それきり自分でしなければならなくなった。

その時に抗議はしたが、いつまでもオレにやらせんなオレが喰えねぇだろぉがぁと、がなりたてられて諦めた。王子は諦めたのにボスだけ甘やかされてずるいと、子供のような気持ちで王子様は思っている。もちろんそれ以上に、ボスはボスだから仕方がない、とも、思っているのだけれど。

「ずいぷんひどくなりそうね。非番の隊員にも待機命令を出しておきましょうか」

 銀色の髪のウェーブがことに深い。ボスの皿の魚を食べやすく解体し終わった銀色は、自分の分に無造作にナイフを入れながらそうだなと答えた。今夜の宿直当番はルッスーリアだが、非常事態となれば幹部のトップである銀色が出てくる。そうしておけと、アジの十字の切れ目にナイフを入れいい匂いの白い身を骨から上手に剥がして口に入れる。

「そーしとけぇ」

 はぐっ、とそれをフォークで掬い取って口に運ぶ銀色は、隣に座る男がちらりと自分を眺めたことに気づかなかった。痩せぎすで、普段は直線的な印象の自分の横顔を、ウェーブのかかった髪が縁取ると優しい印象になることを知らない。

「王子は嵐キライだから。毛布かぶって部屋で震えてっから、最後まで起こさないで」

「てめーみてぇなヤクタタズ、誰が起こすかぁー!」

 銀色が喚く。彼らのボスは目を伏せる。白身魚の身を口に運ぶ。パリッとした皮にも臭みはなく本当に美味い。グラスの酒を口に含む。別の魚の味を消そうとして。

 

 

 

 

 そうして、深夜。

「起きてちょうだい、ベルちゃん。手伝って」

 約束は破られる。王子様の安眠はあっさりと破られた。

「予備隊の指揮をお願い」

「……ん」

 普段からギャイギャイと喚いていても、仕事となればそれなりに精励する王子様はけっこうあっさり起き上がる。ヤバくなりそうな夜は服を着たまま眠っているから、髪だけ手櫛で整えて部屋を出る。防弾ペアガラスの嵌った幹部用が居住する一角は外の音が遮断されているけれど、闇の中では豪雨が降りしきり、糸杉の先端は風に煽られてかなりの角度で傾いでいる。

「あーらしーだ、あーらしぃだー♪」

「好きねぇ、ベルちゃん」

「ダイスキ。だって王子だもん」

 気性と似合う天候に鼻歌気分で非常時には司令部となる会議室へ入った王子様はしかし、そこに居るべき人間が居ないのに気づいてルッスーリアを振り向く。

「センパイは?」

「居ないわよ。だからあなたを起こしたの」

「はぁ?ナニソレ。ンなのアリー?こーゆー時はさぁ、偉いヤツから苦労すんのが当たり前じゃん。センパイ何処に居るんだよ、呼び出せよ」

「ボスのお部屋に報告に行ったっきり、帰ってこないのよ」

「……え」

 不平の声を上げていた王子様の口がいきなり閉ざされる。夕食の時の、ボスの様子がいつもと違っていたことに王子様は気づいていた。敢えて気づかないフリをしていたけれど。

「呼んできてくれる?」

 尋ねられ、ふるふると頭を左右に振る。さらさらの髪がぱさぱさ、音をたてて頬に当たるほど。

「お、王子とルッスが居ればいーじゃんジューブンじゃん。さぁ働こうぜぇ!た              隊員君たちは揃ってるかなー?」

 王子様が白々しいスキップで部屋へ入り、機器のスイッチを入れる。敵襲という訳ではなく天災だが、奇襲というものは天候の急変に乗じて行われるもの。警戒は怠れない。

「荒れそうねぇ……」

 ルッスーリアが呟いた言葉は、天候に対してではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なに、なに、なんで?

 暗闇の中で銀色がかんがえていたのはそれだけ。それ以上の思考は、衝撃の余り、止まってしまっていた。

 なんで、なに、な、に?

 何が自分の身の上に起こっているのか分からない訳ではない。けれど理由が分からない。どうしてこんなことをされるのか理解できなくて、起こりつつある現実を意識が受け入れることを拒む。

 硬い腕で抱きしめられることも、組み敷かれ脚を開かされ、狭間にオスを捻じ込まれることもある意味、慣れていた。尋常な濃い媚と同士と違ってあまり会えないので数はこなしていないが、それでも数少ない逢瀬のたびに、跳ね馬の異名をとるドン・キャバッローネに抱きつくされていれば、経験豊富と言っても間違いではない。

 唇は動かなかった。抵抗も、手首で抗うことさえ出来なかった。思いつかなかった。強張り、呆然としている銀色を男は王者の権利で意のままに従わせた。けれど、男同士の構造上の問題で、繋がりだけは、そのままでは出来なかった。

「……」

 呆然自失、という様子の銀色を抱きしめる。既に何度も繰り返したキスを与えてやりながら、オトコは言うべき言葉を捜した。何をどう伝えるべきなのか、考えたけれど、思いつかなくて。

「別れろ」

 低く恐ろしい、肉食獣の唸りにも似た声音で告げたのはそんなこと。

「跳ね馬と、ガキとは、別れろ」

 言うべきことではなく言いたいことを言ってしまう。ずいぶん前から、それを言いたかった。

ガキどもとは手を切れ。遊びは終わりだ。

オマエは、オレの……。

「返事は?」

 イエスの答えを促す男は、一方的な通達で済ませるいつものようではなかった。答えを欲しがる時点でおかしい。重ねた狭間を揺らして繋がる為の蜜の分泌を促しながら、銀色の答えを待った。

 明らかに嬉しそうではない顔で、見た事がないほど傷ついた表情で、怯え恐れながら自分を見上げてくるオンナが、唇を震わせ、ごくりと唾を飲み込んで。

「……、な、んで……?」

 怖がりながら、そんなことを尋ねてくるのに、オトコはそっと、笑いかけてやる。けっこう真面目な精一杯だった。けれど益々泣きそうな顔をされ、苦笑を枕に押し付けてごまかす。

 笑い返されなかったことへの失望は誤魔化せた。けれどカラダの奥底から疼くコレへの渇望は、押し殺しそうとしてもしても、どうしても消せなかった。

「オレのに、するからだ」

 今から。だから他の男とは別れろと、これが私通ではなくなる為に口約束だけでいいから、先にさせようとしていた。

「なん、で……、こんな……?」 

 銀色の意識はまだそこへ行き着いていない。なんでと問うている理由は恋人たちとの別離の要求ではなく、なんでオレにこんなことするんだよぉという、嘆き。男にとっては今さらな問いかけだった。けれどもこの相手にとっては突然の嵐なのだと理解して、その鈍感さを、男は叱らなかった。

 理由なんか、分かっているではないか。一つしかないではないか。こんなことをする、したい動機は、いつも、ひとつ。

「いつまでも、他人じゃつまんねぇだろうが」

 この銀色からここ暫く、散々に受け続けた衝撃のうち、一番重かったものを投げ返す。他の男のモノと思っていたから手出しをせずに居た。そういうことの相手の範疇に入れていなかった自分の素直さ単純さを、あんなガキに覆されてひどい恥辱を、受けたような気がした。

「ちからぬけ」

 早口で命令する。具体的な指示につい、銀色は従ってしまう。

「あ……」

 見開かれた瞳の、眦が避けそうで可哀想で、男が思わず唇を寄せる。見る見るうちに滲んで零れる涙の味はいつまでも悲しみに満ちて辛く、いつまでたっても、陶酔の甘い味にはならなかった。