Hybrid-1
記憶の中で一番古い場面は父親が追われていく後姿。縄張り争いに負けた雄オオカミは文字通り尻尾を巻いて、噛まれた右の後ろ肢を引き摺りながら慣れ親しんだ棲家から追い出された。残された雌オオカミは夫を追放した強壮な雄を恐れつつ、それでも姿勢を低くして威嚇の唸り声を上げた。
若いペアの縄張りを奪いに来た片目の雄は恐ろしく強かったが、雌唸られて前肢を折り、伏せの姿勢で胸の柔毛を地面につけた。それは降参、この場合は危害を加えることはしないよ、という意思表示。それはそうだ。雄同士の縄張り争いは繁殖期が近い時期に起こる。母親は当時、五・六歳。繁殖をはじめたばかりの美しく若い雌で、銀灰色の毛並みは艶やかで姿も美しかった。そんな時期に、こんな雌に、危害を加える馬鹿は居ない。
地面に伏せながら雄オオカミは優しく鳴いた。そんなに警戒しないでこちらへおいでと、かなり紳士的に誘ったのだ。狼は血縁で群れを作り広大な縄張りの内側で獲物を狩る。強い雄は豊かで広い縄張りを持つから、その庇護下に入ることは、雌にとっても、悪い事でもなかった。強い雄と交われば強い子が産める。そうしてその子を無事に育てる環境も整う。
へりくだり下手に出る雄オオカミの態度を見て若い雌は唸る事はやめたが、それでも警戒は解かずじりじりと後ずさる。やれやれ、という風にゆっくり雄は起き上がった。自分より若い雄を簡単に追っただけあって体躯は大きかった。体長は百五十センチ、ふさふさの尾を入れればもっとある。体高は九十センチを越え、体重は七十キロ近いだろう。ハイイロオオカミ亜種であるシンリンオオカミの雄としては最大級の個体だ。人間が飼うシェパードやグレートデンよりも更に大きい。毛の色あいは濃いが赤味は少なくて、殆ど黒に近い。北方に多い毛色だった。
足音を立てず静かに、大きな雄は若い雌に近付く。幅広い肩をなるべく低くして、威圧感を与えないよう気遣いながら。雌は悲鳴に近い声を上げくるりと後ろを向き、何かを庇う仕草を見せた。
隻眼の雄が立ち止まる。その何かがなんなのか気付いて。雌の前肢の間にはまだ幼い、生まれて半年にもならない子供が震えながら、自分の父親を追放した知らない雄を見ていた。
「これは……、困ったね」
隻眼を細めて雄オオカミが苦笑する。その表情には余裕というか、穏やかさがあった。そして。
「女の子です」
若い雌は初めて声を出す。雄の寛恕を得ようとして。
「小さな女の子です。邪魔にはならないわ」
彼女が必死なのには理由があった。中型以上の肉食獣の子供にとって、父親以外の成獣の雄は脅威となる。子育て中の雌は発情しなくなるから。新しく手に入れた雌に自身の子を孕ませるために、その雌が育てているほかの雄の子供を殺して雌の発情を促すのは、当たり前に行われていることだ。
「どれ。見せてごらん」
雄に促され、母親は泣きそうな顔で、それでも逆らわず身体をずらした。我が子が助かるかもしれない可能性を自身が従順になることで探ろうとしている健気さに、新しく彼女の支配者となった雄は応えた。
「いいだろう。ただ条件がある。この子は私の群れの女たちに引き渡しなさい」
子供を取り上げることで新しい雌に発情を促すつもり。雌は不安そうに瞬いたが、頭を下げて、承知の仕草をした。雄オオカミの頑丈な前肢の間に子供は納められ、大きな舌に、ぺろりと舐められて。
子供は大人しく、じっとしていた。幼心に今、自分の生存に関わる運命が、左右されようとしているのが分かった。
「なるほど可愛らしい、君に似ているな」
雄は前肢から子供を解放する。そうしてゆっくり、不安そうな若い雌に近付く。雄の関心が子供から離れたことにほっとして、雌オオカミはほんの少しだけ笑った。
「何も悲しむことはない。あの男より、君を可愛がってあげるよ」
囁きながら口元を舐める隻眼の雄の望みに、雌は従順に従う。子供の安全を確保さえ出来れば、より強い雄を迎えるのは子孫繁栄のためには歓迎すべきこと。
鼻先でつつかれ促されて、若い雌も唇を開き大きな雄の口元を舐め返した。そうしてゆっくり、地面に仰向けに押し伏せられる。咽と腹を晒す仕草は従属の証で、雄は満足そうに、雌の柔らかな胸の白い毛並みに顔を埋める。
母親が愛撫されていくのを子供はじっと大人しく見ていた。まだ雌は発情していなくて、だから繁殖のための交尾はできなかったが、それを促すために雄が若い雌に重なって柔らかく撫でていくのを。
「……、ん……」
最初は緊張していた雌だが、隻眼の大きな雄の気長な優しさに和らいで、最後には甘い鳴き声をもらした。
「いい子だ」
満足しきった表情で大きな雄は身体を離す。呆然と四肢を放り出して喘ぐ雌の背中から腰にかけてを丁寧に舐めて、逆目だった毛並みを戻してやりながら。
「また明日、来る。君が私の子を孕んだら、子供は返してあげるとしよう」
雌が落ち着き、自力で起き上がったのを確認してから、隻眼の雄は大人しく伏せていた子供においでと鼻を鳴らす。子供は素直に立ち上がり、ぽとぽと歩いて雄の目の前にやって来た。その首の後ろを噛んで、雄は子供を運び去ろうとする。母親は悲しそうな顔をして、そして。
「あなたのいうことを聞きます。だから、見えないところで殺したりしないで」
連れ去られてしまう子供の命を雄に願う。
「疑い深い人だな。わたしは女には優しいよ。そう、忘れていた。わたしの名前はね」
「存知あげてます。……キング」
若い雌の笑顔には媚があった。けれど我が子の為だったから、それも美しく雄の目に映った。
「そうか。では、また、明日」
子供も知っていた。その名前の雄のことは。この草原の中央の、水場と獲物の多い広大な縄張りを持つ強壮な雄。パックと呼ばれる群れを率いているが、通常の雌雄のつがいではなく複数の雌を配下に持つ。縄張りを奪うと同時にペアの雌を手に入れていれば自然とそういうことになる。
子供も知っていた。草原のキングは畏怖されて、片目は若い頃、子育て中の巣穴を襲ったグリズリーとの闘いの中で失ったということも。その闘いにキングが勝利したことで、獲物の競合するグリズリーはこの草原に姿を現すことがなくなって、おかげでオオカミは個体数を増やした。ずば抜けて強い雄の存在は種族を繁栄させる。その代償に自分以外の雄を近辺から追い払い、数多くの雌を侍らせることは本能に許されている。
大きな雄に運び去られながら、子供はじっと、本当に大人しくしていた。かなり早い足取りで隻眼の雄は岩場の棲家へ戻り、その気配を察して雌たちがいわばのあちこちから顔を出し雄を迎えた。
「あら、可愛い子。どうなさったの？」
雌たちは共同で子育てをしている。群れの子供を一纏めにして面倒を見ることに慣れた彼女たちは、見慣れぬ子供にも敵意を持たなかった。
「拾った。暫く育ててやってくれ」
隻眼の雄は雌たちに、彼女らの順位に従って鼻先をすりつけ帰宅の挨拶をした。雌たちは雄の身体から自分達とは違う雌の匂いを嗅ぎつけたが、誰もそのことを指摘はしなかった。
「離乳しているかしら。微妙な時期ね」
「こちらへいらっしゃい。とりあえず今夜はミルクを飲んでお休みなさいな」
雌たちは優しくしてくれた。前年の出産が遅れてまだ、授乳中だった雌が胸元に吸い付かせてくれて、そのままその雌の子供たちに混ざって眠った。翌日からも群れの子供らと分け隔てなく母乳を与えられ、離乳のための肉片を与えられて、居心地のいい涼しい岩場でゆったりと過ごした。
快適な環境に子供は慣れやすくて、すぐに母親のことは忘れてしまった。一ヶ月ほど後に腹の膨らんだ母親が、雄に伴われて岩場へやって来るまで。やはり会えれば母親は懐かしくて、子供はぴったり、母親に寄り添って体を擦り付けた。
「さて、では君たちは、一緒に好きな場所を選びたまえ」
母親も子供の無事な姿を喜び、その様を隻眼の雄は和やかに眺める。岩場には子育てに向いた岩穴が数多くあって、雄の子を育てている、或いは孕んでいる雌たちがその庇護のもと、快適に暮らしている。その一つに居を定めて、子供は母親の懐で眠った。