体力に自信のない者は居ない、ボンゴレ十代目スタッフの面々だったけれど。
「ぐぅぐぅ、すぴーっ」
新生児の子育てというのは使う体力の質が違う。二〜三時間おきの授乳とオムツ替えは、一発勝負の瞬間暴力に優れた男性的な『強さ』とは異質の『力』が必要で。
「ぐぅ、ぐぅぐぅ、ぐーっ」
ビアンキは留守、獄寺はボンゴレ本邸の九代目のもとへ沢田綱吉とともに呼び出され、銀色の鮫はボンゴレ警備担当者たちの定例会議に出席。意外と頼りになる雲雀恭弥も並盛財団の仕事で留守、という状況で一日、孤軍奮闘した山本武は。
「ぐぅ、むにゃむにゃ、ぐぅーっ」
夕食も作らずに眠っていた。腕には赤子を抱いて、居間のラグの上で横向きに、ごろん、と。どうやら寝かしつけようとしていて、自分も一緒に意識消失してしまったらしい。赤子は山本の上での中で機嫌よく寝息をたてている。
場所は館の最奥、ビアンキが私的に使っているゲストルーム。館の最奥にある部屋の中で、表に出されることも殆どなく、子供は大切に育てられている。
「なぁにやってんだよ、バカモト」
と、無慈悲に前髪を掴んで引っ張ったのは、若い男の薄情な恋人。
「お、っあ、って、……え?」
飛び起きた山本は赤子を腕から引っこ抜かれて、自分が子供を抱いたままうたた寝してたいたことに気づく。
「あー、ごめん。眠ってた」
赤子は腕を移ってもすやすや。おむつは乾いていて空腹でもないらしい。ということは、寝ていたのは長くても一時間くらいだ。ただいま、と、獄寺は恋人にではなく、赤子にキスをした。
「いい子にしてたかぁー?ん?」
「すげぇイイコにしてたぜ。ミルクもちゃんと全部飲んで、あんまり泣かなかったし」
にこにこしながら山本は報告する。眠ってしまったところを見つかったバツの悪さに頭を掻きながら、それでもちゃんと子守していたのだと、一生懸命に言い募る。
「そっかぁー、いっぱい飲んでおっきくなれよー」
赤子は現在、人工ミルクで育っている。生後半月ほどは『母親』の母乳もそこそこ豊かだったのだがその後はほぼ涸れてしまった。医師のシャマルに言わせれば、生後一週間ほども初乳を飲んでいれば免疫抗体や腸内細菌は赤ん坊に移されており、後は人工栄養でなんら問題ない、ということだった。
「おっきくなったよな、凄く」
獄寺の腕の中で赤ん坊は目を覚ました。真っ黒な目を開く。視力はまだ限定的だが三十センチほどの距離のものは見えている。司会の中に獄寺を見つけて安心したようにふにゃんと全身を緩め、また目を閉じた。
「オレのこと分かってんのか?んん?」
分かっているらしい様子に獄寺は上機嫌。この気難しいオンナにしては珍しい穏やかな笑みを浮かべる。つられてえへへと、山本武も笑った。恋人が嬉しそうにしているとハンサムな顔がだらしなく緩む。
「銀色が帰ってきたらよ、ちょっと相談、してーことがあんだ。メシ食い終わった後で」
赤子を上手に揺らしながら獄寺がそう言う。メシ、という単語を聞いて山本武ははっとした。
「あ、しまった。オレ今日、なんにも作ってねーや」
この館には常時三十名ほどのスタッフが勤務している。マフィアのグループは『ファミリー』であるからして、部下に食事を提供するのはボスの義務でもある。彼らのために専門の調理人が雇われ食堂では『給食』が供されるけれど、山本武がイタリアに居るときはちょいちょいと、手料理をそれに加えて、食卓を彩るのが習慣。
「紅鮭のフィレ、あったろ。アレ炙りゃいーんじゃねーか?」
山本の部屋の冷蔵庫の中身を、よくよく知っている獄寺がそう言った。一緒に『作戦』を考えてくれる優しさ、というよりも距離の近さが山本には嬉しい。
「オレは柚子胡椒な」
「うん、行って来る」
赤子を抱く獄寺の唇に軽くキスをして山本は立ち上がる。食事の用意が出来るまで、獄寺はここで子供の面倒をみているつもり。
「アネゴ、いつ戻ってくるんだったっけ?」
「明日だ。夕方までには、帰ってくる予定は未定だぜ」
「んじゃ今夜、オレもここに寝るのな。オマエ一人じゃ、夜中たいへんだろ?」
昼間にイロイロと苦労したらしい山本が健気にそう、申し出たけれど。
「てめぇみてーなヘタレと一緒にすんじゃねーよ」
オレは平気だと獄寺に、せせら笑われてしまう。
「アネゴの部屋で、ナンにもしねーのな?」
「ばぁか。ンなこと気にしてんじゃねーよ。てめぇ明日は十代目の身辺警護だろーが。寝不足でふらふらされちゃ、イロイロメーワクなんだよ」
「まぁ、そーだけどさぁ……」
獄寺は随分と、本当にかなり、もとに戻りつつある。寝込んでしまってげっそり落ちた筋肉を取り戻すべく、ストレッチや水泳という運動も始めている。けれどもまだデスクワークだけで本来の職務には復帰していない。
その穴は銀色のオンナが埋めてくれていて、そのことを山本武はたいそう感謝している。
「アネゴもオマエも、凄いのな。オレもー、マジそんけーする。こんなの三日も続けたら、オレなら過労死しちまうのなー」
「てめーみてーな、ヘタレと一緒にすんじゃねーよ」
マフィアの世界では性別に関係なく強いというのは最高の褒め言葉。それを呈されて獄寺は少しだけ笑う。
「まーナンだ。オンナの方が、持久力があんのは当たり前だろ」
「持久力ってゆーか、愛だよなぁー」
「かもな」
マスを含む『サーモン』は品種が多く、養殖業者が故意につけた紛らわしい呼称も複数あって、なかなか難しい。
「この、赤、いっつも、すっげー美味いぞぉー」
シーフード好きの銀色のオンナがそう言って歓ぶ。うんそうだねと沢田綱吉も同意した。財団から戻った雲雀は無言で無心に箸を動かしている。
アトランティックサーモンというのはもともとは太平洋で獲れる鮭のことだったが、現在は養殖鮭の代名詞になっている。トラ宇土サーモンというのは鮭ではなく鱒で、ニジマスを養殖したものだ。紅鮭は天然が主流だが、陸封されればヒメマスと呼ばれるのだから、まことに分かりにくい。
海に下れば鮭、川や湖に残れば鱒、という区分でもない。ヤマメやアマゴはサクラマスとサツキマスの河川残留型である。混血によるハイブリッドも進みやすく、ようするに、ワケが分からないが、とにかく。
「うん。サーモンステーキにするにはキングサーモンの方がいいどさ、塩焼きとかは、紅鮭がいいよなー」
生冷凍のフィレを解凍し、生醤油にさっと漬けて焼いた切り身にレモンと大根おろしを添えた皿は、ボンゴレ十代目の幹部たちに大好評だった。
その食卓に獄寺は居ない。子供の世話をしながらビアンキの部屋で食事をしていることに、一同は敢えて触れなかった。子供のことは『公然の秘密』。ボンゴレの次期ボスの食卓という、内輪であっても公的な席に連なることは出来ないし、しないのが本人の身の安全のためでもある。
「悪ィけどさぁ、スクアーロ、喰ったら奥に、ちょっと付き合ってくんね?」
みなが食べ終わった皿を山本が洗う。片づけを手伝いながら、それが赤ん坊に関することだと、銀色のオンナには分かった。
ボンゴレ九代目に呼び出されていた獄寺が、伝えた『話』を聞くなり銀色のオンナは考え込んでしまった。
「悪かぁねぇと、オレは思うんだけどよ」
ゴッドファーザーという語の本来の意味は幼児洗礼における代父、つまり、洗礼名の名付け親を意味する。
「あんたの意見も聞いてからにしよーと思って、返事は保留してきたンだ」
現在はマフィアのボスを指す言葉になったが、つまりは後見人というか、庇護者というか、そういうことである。
「一応さ、跳ね馬に頼んでうんって言わせてっから、そっちの義理もあるしよ」
昼間、沢田綱吉とともに呼び出されたボンゴレの本邸では組織の継承に関わる様々のことを話し合った。そうして若者たちが退出する寸前、九代目はお供として控えていた獄寺に声をかけた。子供を産んだらしいね、と、実に自然に、かえって白々しく。
獄寺は下げた頭を更に低くして肯定の意を表する。カラダの具合はもういいのかね、子供は元気かね、そんなありきたりのことを老人は尋ねて、そして。
「ボンゴレ九代目が名付け親ってのはよ、タケルにとっても、悪いことじゃねぇだろ?」
おもいがけない申し出を口にしたの、だった。