ヴァリアーの中で。
「センパイの『トコ』の子」
と、その子供は呼ばれている。スクちゃん『トコ』の子、のことを呼ぶ名称に、いつの間にかなった。
「洗礼名、ゲデオンだって。跳ね馬がつけたって」
幹部一同が揃っての夕食の席で、そんなことを言い出したのは王子様。自由気ままで非番の日には外をふらつくことも多いコレは、時々、ボンゴレ十代目の館や本邸から思わぬ情報を仕入れてくる。
「潅水礼したのは枢機卿だったってさ。信じらんねー。王子だった王子でも大司教だったのにさぁー」
赤ん坊が王家の子よりも丁寧な扱いを受けたことを、ティアラの王子様は、言葉ほど不愉快そうではなく知らせた。Tボーンステーキにナイフを入れているボスに。
「まぁ、凄いわ」
オカマが素直に感嘆する。イタリアはローマ市内に存在するバチカンの面積は東京ディズニーランドよりもやや小さい。人口800人と少しながらも主権国家であり、法王を中心として世界中のカトリック信者を統率する。
「キャバッローネはねぇ、アンブロシアーノ銀行の跡を狙っていたらしいけど、うまくいったのかもしれないわねぇ」
マフィアとの関わりは長く深い。その付き合いは信仰よりも経済活動と関連している。バチカンの金庫番は長い間、イタリア国家銀行の子会社だったアンブローシア銀行が務めていた。それがマフィアやフリーメイソン分派の関わる使途不明金・マネーロンダリング疑惑の渦中で破綻し、事件の主要人物の数人が暗殺されるという醜聞ののち、現在はロスチャイルド銀行がメインに投資活動を委託されている。
が、ロスチャイルドは、もとを糺せばユダヤ系財閥である。バチカンの御用銀行には相応しくない、という意見も聞かれることが多い。
マフィアの匂いのしない容姿と物腰を最大限に生かしたドン・キャバッローネが、その間隙に身を滑り入れようとしていることをボンゴレ上層部はよくよく知っている。同盟マフィアとしてその野心をバックアップしているし、アンブローシア銀行に関わる暗殺にも深い関わりを持っている。
「いいなー。跳ね馬が名付け親だとさ、センパイとこのコ、小遣いに不自由しなくなるんだろーなぁー。羨ましーなー。王子もお小遣いほしーなー」
「アンタは自分で働きなさい、オトナなんだから」
「それってさー、ナンかつまんなくね?」
そんな会話が交わされる。彼らのボスは口を挟まなかったが、興味深く聞いているのは全員が分かった。
「お披露目の宴会はしないでしょうね」
「しないって」
あっさり答える王子様は、どうやらボンゴレ日本支部の面々が住む館に直接、顔を出してきたらしい。今週が当直で身動きのとれないルッスーリアの代わりに。
「まー、ちょっと今、子供のお祝いとかしてる場合じゃないしさぁ。でもボンゴレの本邸には呼ばれて、九代目には挨拶して来たって。王子もちょっとダッコしたけど、マーモンと同じくらいだった。かわいーの♪」
王子様は上機嫌で話す。そうよね、可愛いのよね、と、何度も赤ん坊を抱いているオカマが同意する。
「来週、アタシ、外泊をしても構いません?」
そうして彼らのボスに、当番あけの外出を申請。
「お守りをしてあげたいわ。たまにはゴックンも子供から離れて羽根を伸ばさないと」
ジエッソの躍動に伴って、ボンゴレ十代目のブレーンである嵐の守護者は多忙になっている。子守に行く、というのは名目、援助と諜報が目的であることは知れていた。ザンザスはかすかに頷く。
「いいなー。王子も一緒に行きたいー。センパイのトコの子供と一緒に寝てみたいー」
「あんた来週は宿直当番でしょ」
「ケチー」
その夜。
ベッドに入ってから、男は少し、ものを考えた。
実は昼間、婚約者のもとを表敬訪問していた。そこで少し『落ち込んで』いたのだった。喜怒哀楽の全てを、陰鬱ながら明瞭にで過ごしてきた男は自身のその心理状態に慣れておらず、鬱々とした気分をもてあましていた。
少女と呼ぶことさえためらわれる少女は母親を亡くしたばかりで、少し寂しそうだった。それでも自身の役目と義務は分かっているらしく、訪問者である男のことを一生懸命に『もてなそう』とした。小さな手で煎れられた紅茶を飲んで辞去したのだが、痛々しいほど幼い子供の将来を、自分が云々していいのだろうかと、そんなことを真面目に考えてしまった。
年齢の問題ではなく、当然だが処女であるということでもなく、自分はあの子を愛していないのに自分のものにすることは、出来ないししたくもないと、心から思った。
遠い将来の話。けれど時間は容赦なく過ぎる。マフィアのボスの血統はこの国で『貴族』の一種であり、カラダで同盟に判をつく意味もないではない。ないが、その意味で自分は偽者。あんな子供をだましているのだという認識が苦い。
その罪から逃げたいと心から思った。雲雀恭弥にマトモと評されて戸惑った男だが、強い大きなモノに対して抵抗と反逆を繰り返してきた気性は確かにある意味でマトモ。小さな女の子をだまさなければならないのは苦痛だった。
誰か代わってくれないだろうかと心から思う。誰も代わってくれないことは分かっているけれど。
あの子供が少女から娘になって婚姻が実行される前に状況が変わることを信じてもいない神に祈りたくなった。五年もすれば社交界にもデビューしてパーティーに同伴できるよと養父は言ったが、それが何の慰めにもならないことを理解してくれないことは分かっていた。あの老人の目には自分がいつまでも少年に見えて伊、だから少女と『お似合い』に見えているのだろう。
狂っている。
それを寵愛だと、長い仲だった情婦は評した。そんなものかもしれないが底辺には狂気がある。そのひんやりとした恐さを怖れた銀色は勘がいい。二十年と少し前、沢田家光も、おそらくは同じ物を怖れ、自分の息子の前から姿を巧妙に消したのだ。
憂鬱でうんざりてうそ寒い、たまらない気分にため息をつく。浮上したくて別のことを考えた。深淵の魚が光を求めるように、気持ちが少しでも明るくなるような、ことを。
ゲデオン、という、洗礼名のことを思う。ベッドに入る前に調べた聖日が自分の誕生日だったことを思い出すと気分が浮上する。九代目の申し出を謝絶して跳ね馬を名付け親に選んだことは勇気のある行為だ。ボンゴレの狂気から少しは自由に生きられるだろう。自分や跳ね馬自身とは違って。
お披露目はしないと言っていた。したとしても自分が招かれるとは思えず、暫くは会うこともないだろう。子供の庇護者としては失格の烙印を押されて、無関係でいてくれと重々に願われた。
けれど。
血は争えず、入れ替えることも出来ない。どれほど避けようとしたしたところで事実にはいずれ向き合わなければならないときが来る。沢田綱吉が十四でリング戦を体験しなければならなかったように、自分自身であることを本人が、拒むことなど、決して出来ないのだから。
男が十六で、ボンゴレの血統に所属しておらずボスになれないのだという事実を知らなければならなかったように。
そっちの子供に関しては時間が自分の味方だと思っていた。どんなに排除しようとしてもしきれない悪あがきだと、決め付けた上で時を待つ覚悟を決めている。あの女が産んだ自分の子は、いずれ自身の意思で目の前に現れるだろう。
その対面がどんなかたちになるか、多分、穏やかなものではないだろうが、それでもいずれは、自分と無関係ではいられないだろう、と、思えば愉快だ。その時になったら銀色はまた嘆くだろうか。せいぜい泣かせないように、息子への対応は慎重にしてやることにしよう。
そんなことを考えているうちに愉快になってくる。困ったような恨むような表情で自分を見上げる銀色のオンナが目蓋の裏側に浮かぶ。そんな顔をするな。なるべくテメェの希望どおりにしてやるが、オレが父親なのは、誰にもどーしょーもねぇ厳粛な事実だろぉが、と。
告げたのは夢の中でだった。