早朝と深夜の狭間の時刻。
隣に自分以外の体温がある、という暖かさに、まだ少し慣れない銀色のオンナはまどろみの中でぼんやり、物思ってた。
男の腕の中で眠ることに違和感はあるけれどそれは嫌悪ではない。裸で眠ることだけは、非常事態に備える必要上拒否したが、動きやすい部屋着のまま他人と同じベッドで眠ることに、馴染みがなかった。
アンタって案外、あの人に甘やかされてたのなと時々、十歳近く年下のガキから笑われるたびに妙な気分になる。それは違う。よく分からないけれど多分、そういうのでは、ない。
ごく若い頃の一時期を除いて一人の男にずっと仕えていた。焦がれ死ぬほど愛した情熱は今も、そのまま胸の中にある。八年の空白を挟んで、相手にもそれなりに気に入って貰っていた。でも恋人はおろか愛人でもなかったんじゃないかと最近、ぼんやり、考える。
一緒に眠ったことはなかった。寝室で抱かれること自体少なくて、殆どが仮眠室のソファで、だった。そういう簡易なセックスは繰り返していたけれど男には献上される玄人を抱く機会も多かった。だから、オスが、長く餓えたらどんな風になるのか知らなかった。
裸にされて素肌を抱いてもらったこともあまりないような気がする。男は着衣のままが基本だった。体中に火傷の痕があって、触れると痛いんだろうと思って、シャツごしの抱擁で当たるボタンの固さも、内股に外したベルトのバックルが当たる冷たさも我慢してきた。腕時計だけは外してくれた、ほんの少しの施しを、優しいといつも思って感謝していた。けれど、でも。
結局。
あいつにとって、自分とのことは、気まぐれの暇つぶしだったのだろう、と。
別の男に抱きしめられて自覚するのは悲しい。でもそれが事実。こよなく愛した相手だったけれど、たいして愛されていなかった。仕方がないけれど寂しい。
若い男との関係で知らなかったことをたくさん思い知った。相手も自分も素裸で、熱心な前戯をされ発情を促されれば、自分がしとどに濡れることもそのうちの一つ。痩せぎすで淡白そうな見た目とは裏腹に蜜が多いことを若い男はひどく喜ぶ。けれど、好きだったアイツはそもそも、そんな甘さがあることに気づいてくれなかった。だから自分でも知らなかった。
あふれるほど濡れれば疼きがたまらなくて、腰を揺らしてしまう自分の本能を、セックスに対する意外な色深さを、オスに随分と悦ばれる意外な適性、を。
こんなガキに抱かれて初めて知るのは妙な気分だった。望どおりに犯されて揺らされて、気持ちの良さの余り男の背中を掻き毟り目の前の肩に歯をたててしまうような獣じみた欲情も、繋がったまま胸を揉みしだかれて痛いのに興奮する肉欲の不思議さも、何もかも。
背中から抱きしめられている。毛布でくるまれた上から腰に腕を廻されて暖めるようにされている。ナニを願っているか伝わってくるようにな暖かさ。
子供産んで、と、乞われたのは初めて。こんなガキにそう望まれて嬉しいという訳ではなかったが嫌でもない。願うなら叶えてやってもいいと思う。愛した男にはそんなことを、多分考えても貰えなかった寂寥が胸を噛むけれど。
何をされても熱心にされればされるほど、大事に丁寧に暖かく、されればされるほど、別の男のことをつい思い出す。比べればひどい男だった。でもダイスキだった。比べてしまえば、間もはっきりと、あの残酷な男を愛している。
「……」
背中で気配が、かすかに動く。若い男の、目が覚めたらしい。夕べは長く愛し合ったけれど寝室に入ったのが夕食後すぐで、疲れて眠りに落ちたのも宵の口だった。早朝に目が覚めるも、自然なことだ。
腰に廻されていた両手のうちの片方が外れて頬に触れられて、睫を揺らしたら。
「ごめん。まだ早いのな」
共寝の若い男に小さな声で謝られる。ふたたびの眠りを促すように髪をなでられる。そのまま自分が着ていた毛布を、腕の代わりに、腰に重ねて起き上がる。
「朝市、行って来るから」
ごく小さな声、眠っていれば聞こえない程度の囁きで告げられる。そういえば今日は金曜日。郊外で市が立つ日だ。その市場にはルッスーリアがよく足を運んで、跳ね回るような海老や剥いても身を蠢かす新鮮な牡蠣を買って来てくれた。
でもそれは空白の八年間の中の出来事。ヴァリアーのボスは肉食の面倒くさがりで、殻を剥かなければならない甲殻類や骨を避けなければいけない魚は食べたがらない。自分のことも、柔らかなフィレしか喰ってくれなかったのだ、と。
骨の髄まで啜られた夜の後で、時々考えることがある。
「おやすみ」
魚介が好きなオンナの為に新鮮なそれらを、レストランや居酒屋の経営者たちに混じって木箱で時々買い出しに行ってくれる、優しい若い男の横で、べつのことばかりを思い出しているのがほんの少しだけ、申し訳なくて。
「……事故るなよ……」
かすれた声でそう言って遅れだした。
若い男は、朝から居ない。
「あれ、アイツは?」
以前はボンゴレ本邸の警備の総監督だったが体調を崩して以来、その役目を銀色のオンナに譲った美女が出勤前、その部屋に『遊びに』来て、意外そうに尋ねた。夕べ、山本武がこの部屋で眠ったことも承知している態度で。
「買い物だとよ」
「なに買いに?」
と、尋ねられて。
「知んねぇ」
銀色のオンナはとぼける。オマエのオトコはオレの為に魚を買いに行ったと、まさか言うわけにはいかない。
「あー、今日金曜日かぁー。ってこたぁ、昼か夜、あいつナンか作る気かぁ。オレ久々、白身魚の白ワイン蒸しが喰いてぇ」
獄寺はあっけからんと、銀色にそう言った。アンタの口からリクエストしてくれと強請っている。甘ったれて、いる。
「フィレンツェ風のがいい。ほうれん草使ったヤツ。ヒラメがいい。なぁ、電話して、ヒラメあったら買って来いってよぉ」
「自分で言やぁいいだろ」
「意地悪、すんなよ」
と、笑う獄寺には愛嬌がある。人見知りで頑ななところはあるけれど、馴染めばハキハキと快活で明るい。銀色のオンナには奇妙に懐いて親しく笑いかける。そんな態度をとられると、毛並みのいい猫に擦り寄られるようなもので、どうしても手を伸ばして撫でざるを得ない。そんな蠱惑的な艶やかさがある。
山本武と並べば美男美女、お似合いのカップル。
銀色は今日、シフトは休みだけれど書類仕事をするつもり。アネキからと言って獄寺が差し出すクッキーの缶に礼を言って受け取り、書類箱を机の上へ置く。引き出しから取り出したのがボールペンではなく古風な万年筆なのが獄寺の微笑みを誘う。
「ヴァリアーの制服姿も良かったけどよ、アンタそーゆー格好もすげぇ似合う」
シンプルなシャツとスラックスの私服姿に目を細める。そう言う本人は黒のスーツにネクタイを締めていて、禁欲的な色合いと本人の艶かさがいい対象だった。
「寝言いってんなぁ。ヤマモトに用なら取り次ぐぜ?」
「アイツに用ってーか、昨日のこと、どーなったのかオレにも聞かせて貰おうと思ってよ。なに、もしかして山本のヤロウ、跳ね馬と決闘しに行ったとか、そーゆーの?」
「ンなワケ、あっかぁーっ!」
とんでもねぇと銀色の鮫が吠える。
「アンタの為ならサシの勝負ぐらいするだろアイツ。シロート臭くてなかなか火ぃつかねーけどよぉ、実は全然、おとなしかねぇからなぁ」
アッシュグレイの前髪を揺らしながら美女は笑う。銀色の鮫は室内を見回して、山本が昨夜、飲み干したコーヒーの缶を見つけた。もっとも、見つけた時には思い出していた。愛煙家だった美女は妊娠と流産を経て煙草をきっぱりと止めた。
「あんたは昨日、跳ね馬と会ったんだろ。どーだった?」
「オマエのことすげぇ心配してた」
尋ねられて、そういえば頼まれていたことを思い出す。
ボンゴレでパーティーが行われていたあの日、山本武ともみ合いになったドン・キャバッローネは、山本を羽交い絞めにして先に手を出さないように拘束していた獄寺に間違って、手を当ててしまった。
「ディーノのヤローもなぁ、イケイケになったフリして実は、シロート臭ぇからなぁー」
「アンタ見て頭に血が上ったんだろ。純情じゃねぇかよ」
「ばぁか。オトコが純情なわきゃねーだろぉ」
昨日の会話を思い出しながら銀色は言った。跳ね馬の心理がいまだによく分からない。自分とこのアッシュクレイとが仲良さそうでブチ切れる、思考回路がどう繋がっているのか。
「今度、なんでも買ってくれるってよ」
「マジか、やった」
ケタケタ愉快そうに獄寺は笑った。無愛想な嵐の守護者だが警戒心が高いだけで、馴れれば明るくて可愛いところがある。
「天下のドン・キャバッローネ様にたかれんの楽しみだぜ。跳ね馬の怪我はどーだった?」
「かすり傷だぁ」
と、その怪我を負わせた犯人は答える。確かに手加減なく殴り倒したが生身の右手だった。何日も寝込むような大怪我をさせた覚えはない。なかったけれど、殴った顔でなく別の場所に、深手を負わせてしまったかと思って、つい。
見舞いに行ってしまった。今の自分の持ち主である若い男に、怒られるのは分かっていたけれど。
「庇ってくれたアンタ、すげぇ格好良かったぜ」
にやにや、笑いながらそう言う獄寺の唇に銀色は右手を伸ばして、形のいいそれを軽く抓る。
「んだよぉ、いでぇよぉー」
「ガキが、ナマ言うんじゃねぇ」
あれは事故。もしくは不運。それは分かっている。
パーティー会場で、自分と鉢合わせしないように、獄寺を外に連れ出そうとした跳ね馬は失敗した。ナンパかよ、バカじゃねぇのと軽くあしらわれて。やがて、銀色の腰に腕を回しながら広間に現れた山本はそのままで獄寺に手を上げて挨拶し、沢田綱吉に帰着を告げ、銀色の腰を抱いたまま獄寺の横に来た。それはつまり、跳ね馬の前。
山本は跳ね馬に構わず屈んで獄寺の口元にキスをした。なにコソコソひっついて喋ってんだよ、という態度は、ある程度仕方がない。
銀色は跳ね馬に軽く会釈した。いつもは顎をしゃくるだけだが、一応は招待側の人間だったから頭を下げた。その他人行儀な態度に傷ついたところに、とどめの一撃は、獄寺と銀色が軽く挨拶のキスを交わした、こと。
それがどうしてとどめになるのか、銀色のオンナには本当に分からない。パーティーの料理をばくばく喰って居る様子が可愛くて、元気になって良かったなぁという気持ちで挨拶のキスをしただけ。
跳ね馬は、銀色のオンナと獄寺と仲がよさそうなのに目が眩むほどショックを受けたらしい。なんでだぁと思う銀色のオンナには、確かに、初心というか、鈍いところがある。二人の女を、正妻と愛人を抱えて『仲良く』させることは男にとって至難の業。それをしている山本武の力量に、殺意を感じるほど深刻な嫉妬をした跳ね馬の心の中を、銀色は理解できていない。
そもそも、銀色のオンナにとって獄寺は、恋敵ではない。
「タケルの写真、転送しといたからメールフォルダ開けてくれ」
「おぅ。……あのよぉ」
どちらかといえば戦友。
「ん?」
ぱっちりしたアーモンド形の目を見開いて、小首を傾げる獄寺はまだ二十歳を過ぎたばかり。こんなに若くて悲しいめにあって、可哀想にと、心から思っている。庇護欲を感じている。
「オマエさぁ、なぁ」
心は通じて、血を洗い流す雨の気質が優しくて、獄寺が珍しく銀色の鮫には『懐いて』いる。
「なんだよ?」
「……代わりに産んで、やろっかぁ?」
「あ?」
「怖いんだったら、代わりに産んでやるぜ」
ぼんやり考えていたことを銀色は口にする。体力は回復したのに出るべき月が姿も見せないのは、そういうことではないのかと銀色は思っている。
「まぁ、お前ら若いから、余計な世話かもしんねーけどよぉ」
どっちも可哀想なくらい傷ついて、今は自分を通してしか接触を持とうとしない若いカップルのことが気になる。
「いつどーなるか分かんねーからなぁ、オレらは」
職業が特殊で、日常が戦場。それは自分で選んだことだから仕方がないのだが。
「逃げ回って後悔はすんなよ?」
言ったおせっかいには自省が混じっていた。