敬虔なカトリックにとって金曜は精進日である。イエス・キリストは金曜日に十字架にかけられて日曜日に復活した。だから信者は金曜日には肉食を避ける。

 ただし禁忌される『肉』には鳥と魚介類は含まれていない。現在、習慣はやや廃れているけれど、学校の給食や病院の食事、街中のトラットリアの日替わりメニューには魚が多くなる。自然、金曜日の朝市には新鮮な魚や貝が山のように積み上げられ、冬の透明な朝日を受けて鱗を輝かせている。

「おー、おー、おぉーっ!」

 市場に出かけていた山本とは連絡が取れなかった。が、心が通じていたのか旬だったからか、80センチ近い見事なヒラメが、また鰓をパタパタさせながら、山本武によってボンゴレの本邸へ運び込まれた。

「すげぇ。でけぇ。すげぇー」

 運ばれた場所は幹部用の食卓に続くキッチン。食卓ではボンゴレ十代目をはじめ幹部の面々が朝食をとっていた。珍しく雲の守護者・雲雀恭弥の姿まで見える。ヒラメが食べたいと呟いていた獄寺は席を立って、流しにどかんと置かれた魚の大きさに驚嘆した。

「すげぇ身の厚み。ドーバー海峡にもこんなの、滅多に居ないぜぇ。すげぇ」

「キオッジャのだってさ」

 水揚げされた漁港の名を山本は答えた。ヴェネチアからほど近い、アドリア海では最大の港である。

「何枚か入ってたけど、並ぶ前から一番でかいの狙ってたら、同じこと考えてた他の客と取り合いになってさ」

「てめぇ、まさか負けやしなかっただろーな?」

「一番でかいのだぜ。じゃんけんで勝って買って来たのなー」

「よし」

 よくやった、という風に獄寺が山本の背中をバンバンと叩く。そんな風にされて山本はニコニコ笑っている。叩く力は以前どおりではないが、気性の強さと明るさはほぼ取り戻した。

「ヅケにして」

 白いご飯を山盛りにお代わりした雲雀恭弥が、茶碗をぐいっと突き出しながら要求。

 ボンゴレ本邸のシェフはイタリア人である。イタリア人はフランスと同じく朝食をまともに作らない。カフェを片手にクッキーを齧ってお仕舞いという簡易さ。それに到底、我慢できない十代目の周囲は朝食を当番制で自炊している。

今日は沢田綱吉の担当日。雲雀が居るので張り切った内容は、ご飯と目玉焼きと冷凍ホウレン草のお浸しと冷凍のインゲン豆の胡麻和えと、鮭の大きな切り身を焼いたもの、という、がんばりました感に溢れるメニューだった。

「するけど、アサメシにはムリだぜ。でかいから捌いた後でちょっとねかして、脂がまわんの待たないと」

 山本武がそう答えると、仕方ないねと雲雀恭弥は退いた。食事、特に魚に関しては寿司屋の息子である山本の意見に逆らわない。

「煮魚ー」

「ソテー」

「カルパッチョー」

「カボスと塩で刺身ー」

「フリットー」

 各人から好き放題のリクエストが殺到する。むくりと肉厚で白身の盛り上がったヒラメの重さは六キロを超えていて腕にずしりと来る。刺身にすればたっぷり十人分はとれそうなヒラメだが、健啖家の面々のリクエストに全て答えることは出来ない。

「君はナニがいいの?」

 と、沢田綱吉から奪った紅鮭の切り身でお代わりしたご飯を食べながら銀髪の『ゲスト』に尋ねたのは雲雀恭弥。キレイすぎる美貌のせいで冷たく見られがちだが、意外と女に優しいというか、礼儀正しいというか、フェミニストの傾向がある。出向中の剣客によく声を掛けている。

「塩〆」

 片手が義手とも思えない器用さで和食を上手に、けっこう美味しそうに食べていた美女は即答する。長い髪を邪魔にならないよう背後で纏めて、化粧はしていないが肌がしっとりと肌理が細かくて、ひどく美しい。

「渋いね。じゃあ、ヅケと塩〆とソテーだ」

「ラジャなのなー」

 流しでヒラメの延髄に出刃を差し込み昇天させ、尾びれの付け根に刃を入れて血抜きをしながら山本武が答える。『オンナ』たちの言うとおり、その希望に逆らう習慣は山本にも沢田綱吉にもなかった。どろりとした血を流した平目の鱗を、出刃の背でざっ、ざっと落としていく。

「ソテーと塩〆は夜なー。ヅケは昼に準備出来るけど」

「楽しみにしているよ」

 と、答えた雲雀恭弥の隣では沢田綱吉がニコニコ笑っている。風来坊の恋人が、ヒラメにつられて今夜も泊まってくれるらしいのが嬉しくてたまらないらしい。

 じゃあお昼にね、と、いうのを合言葉に沢田綱吉は執務室へ、は雲雀恭弥は朝寝のために再び寝室へ。獄寺はヒラメの料理を眺めるために残り、私室に帰ろうとしていた銀色のオンナは。

「市場でさ、ルッスーリアさんに会ったよ」

 背中に投げつられた言葉に足を止める。

「ヒラメの取り合いした。その後で、ちょっと話しも、した」

「あー、だから遅かったのか、てめぇ」

 さらりと獄寺は話を受けたが、背中を向けたままの銀色は肩を強張らせたまま。

「スクアーロのことすげぇ心配してたから、元気で居るって、言っといた」

「まー、病気はしてねぇよなぁー」

 と、獄寺が言った口調には羨ましさが混じっている。

「人それぞれじゃん、しょーがないのなー」

 病気休職が長引き、今でも全快とはいえない獄寺を、山本武はちゅっと、唇の端にキスをして慰める。親しみの篭った仕草を落ち着いて受け入れる獄寺は精神的に随分と落ち着いている。流産直後は触れられるどころか顔を見ることも、声を聞くことさえ拒否した。面会させると緊張とストレスで血圧が200近くなってしまうため、かなり露骨に何ヶ月も、隔離されていたのだ。

「かかった時間も、すげぇ短かったんだろ」

「んー。オレのカンジだとあっという間だったのな」

 丸一日以上を苦しみ、のたうちまわった挙句に生死の境をマジでさ迷った獄寺を間近で見て、衝撃のあまり自分も死にそうになった山本にしてみればあっけなさすぎてウソのように思えた。

「痛くなってきたはじまったみたいだ風呂入って来るって言われて、夜食欲しいってんでバニーニ作って、シーツ敷き変えた後で助産師さん呼ぼうとしたらまだ何時間もかかるのに今から呼びつけたら迷惑だろーとか言われて」

 銀色の鮫も初産だったが体験記や医学書を幾つか読んで、医師の検診の時に話も聞いて段取りと心準備はしていた。おろおろと落ち着かないでいる山本武が逆に宥められた。

「それから暫くテレビとか見てて、ナンか開いてきたから呼んでくれってんで、呼んだらホントにアッという間だった。三十分かかってないんじゃね?」

 ボンゴレ本邸の専属ナースの中には助産師の資格を持つものも複数居た。母子ともに健康そのもの、するりと生まれた安産だったから、それで結局、間に合ってしまった。

「いいよなぁー、マジ羨ましいぜ」

 と、獄寺は悔しそうに言う。が、そう口に出せた時点でかなり心の傷は癒えている。本当に痛かった時は自身で傷口を眺めることさえ出来なかった。

「人それぞれじゃん、しょーがねーってば。時にもよるってシャマルも言ってたし」

山本武は心を篭めて慰める。闇医者のシャマルは獄寺の師匠格でもあり、今回の件に関しては妊娠中毒症が出だした当初からそばについていてくれた。それでも、どんなに優秀な医者でも、どうにもしてやれない事態というのも、ある。

「アネゴ」

「オレのアネキがどーかしたかぁ?」

 獄寺が少し心配そうに尋ねる。ビアンキはもともと山本のことを気に入っていない。それが間接的に腹違いの妹を『殺しかけた』とあっては、どんな態度をとったかだいたいの見当はつく。見た目より繊細なこの若い男を傷つけたのではと、実はひそかに、獄寺は気にしている。

「ビアンキじゃなくって、ルッスーリアのアネゴ。ホントに心配してたってさ。スクアーロすっげぇ細いから難産になるんじゃないかって。事前も最中も事後もケロッとしてたって言ったら、すげぇ嬉しそうだった」

 出産後、10時間ほどは山本武に無理やり押さえ込まれてベッドで安静にしていたが、翌朝の検診で医者に起き上がっていいと言われ、自分で歩いてシャワーを浴びた。

そんな、まだ動いたら死ぬんじゃと、阻止しようとした山本は医者から逆に、健康ならば早めに歩行した方が子宮ももとに戻るし血栓症の予防にもなるのだと、医師と助産師の双方から宥められた。

「オマエも嬉しかっただろ」

「どっちかってーとビックリした」

「嬉しかったって正直に言っていいんだぜ」

「ウソついてんじゃないのな。スクアーロは初産だけどオレは経験者のつもりで、すっげー気合いれてたら全部肩透かしで、ショージキ今でも、ナンか騙されたみたいな気がしてるのな」

「ぷっ」

 獄寺が噴出す。そのイキオイのまま、ケラケラと腹を抱えて笑う。不本意と不思議の混じった山本武のフクザツな表情にひどくウケて、そして。

「トラウマ消してもらって良かったじゃねーか」

 さすがに頭のいいところを見せる。今度の不幸な出来事に、痛めつけられて傷ついて萎縮していたのは自分だけではないことを分かっている。

 山本は返事をせずに笑う。そして。

「ザンザスも心配してるってさ」

 するりと、そんなことを言う。

「あなたにそう伝えてって、お願いするのはいけないことかしらって、アネゴに言われたのな」

「おい」

 獄寺が顔色を変えた。てめぇナニ言い出しやがると、とがめる表情で。

「やっぱ心配してんだよ」

「おい、バカモト」

「来週さ、一緒に市場に行かね?アネゴが会いたいって」

「おいっ!」

「考えといてくれよ」

 と、そんなところで、山本武は銀色のオンナを解放してやろうとした。

「……おぅ」

 背中を向けたまま銀色のオンナは答えて、歩き出す。足取りに動揺はなかったが、心の中は、分からない。

「てめぇ、ナンだってンなこと言い出すんだ?」

 対照的に、獄寺は動揺しきっている。顔色が青白く唇が震えているのを、山本武は、ひどく不憫だと思う。

やや神経質だが豪胆な気性の獄寺が何をそんなに怖がっているのか、見当がつくから。独りになることが嫌なのだ。一対一で自分と向き合って、また傷つけられて死ぬ目にあわされることを警戒しているのだ。

二十歳を超えても獄寺はセックスに殆ど興味がなくて発情もしていなかった。もともと乗り気でなかったのに、いい加減お預けカンベンしてくれよと山本に詰め寄られて、強姦ではないが強引に、殆ど義理義務で抱かれた。

肉体的には機能不全はなく行為自体は支障なく済んだが、大して気持ちがいいとも思わなかった。なのに、その結果、命を失いかけた恐さは忘れられないのだろう。

かわいそうにと若い男は思う。幼馴染の恋人に愛されていない訳ではないのだけれど、性的にまだ少女である獄寺は、大人のオスになった自分を避けたがっている。

「ルッスーリアのアネゴさぁ、スクアーロのこと、マジすげぇ、心配してたのな」

「そりゃもう聞いた」

「ナイフのティアラもオマエに色々、パーティーで聞いてきたんだろ?」

 山本武は仕事で会場入りが遅れた。だから現場は知らないのだけれど、ヴァリアーを代表して参加したティアラの王子様は、病気休業あけの獄寺を素直でない言葉で祝福した。そうして銀色のオンナが警備を兼ねて会場に顔を出しているのを、凄く嬉しそうに眺めていたと後で聞いた。

「まぁ、そうだったけどよ」

 銀色のオンナが元気そうなのを、狂王子がにこにこ眺めていたことを証言したのは獄寺自身。二人に愛情があるのは認めざるを得ない。

「マフィアのファミリーってのが家族なら、あそこスクアーロの実家じゃん。アネゴがねーちゃんでティアラがオトート、みたいなもんじゃねーの?そーゆー相手に、あんま心配かけんのも、悪いと思わね?」

 男の立場で女の実家を気遣う、山本武の理屈は分からないでもない。が。

「けどよ、ギンザメはアッチが物騒でコッチに避難してんじゃねぇか。それを、なんで」

「ナンにも、されてねーじゃん」

 スペルピ・スクアーロの電撃的な『家出』から既に半年近いが過ぎた。けれども、一度も、誰も危害を加えようとはせず、そっとしてくれていたじゃないか、と、山本は言いたい。

「子供はもう、オレが認知したオマエの子なんだから、誰も手ぇ出せないし、出す必要もないのな?」

 ボンゴレの後継者候補だったザンザスとは全く関係のない存在として環境を整えられたのだから。

「スクアーロのこと帰すつもりはないけどさ。元気にしてますぐらい、言ったっていーじゃん」

 市場で会ったオカマの格闘家は、元気でいると聞いて本当に嬉しそうだった。あの喜びの背後に暗い目的があるとは思えない。

「すげぇ心配、してんだぜ?」

 多分、オカマと王子様以外も。