これがまだほんの子供だった頃から知っている。十四の頃にやりあって、負けてしまった、『刀のガキ』は。
「塩〆、スクアーロが気に入ってくれてたって、ちょっと嬉しいのなー」
二十歳を越えて実に大物に育った。ボンゴレ十代目の守護者というのは、同盟ファミリーのボスであるディーノを量がする『かも』しれない立場。財布に入っている現金はともかく、職権では幅が利くかもしれない。政府改革の大臣と首都の首領、みたいなもので、簡単には比べられねぇが。
「美味いじゃねぇか、アレ」
困り果てて逃げ込む先を探してた時期、コレは実力的には有力候補だった。ただガキ過ぎて不安はあった。オレに気があんのは分かってたが幼馴染の上玉も侍らしてて、危ない橋まで渡るかな、という、見込みの薄さがあった。
「えへへー。オレさぁ、アンタとか獄寺とかがゴハンいっぱい食べてくれるのって、すっげぇ嬉しいのなー」
昼食はヒラメの裏の、白い側の身を五枚下ろしにして煮きり醤油に漬け込んだ「ヅケ」だった。ネギや大根おろしの薬味をたっぷり用意して、ランチはライス、オイルをかけないでくれとシェフに懇願して炊いてもらったごはんにたっぷりと載せて、各人はヅケ丼を飽食した。
「今度、日本に行ったら鯛で作ってやりてーな。イサキもいいかな。夏ならスズキとか」
「マグロは、どーだぁー?」
「昆布が隠し味だから、赤身はあわないと思う」
夕食はヒラメの表身を、ソテーと塩〆にしたもの。ソテーは塩コショウを振り、ドリップが流れ出して少し身が締まったところで小麦粉をまぶし、バターで焼いたもの。単純な調理だが素材がいい時は簡単に料理する方がいい時もある。
実際、コラーゲンたっぷりの、ぷりんとした白身に塩コショウがなじみ、極上のバターが香るアツアツのところへ、日本から送られてきたかぼすの果汁をぎゅっと絞りかけ口へ入れれば、頬がつい、緩んでしまいそうな美味しさだった。
獄寺も雲雀も、沢田綱吉も、もちろん銀色のオンナも作った山本武も、唇をバター塗れにしてムシャムシャ、ガボチャやにんじんのグラッセを添えられて黄金色に輝くヒラメの、二口大の切り身を、魚介類とよく会うロシア風黒パン片手に飽食した。
銀色のオンナのリクエストだった塩〆は前菜として食卓に出された。上身の半分を五人で分けたのだが、一人分はたっぷり200グラム超。メインに匹敵するボリュームと味わいだった。
昆布出汁に極上の岩塩を溶かし、冷やした中に、おろした白身魚の、『さく』を十五分から三十分間浸す。それだけの『調理』だが、醤油やポン酢では消えてしまうヒラメの上身の繊細を極める甘さが、この調理法だと本当によく分かる。
そのままでも美味しいが、かんきつ類の果汁を絞っても美味い。のんべの雲雀は国稀酒造の鬼殺しを五合ほどあけた。そうして食事のシメには半分とっておいた塩〆をあたたかなごはんの上に並べてゴマを振って焼き海苔を散らし、昆布出汁を注いで茶漬けにした。刺身状のヒラメの身の端がうっすら白くなったあたりで、箸でかきまわしバクバクと、実に豪快に食べた。
その食べ方を全員が真似た。イタリア人である銀色のオンナまで。あまりにも美味しそうだったから。
塩〆に添えられていた野菜の煮物も、塩味だけだが、実に美味しかった。玉葱とニンニクを炒め、カルチョーフィ(アーティチョーク)の茎とジャガイモを加えて白ワインで蒸し煮にし、冷やしただけだが、単純な塩味と野菜の甘みのバランスが素晴らしかった。
「テメェはなぁ」
「ん?ナニ?」
「家庭的なヤローだなぁー」
職業的な料理人でもないのに仲間の食事をテキパキつくるのは、ヴァリアーのルッスーリアもそうだ。が、あっちの料理好きはオカマという性向がそういう家事をしたがるのだとも思える。
「イタリアじゃ珍しくもないんじゃね?」
日曜の市場では家庭を持っているらしき紳士が気合を入れて買出しに来ているぜと山本は笑う。イタリアは言うまでもなく、フランスに準じベルギーと並ぶ美食を好む国。老若男女の区別なく、食べることに熱心で自然、料理を得意な人間の比率も高くなる。
「マフィアじゃ珍しいぜ」
「オレがマフィアらしくねーのなんかイマサラじゃん」
天真爛漫に若い男は笑うけれど、実はそうでもないのではないかと、オンナは秘かに最近考えている。美味い魚を飽食し、いい気持ちで引き上げた私室にするりと、一緒について来られて・
そのままべッ度にエスコートされた。美味いものを食べた上機嫌なところをぺろり、今度は自分が『いただきます』されて、シーツの上で、余韻に浸りながら。
「テメェみてーなのを親父に持って、生まれてくるガキはシアワセだろーなぁ」
と、言った銀色の頭の中には、まだ元気のない獄寺が母親としてあったのだが。
「産んでよ」
あっさり返されてしまう。
「ナンか、飲む?」
今夜のセックスは短く、可愛がられ方もあっさりだった。でも腰の奥が痺れるほど心地よくて、オンナはまだ余韻に痺れ、動けない。時刻はまだ宵の口。そんなオンナに寄り添って撫でていた若い男が、裸のままベッドを抜け出しながら、尋ねる。
「水、とってくれぇ」
「ラジャなのなー」
部屋の空調は裸で居ても寒くないよう高めにしてある。大きな枕に上半身を預けてぐったりと、している銀色の背中に若い男は毛布を掛けてやる。はぁ、っと銀色のオンナはため息。若い男がとってくれたペットボトルの水を、うつ伏せのままでごくごくと飲み干して、ようやく起き上がる。
「バスにお湯、溜めたけど」
「おー」
「入浴剤、柚子でいいのな?」
「おー」
そんな会話を交わしながら、浴室に歩いていく途中でカラダの中から、流れ出さないように力を入れていたら。
「……えへへー」
入浴剤片手にバスローブを羽織って、浴室のドアを開けてくれた若い男がニヤケる。
「なんだぁー?」
「んー。アンタ意外と、その気でいてくれてんのかなー、って」
「……」
違う。床を汚したくなかっただけ。そんなことは考えていかった。妊娠の為に、受精の確率を上げようとしていたのではない。ないが、でも、ニコニコしている若い男があんまり可愛くて、そういうことにしておいてもいいと、銀色のオンナは思う。
「オレもシャワー、浴びてっていい?」
バスタブで手足を伸ばす銀色のオンナに、かがみこみ目線の位置を下にしながら、若い男はそんな風に尋ねる。
「素直に詰めろっていいやがれ」
答えながら銀色は細長い脚を折り、細身のカラダを縁に寄せてやる。チタン製の義手が陶器のバスタブの床に当たって硬い音をたてる。えへへと、また若い男はニヤケて、せっかく詰めてやった側ではなく、オンナを追いかけて腕を伸ばす。
「すげぇ、すべすべ。キモチイイのなぁー」
胸に掌を押し当てられ、肩に額を押し付けられて。
「しつけぇヤツだなぁ、テメェは」
銀色のオンナは呆れた。でも不思議と嫌な気持ちにはならない。触れたがる若い男は爽やかに助平でいつも欲望を隠さない。触るダッコするそばに行く、と、真っ直ぐ懐かれるのは毛並みのいい犬にすり寄られるようで、カワイイ。
「んー。オレさぁ、母親ってのが居なかったから」
出生とほぼ同時に死別して、顔も知らないのだと、そんな家庭の事情は、こんな関係になって初めて知った。なに不自由なく成長した健やかさを持っているし、実際、愛情には飢えずに『ちゃんとした』家で大きくなったのだろうが、それでも。
「オンナの人のこと触ってンの好きだぜ。シアワセーな、気持ちになるのなー」
「そーかよ」
好きなようにさせつつ、銀色は柚子の入浴剤を溶かされたレモン色の湯を楽しむ。宝物のように素肌を抱きしめられながら、考えるのはどうしても、愛していた男は一度もそんなことをしてくれなかったなぁ、という、悲しい感慨。
アイツは母親を嫌悪していた。ボンゴレ御曹司だった時代には母親が娼婦だったことで親族たちから散々の嘲りを受け憎悪し、血が繋がっていないことを知った後は妄想に巻き込まれたことを呪っていた。
だから多分、オンナというものを本当は大嫌いだったのだろう。本能の欲望のままセックスはするけれど、メスを愛おしむような気にはならなかったの、だろう。呼ばれる娼婦たちも、自分のことも、いつも、使って終わりで、一緒に眠らせてくれなかった。
「風呂から上がったら、アッシュグレイんとこ、行けよ」
銀色のオンナは厳しい口調で言った。男を正妻に譲ろうとする愛人にしては権威のあり過ぎる声で。義務を果たせと弟子を叱咤する師匠の口調だった。
「……嫌がられんの、ツライ、のな……」
若い男は正直に告白する。いつまでも、お互い逃げてはいられないし、歩み寄る努力は男の自分がいるべきと分かっている。頭では分かっているが、でも、やっぱり、恐い。
「しねーでいーから、一緒に寝とけ。あんまり間ぁ置くと他人同士になっちまうぞぉー」
「うん……」
それは嫌だった。だって少年の頃からずっと好きで、やっと恋人になれた相手だから。
「……分かった」
言うことをきく、と、頷いたのは『世話』をしている男としてではない。
「よし」
えらいぞ、と、銀色のオンナは右手で若い男の頭をなでてやる。もっと、と、カラダを押し付けられ、全身で抱きしめてやった。
愛情はある。オンナとしてより師匠としての要素が強いけれど確かに。そうして心から感謝もしているのだ。願っていたより遥かに手厚い庇護を与えてくれたことに。
「なぁオイ」
奥歯を噛み締め、恐さをねじ伏せて決意をした若い男を、抱きながら。
「しあわせに、なぁ……」
なって欲しいと心から思っている。
愛した男のことは、少しもそうしてやれなかったから。