海峡の東・1

 

 城砦を取り囲む軍旗が風にたなびいて翻る。

 同じ風に震えている筈なのに、城内の旗はなんだか力なく見える。勢いというものだろうな、と彼は思う。大トルコ帝国十二代宗主の双頭の獅子旗は、かつてアラビア半島の殆どと地中海、遠いアジアの国々を恐怖に陥れた。が、今は息子の軍に囲まれて、小さな城の片隅で、二度と還らぬ往年の栄光を惜しんでいる。

旗だけではない。

目の前で口惜しさに歯を噛み締めるこの男は三十年の長きにわたって帝国に権勢の座にあった。そして今、そこから引きずり落とされようとしている。失った若さと力は二度と戻っては来ない。嫡長の皇子の反乱も重臣の寝返りも、もとはといえば自身が招いたこと。

「降服されるべきですね」

彼は男に冷静に告げた。実際他に、選べる未来はない。玉砕覚悟で決戦を挑もうとしても、この男とともに死地に赴く将兵は残っていない。有能で気概のある人材は皇子の側についた。戦場で失敗を繰り返し老醜を晒すかつての英雄を見限って。

「宗主の地位を譲りさえすれば、実の父親を殺しはしないでしょう。幽閉に耐えて、時期を待たれることです」

「それではお前が殺されてしまう」

 男は叫んだ。悲痛な声だった。

「宗主の地位は過酷だ。それを得た者の兄弟は全員、殺される。わしも異腹同腹あわせて十六人の兄弟を殺した。そうしなければ、わしが殺されたからだ」

「そうですね」

「わしはお前を死なせたくないのだ」

「お気持ちだけは、痛いほど」

「・・・・」

 違う名前で呼ばれて彼は目を閉じる。

 女の名前だった。生き写しだと知るものは口を揃えて証言する、母親。美しい東洋出身の踊り子。後宮に溢れる女を道具、もしくは奴隷としてしか扱わなかったこの男が、ただ一人だけ、まともに愛した相手。

その寵愛ゆえに母親は男の正妻に憎まれ、男が戦場へ出ているうちに殺された。井戸に生きたまま埋められて。以来、この男と正妻との仲は修復不可能なほど険悪となり、最終的に、男は嫌った正妻の産んだ自分の息子に追い詰められている。

母親の名前を耳元で甘く囁かれ、乾いて固い武人の指が着衣の胸元に差し入れられる。老いたとはいえ一代の英雄として一世を風靡した男の身体は重く大きく、圧し掛かられて、彼は胸を圧迫され喘いだ。

衣服を剥かれる。裸の身体は母親と随分違うはずなのに、男の呼吸は昂ぶる。脚を割られる。逆らわず開く。慣れた行為だった。十二の時からもう十年以上、こうやって生きてきた。

愛した女にそっくりの息子を、男は膝の上から放さずに育てた。十二になったらこうすると、物心ついたときから言い聞かされていた。言葉は実行され、以来、男の思い通りに身体を開かされる。

「美しい」

 胸を開き脚をひらかせ、感に堪えたように男は叫ぶ。彼にはなんの感慨も生まれては来ない。男かほめているのも抱いているのも自分ではないから。若い頃に愛し愛された、同じ顔の女の身代わりなのだ、自分は。

「お前はただ殺されるだけでは済まないだろう。捕らえられれば兵士たちにひどい目に会う。若い頃、何度もそんな女を見た。大勢に息絶えるまで挑まれ、呼吸をとめた後も裂かれ続ける女を」

 男から見えない位置で彼は冷笑した。酷い真似を、した側の一員だったくせに、何をいまさら、口を拭っているのか。男の呼吸が荒い。悲痛な声と裏腹に回想に興奮している。或いは腕の中の彼の肢体、男が撫で綻ばせ開き、偏執的な情熱をこめて咲かせた奇形の、けれど素晴らしく美しい華。それが粗野な兵士の手で無慈悲に輪姦されることを想像して?

「お前をそんな目にあわせるくらいなら、いっそ」

 頑丈な手が喉にかかる。彼は抵抗はしなかった。逆効果だと知っていた。代わりに、

「……最後、に」

 もう一度抱いて欲しいと強請る。男が好きな優しい声で。二十歳をこえて声変わりしても尚、母親の鳴き声を彷彿とさせるらしい甘い声音で。

 男は喉に掛けた手を外した。代わりに膝を抱え上げ挑んでくる。応じながら、彼は意識の裏側で軋む音を聞いた。固く閉ざされた城の裏門が開く音。内部からの裏切りによって、男の身柄と交換の、無血開城。

 もうすぐだ。

 もうすぐ、会える。

 会えてどうなる訳でもなかった。男の言うとおりの未来が待っているだけかもしれない。それでも会いたかった。それまで、死にたくはなかった。

 だから、白い顎を上げる。腕を開く。胸をそらしたとき、扉の向こう側からかすな、けれど大勢の足音。

 彼の身体に夢中の男は気づいていない。足音に混じった厳しい声を聞いて、彼の唇がほころぶ。こぼれるような笑顔を男は、どう勘違いしたのか。

「言ってくれ」

 感極まった声で要求する。

「あの言葉を。お前がわしに、いつも言ってくれた」

 知らない言葉だった。顔も覚えていない母親がこの男に、抱かれながら、いつも呟いていたという言葉。

 おそらくは母親の国の言葉だろうそれを、意味も分からないままで告げる。それを言うたびに自分が異国の鳥になって、籠に囚われ囀りを強要される気持ちになってくるけど。

「・・・・・・・」

彼にとっては意味のない謎の音が、男の記憶の中では最高の愛の告白らしい。ぐっと腰を掴まれ深く抉られて、身のうちを飛沫がぬらしていく。反応として震えながら、彼は足音が、扉のすぐ向こう側まできたことを感じていた。

扉が開かれる。

男の体が驚愕に竦む。彼の体の中に、含ませた部分まで。

「落城の最中にお愉しみかよ。いい趣味じゃねーか」

 立っていたのは屈強な将兵を従えた皇子。反乱の首謀者。皇子の言葉に、彼はそっと顔をそむけ目を伏せる。言われたのは、自分にと分かっていた。

将兵が男を彼から引き剥がす。そのまま捕虜を乱暴に床に押し付ける。が、彼の身体に触れたものは居ない。圧し掛かる重さから開放され、彼は起き上がり身繕いをしようとした。できなかった。

「……ッ」

辛うじて声は耐えた。

足早に近づいてた皇子に引きかけた裸の足首を捕らえられ、痛めつけられた身体には不必要なほどの力で高く持ち上げられる。彼の視線に白い脚の、奥を灼かれた気がして体が竦む。皇子はそのまま足首をグッと折り曲げ、膝を開かせる。

「ちょうどいいや。ここで継承式といこうぜ」

 皇子の言葉に彼は顔色を変えた。

「止めろッ」

 絶対君主から無力な捕虜となった男が叫ぶ。

「止めろ、啓介。彼は貴様の」

「アニキだろ、知ってるさ」

 とおの昔に。

 目線を彼に据えたまま、皇子は豪奢な縫いの施された上着を脱ぐ。床に座った足元に膝をつかれ、とっさに彼は後ろへすざろうとした。けれど足首を掴まれたままで、出来るはずがなかった。

「みんなが親父を殺すなって言うんだ。捕虜にして譲位させて幽閉してた方がいいって。でも俺はぶち殺すつもりだった。継承式が嫌だったからだよ」

 片膝をたて、立てた膝に手を置いて皇子は彼に語る。

「親父が抱いたばっかの女を抱いて、それがくにゆずりなんて趣味悪ィ。こんなだいッ嫌いな男のあと、気持ち悪くって触れやしねぇ」

 悪意のある言葉に彼は目を伏せる。長い睫の翳が哀しげで、男はその哀しみに満足したのか、

「まぁ、でも、あんたならいいかな」

独り言のように呟く。でもその言葉はその場に居た全員の耳に届いた。

「よせ、啓介。腹違いとはいえ彼はお前の兄だ」

「親父に俺を止める権利はねぇさ。あんたには実の息子じゃねーか。外道な親子のくにゆずりには似合いの供物じゃねかよ」

嘯き、皇子は顔を上げ部屋を見回す。その場で一番、位が高いのは。

「須藤」

年上の幼馴染で、母方の従兄弟でもある男を呼ぶ。

「こっち来て立ち会え。見ろよ」

宗主が抱いた痕跡を。白い腿に流れた白濁の液体を。

黙って成り行きを見守っていた須藤は肩を竦めて近づく。頑丈な軍靴を履いた無骨な足が、不意に鋭い動きで床に敷かれた麗人の、顎先を蹴った。

「オイッ」

「手じゃ間に合わなかったんだよ」

咎める皇子にそう答え、皇子が脱いだ上着の袖を、彼の蹴られてがくがくになった顎を掴んで口を開かせて含ませる。舌を噛めないように。力なくふられた頭はしかし、彼の眩暈をひどくしただけだった。

「腕も抑えとくか」

「一応。軽くな」

「へいへい。……見えねぇぞ」

 皇子は彼の内股を指先で掬った。それを顔の高さで須藤に示す。

「確かに」

 ごく生真面目に須藤は答えた。しなやかな手首をまとめて、痛めないようにかるく拘束しながら。頑丈な男に二人がかりでおさえられ、声も出せずに彼は瞳を、潤ませることしか出来ない。

 須藤が答えるか答えないかのタイミングで皇子は彼の脚を抱えた。態度や言葉ほど余裕がないことに、幼馴染の須藤は気づいていた。剛直な武人の度胸のよさを見せて須藤は、儀式としてのくにゆずりを見守る。けれど。

「……泣いてるぜ」

白い美貌が息さえ殺しながら、あまりにも哀しげに涙を流すので、黙っていられなくて、一言。

「知るかよ」

 吐き棄てるような返事は速攻でかえってきた。皇子の方も気になって仕方がないことを、証言したようなものだった。

 悲鳴が上がる。口を塞がれているせいで鼻にかかった苦しげな、耐え切れず漏らされた声が。

 背中が反らされる。胸がよじれて、赤い飾りが艶めく。あんまりな光景に口の中で須藤は舌を噛んだ。女に甘い顔を見せないことで知られた須藤でさえ、ふと手を伸ばして慰めてやりたくなるような媚態。

「やめろ」

 苦い、憎しみの篭った声は、既に『前』宗主となった男のもの。

「儀式ならもう充分だろう。苦しめるな。楽にしてやれ」

「寝言いってやがる」

 『新』宗主はくすくす、面白そうに笑った。人の悪い顔で。ぐっと腰をいれ彼の顔を涙で濡れた美貌を覗き込み、

「苦しい?あんたがもう嘘つかないなら外してやるよ」

 彼はゆっくりと頷く。『新』宗主は彼の肘を掴んで須藤の手から取り戻す。やれやれ、といった様子で須藤は彼を開放した。口に詰められていた袖も外す。

自由になった彼の腕は、『新』宗主の肩に、縋りつくように添えられる。

唇はうすく開かれ、舌先を覗かせながら顎をそらし、『新』宗主の眼前に差し出される。

「俺を好きか?」

キスをしてやらないままで問い掛けられ、ねだる姿のままで頷く。

「俺に会いたかった?俺を愛してる?」

頷く頬に指を這わせて、『新』宗主は腹違いの兄と、唇を重ねた。

『前』宗主のうめき声。呪いを込めた、凄絶な。

「淫売めが……」

大嫌いだった父親の悪態を聞きながら舌を絡めあい、肩を支えてその下に、脱いだ上着を差し入れてやる。抱き合う姿勢で繋がると、肩甲骨に重みがかかって痛いことを知ってた。

「俺も、愛してるぜ」

父親が仕込んだ『淫売』の耳元に、残酷な行為には不似合いなほど真摯な声で、囁く。

交わりは、既に儀式ではなかった。が、彼にとってはその方が、酷い仕打ちだった。

父親に歪まされた身体を弟に、その眼前で、貪られるのだから。

 

人払いされた部屋。

水音だけが、時々聞こえてくる。

小アジアの主に脚を拭われながら、それでも彼は不機嫌に黙り込む。

「怒ってんのかよ……」

 沈黙に耐えかねた啓介が耐えかねて口をひらくまで。

「当たり前だ」

「だって俺、ぜってー嫌だったんだよ。あの親父が抱いた女をすぐその後に」

「言うなッ」

「聞けよ」

 耳を塞ごうとする彼の手首を、骨が軋む強さで捉える。

「あんたじゃなきゃ勃ちゃしねぇよ。それにあいつの、前であんたを抱きたかったし」

「この世の誰よりもお前が悪趣味だ」

「あんたといい勝負だろ。俺よりあんなジジイに舐められんのが悦くって、親父についていったんだろ」

 ぶつけられる言葉の、あまりな情けなさに涙も出てこない。

「……否定、しろよ」

 今度の沈黙も、先に耐えられなくなったのは啓介。

「好きに思っていればいい」

 絶望に近い苦さで彼はそういい捨てる。

「お前の為に俺がどれだけ……。裏切りも内通も、あの人の戦略も密書も全部教えたのに……。何度もバレそうになって、でも」

 お前を勝たせてやりたかったから。

 兄の言葉をふん、と啓介は鼻先で笑った。

「礼は言わないぜ。決裂の前に迎えにいったら逃げられて、俺がどれだけ傷ついたか分かる?」

「あんな無謀な決起をする奴が居るかッ。年をとってもあの人は素人じゃないぞ。まんまと挑発に乗って、あのままじゃ犬死するのが関の山だったじゃないか」

「あんたが親父についてたのが俺の為ってことぐらい分かってたさ。でも頭じゃ納得できねぇことがあんだよ。親父のそばに居りゃあんた親父に抱かれるだろ。毎晩、夜が来るたびに、あんたがいまごろ親父にイかされてんのかって」

「啓介ッ」

「思ってた俺の身にもなってみろよ。あんた簡単に親父に脚ひらくからな。戦争中もこの綺麗な顔と身体、あいつにさんざん、好きにさせたんだろ」

「啓介……」

「一回ぐらい嫌だって言ってみた?俺のために拒んでくれたことあった?」

「けい、すけ」

「しかも親父だけじゃねぇだろ。戦争中にここに咥えたのは」

「けいッ」

 外して放り出していた刀の、鞘を。

 挿し入れられて顎が上がる。

 生身の最も柔らかな粘膜を、青銅の塊で貫かれ、怖くて呼吸も、ろくに出来ない。

「いろいろ教えてくれたよなぁ。親父の側の、親父とは別の動きまでさ。そのたびに、俺、あんたのこと殺してやりたくなったよ。知るはずないこと知っていたのは、別の将軍たちとも寝てたってことだろ」

「……」

「何人、何回、咥え込んだんだよ。淫売通り越してあれだな。従軍慰安婦って感じ。……きたねぇ」

「ッ、」

「ありがとうなんて絶対、言わないぜ。それで助かったことが何回もあったけど」

刀の鞘を乱暴にまわす。表面の獅子の彫刻が彼に涙を流させる。

「れ、よ」

「ナニ。もっと乱暴なのがいい?」

嘲笑を交えた言葉に、

「あ、ぁ」

真面目に答えられて啓介は顔色を変えた。

「掻き回せ。鞘を、外して。……殺せよ」

自棄になっている風でもない、ごく冷静で落ち着いた口調。性感帯を刺激され欲情に、瞳は濡れていたけれど。

「お前の気持ちより、俺はお前の命を優先した。それが許せないんなら殺せ。脚は俺から開いた。疑われていたから。殺されたくなかったんだ」

 殺されたくなかった。母親のように、誰にも知られず残酷な手にかかって一人で、息を引き取るのは嫌だった。

「吐くほど男、咥え込んでも守りたかった命だろ?んな簡単に放り出していいの」

「お前になら」

 死にたくなかった、理由はもう消えたから。

「会いたかったんだ。会えたから、もう、」

 いいんだと言って微笑む。途端、身体から鞘が抜かれた。

「っ、あ」

 代わりに貫かれるのは弟の分身。弟の、情熱そのものの激しさで。

「って、んだよ、んな事ぁ」

「けい、啓介、苦し……」

「俺の為だって事ぐらい。俺の、せいだったって事ぐらい、俺だって、分かって……」

 最後は掠れる。激情のまま、彼をたかめてることもせずに呆気なく果てて、

「もうしない、よな?」

 弛緩するしなやかな身体を抱いて、尋ねるというよりも哀願。

「もうしないよな。必要ないもんな。もう、俺だけでいいな。いいだろ?」

「最初、から」

「うん」

「愛しているのは、お前だけだ」

「うん」

 

 側近たちに泣きつかれ気乗りしないまま、須藤は樫の扉を乱暴に叩く。

「おい、啓介。じゃなかった、宗主」

 返事はない。

「いちゃつくんなら王宮に帰ってからにしやがれ。何時まで軍隊、ここにとめとくつもりだ。おいッ」

 答えはない。眠っているのか、それとも答えるどころではないのか、

「しゃーねーな。泊まりの用意しろ。一泊ぐれぇ、なんとでもなるだろ」

不平顔の側近たちに指示してその場を離れる。

「バチが当たるぞ」

宿営地の指図をするために歩きながら、呟く。

「中にいるのは勝利の女神様だ。俺たちが今、生きてんのは全部、やつのおかげだぜ」

 母方の従兄弟という血縁上、反乱に当初から参画し前線指揮をとっていた須藤は誰よりもそのことを知っている。極秘で届く美麗な筆跡の密書が、今回の勝者と敗者とを分けた。

「わが従兄弟ながら……」

なんという強運の持ち主。絶体絶命になっても啓介は絶望を知らなかった。背中にあんなオンナが張り付いていたのなら、それも当然。

ふっと心の中にわいた気持ちを押し殺す。

甘ったれで泣き虫の、手のかかる従兄弟だった。短気ですぐに無茶をする。夫と険悪な叔母が不憫な気持ちも手伝って、京一は、ずっと啓介を助けてきた。むろんそこには打算もあったけれど、危なっかしくて放っておけなかった、というのが正直なところ。

ただ、今、一瞬だけ。

胸に過ぎった、気持ちは嫉妬。宗主となってトルコ大帝国を統治してゆく従兄弟。昨日までは血縁による同盟者だったが今日からは君臨する王者。それは、最初から、承知のことだったが。

あんなオンナを手にいれられるのなら。

宗主というのは、悪くないものだとふと思った。

 

権勢の周囲に、生息する魔物が彼の、胸に寄生した、瞬間。