海峡の東・10
領主の娘を庇ってもろともに捕まり、その娘を先に返して、自分は見事に逃げ出してきた青年の生還祝賀会は領主の館で華々しく行われた。招待客の他にも祝いや花束を持って駆けつけるものが多く、館には溢れんばかりの人、人、人。なにせ逃亡の途中、乗り合わせた船の沈没の危機さえ救ったのだ。船団のうち、よろめきながらもベネチアにたどり着いたのは藤原拓海が乗った一隻だけだった。他は多分、並みの荒さに脅えて帆柱を切り落としてしまって、今ごろは海の藻屑。
将来有望な若い船乗りの顔を見ようと、外国からの来賓も多かった。その手間、多数の来客は自己の権勢の宣伝にもなる。ケチで知られた領主は珍しく酒と料理を大盤振る舞いし、殊勲の青年を囲んだお祭りは深更に及んだ。
しかし。
当の本人は、むっつり黙って、話し掛けられても頷いたりはいとかいいえとか、簡単な返事をするだけ。もっともそれはいつもの事だから、誰も気にしなかった。彼が自分から口を開いたのは広間の女客たちのささやきを、たまたま耳にした時だけ。
「……、令嬢は、海賊船に攫われたのでしょう?」
「アラブの男たちは情熱的といいますもの。ほ、ほ、ほ」
「その後は宗主の後宮に納められていたとか」
「まぁ……」
「それでよく、堂々と顔を出せますこと」
物陰で囁き交わす彼女たちの視線の先には、若草色のドレスを身に纏ったなつきと、その母親で領主の後妻である女の姿があった。なつきは当然、その母親でさえまで艶めいて美しい。天下のベネチア城主がフランスで見初めて連れて帰った一介の商人の妻だった女。美しい母娘に対する嫉妬からの悪意が、噂話の口調には滲んでいた。
「……失礼ですが」
話し掛けてきた相手を無視して藤原拓海は、彼女らに歩み寄り、きつい口調で口を挟む。
「海賊船でも、その後も、なつきとは俺がずっと一緒でした」
それは、嘘だった。
「トルコの将軍は紳士だったし、宗主の後宮っていっても、夜伽の女ばっかりが集められてるんじゃありませんよ。第一あの宗主、父親の妾だったのに夢中で、俺もなつきも見向きもされませんでした」
それは本当のこと。その『妾』に実は拓海は、寸前までは、されかけたが。
「なつきの貞操を問題にされるんなら、加害者は俺ってことになります。俺も、一応紳士の、つもりです」
だから聞き捨てならないと、そんな表情で見据える拓海に貴婦人たちは戸惑い、それを救うように、
「ほほほ、若い方の一途で可愛らしいこと」
かんだかい笑い声。なつきとその母親が、たぶん誰かが呼んだのだろう、拓海のすぐ後ろへ来ていた。
「うちの娘を護ってくださって、嬉しいわ、藤原拓海様。ほほ、拓海さまご自身のことには、触れずにおきましょう。許婚だったのですもの野暮はいいっこなし」
うちの娘もあなたを好きなのだしと笑う。拓海はそれでも不平な顔をしたが、領主夫人に逆らうわけにも行かず、黙って頭を下げて退いた。貴婦人たちも窮地を救われて、そうそう、お若い、とても可愛らしいカップルですわ、なんて夫人に媚びるような事を言う。
ようやくパーティーがお開きになった夜明け前、来客たちのご祝儀を開きながら夫人は、
「藤原拓海という青年、只者ではありませんわね」
夫に言うと、夫はうんと頷く。
「父親によく似ている。ああいう男が案外、しらっと歴史を変えたりするのだよ」
「あの父親は、確か、以前」
「そうだ。若い頃にチャイナへ旅して、蚕種と桑の実を持ち帰った」
千年以上、東方の特産物であった絹織物の魔法の種を。
「その地方の姫を拉致して、姫をだまして、持ち出させたとか聞いたが」
「そんな酷い真似をする方には見えませんでしたが」
「あの見かけが女をだますのだ。お前もだまされている」
「まぁ、ひどい仰り方。でもどうして、その魔法の種を、ここではなくコンスタンチノプールに置いて来られたのでしょう」
藤原文太がもたらした魔法は現在、ベネチアではなく他領の産業となっている。ベネチア領主の妻である彼女には、それが惜しくてならないらしい。このベネチアで絹を生産できていたなら、領主夫人である彼女は西方で一番の絹織物を身に纏うことができたのに。
「うむ、まぁ、それはな……」
ごにょごにょと、領主は言葉を濁した。
ぴん、と夫人は何かを察した顔で、
「あなた、まさか……」
「いやほら、若い頃はいろいろとあったのだ、わしらにも」
領主と藤原文太は同世代である。二人とも美しい女が好きで、しかし女は文太の方をずーっと好きで、おかけで確執があった時代も、ある。そうして一時、領主は藤原文太を国外追放していた。
「呆れたこと……、つまり、歴史を変えたのは結局、女だったということね」
ため息とともに夫人のこぼした、一言。
同じ頃、藤原商会では。
「拓海、水、水くれ」
「飲みすぎだぜ、親父」
乱暴に陶器のコップに水を汲み、それでも渡してやる。文太は一息に飲み干しふーっと息をつき、
「おめぇ、何で酔ってねぇ。相当飲んでいやがったくせに。酔えないくれぇの悩みでも、あんのか?」
酔っ払いとも思えぬ鋭いところを見せた。
「関係ねぇよ、オヤジには」
「にしちゃあ俺に、含むところのある態度だぜ」
ゆったりと指摘され、
「……逃げられた」
つい本当の事を言ってしまうあたり、拓海はまだ、若かった。
「女か」
「あんたトルコの後宮でとんでもねーこと、したろ」
笑っただけで父親は何も言わない。が、生まれた時から見ている拓海には分かる。細目でごまかしているがこの顔は、この父親のスケベ笑いだ。
「身に覚え、あるみてぇだな」
「おめぇも女、かどわかして来たんだろ。逃げられたって、どういう意味だ」
「給水に寄った町で。着替えが欲しいって市場で、店、通り抜けて、そのまんま」
「行く当てあんのか、その女に」
「知るか」
「頼りねぇな。……って事ぁ、あれだな。さてはお前、かどわかしたんじゃない。女が後宮から逃げるのに、お前の方が便乗したんだろ」
「……ちくしょう」
頭を抱え込み、拓海はがっくりと肩を落とす。ぽん、とその肩を、文太は叩いてやる。
「ま、たまにゃこっちが捨てられることもあるさ。気を落とさネェで、次をみつけな」
「冗談。今、捜してる。捜し出せたら、オヤジ」
「ンだよ」
「決闘してもらうかんな。その人の前で」
「なんで俺が、息子のオンナ……」
言いかけて文太は顔色を変える。まさかという表情で、
「おい……、それ、もしかして、オンナじゃねぇのか」
「あんたの事さえなかったら、俺のオンナって言えたんだけどな」
苦々しげに吐き捨てる。この父親と決闘するまではと思って触れなかったのがかえって仇になった。
「何処ではぐれた」
「言うかよ」
「知り合いとか土地勘とか、なんか話さなかったのか」
「さぁ?」
せせら笑う息子の襟首を掴んで父親は引き寄せた。素直に引き寄せられながら、しかし、拓海の表情は従順とはほど遠い。
「オヤジの黒目、久しぶりに見るぜ」
ほとんどせせら笑うようなふてぶてしさ。
「言っておくけど、俺マジだかんな。あの人の前であんたぶちのめして、それから口説くんだ」
「……ガキが、ナマ言いやがる」
父親の激高は一瞬だけ。苦笑して手を放した時は既に、いつみの余裕を取り戻していた。
「無事にみつかることを祈ってるぜ。もっともあの極上が、おめぇの掌に入るたぁ思えねぇけどな」
「やってみなきゃ分からねぇよ」
あくまでも強気に拓海は言い放つ。苦笑して文太はしかし、おやすみと言って拓海に背中を向けた途端、別人のように頬を引き締めた。
同じ頃、ベネチアより200キロほど北のローマ。古都であり、古い芸術と新しい文芸が錯綜する街角。市街地の中心からやや離れた、小さいがよく手入れされた中庭を持つ家。
「……なにしてるんだ?それは、なに?」
中庭で、コリー犬とたわむれていた青年は家に入るなり尋ねた。ここ最近、彼の口からよく出る台詞だった。これは何だとか、あれはどうするんだとか。博学であっても実経験に乏しい彼は、子供のように外界の情報を今、吹きぬく風とともに吸い込んでいる。
「これは……、爪切りだが」
ペンチ状のつめきりで、ぱちんぱちんとやっていた男は戸惑いつつ、答える。生まれてこの方、後宮の外に出た事がないと知っている男は、彼のどうして攻撃に律儀にいちいち、真摯な返事をしてやっていた。が、こんなものを目を丸くして、問われてはさすがに惑う。
「爪が切れるのか、そんなので」
「……切れるぞ」
「きってみてくれ」
もちろんそのつもりだったから、構えていた刃物でぱちんと、左手の爪を切り落とす。
「俺もする」
男の手から取り上げて、彼は自分の左手をペンチの刃先で挟む。あ、と、男は軽い声を上げた。
「違うのか?」
やり方が、という風に彼は顔を上げる。
「いや、いいけど」
せっかくそんな、綺麗に伸ばしてる爪に刃物を使うのかと、言いかけてやめた。言えば彼の過去に触れるから。
ぱちん、と音をたてて、形を整え磨き込まれた爪が切り落とされる。パチン、パチン。
右も左もすっかり短くして、彼はご満悦。
「便利なものがあるんだな。早いし」
「お前、ヤスリしか知らないんだろう」
男はあちこちに飛んだ爪を拾い集めながらぼやく。ここローマでもお洒落な貴婦人たちはヤスリで爪の先を整える。
「いいや、皮だ」
「皮?」
「鮫の皮だよ。爪の先をそれでこすって、油を落としたセーム皮で磨くんだ」
「……今日は、何処に行こうか」
男は手を洗い、彼にミルクを渡してやりながら尋ねる。この家に彼が来て以来、毎日のように社会見学につれあるいている。
「商家を見学に行きたい。出来れば、値付けの説明を聞きたい」
「分かった。店を持ってる知り合いがいるから、そこへ」
言って男は支度をする。絵筆と木炭と帳面を持ち出したのを見て、
「史浩、お前そろそろ、絵は諦めろ」
呆れた声で彼は言った。
「なにを言う。芸術は人間の活動の中で最も高尚な行為だぞ」
「芸術がそうでも、お前の絵が芸術になるにはあと七百年くらいはかかるだろう。それまで生きていられるつもりか?」
「世間が俺の絵を認める日がいつか必ずくる」
「それより大人しく研究をしろよ。その方が百億倍くらい、世のため人のためだ。新式の砲台の設計は終わったのか?」
「下絵はできた。そのヘンに置いてある」
「どれ」
か゜さそがさ漁って、彼はその羊皮紙をみつける。そして、ため息。
「城砦の設計図とか機会の図面とか、お前、こんなに上手なのにな」
緻密な直線と曲線が交わったそれは、芸術的ですらある実用美を備えている。曲線のうち力点に関わる大切な部分には、複雑な数式から導き出した湾曲の角度まで、小さな丁寧な字で書き込まれていた。
「俺はでも、人物画が好きなんだ」
「超下手糞で、トルコの前宗主から、褒美をもらえないどころか侮辱したって怒られて」
「……、前宗主は、芸術を理解する心に欠けておられたのだ」
「俺が、でも威厳はよく出ていますとかなんとか、苦労しながら庇ってやらなきゃお前、今ごろはポスポラス海峡で魚の餌になってたぞ。……いや、お前を食べた魚を今度は人間が食べている頃、かな。単に下手糞だって認めて謝れば良かったのに」
「芸術の無理解者に節を折るようなことは、俺はしないんだ。でもお前には感謝してる」
だから今、彼をこうやって庇い、望みを叶えてやっている。
「なにせ、後世に名を残す大芸術家の命を救ってくれたんだ。お前は芸術音痴だが、芸術に対する功労者ではあるぞ」
「はいはい。まぁ、物理学者としては確実に後世に名を残すよ」
既に現在、三十歳にもならないこの若さで西欧じゅうに名前を知られている。帆船の三本マストもこの男の発明というか発見で、緻密に計算された位置に高低差のある三本の帆柱をたてた船は既往のものの倍は速く走る。
それが知られたとき、船主たちはいっせいに真似をしたが、出来上がった船はすべて、それまでのものより遅かった。三本柱の帆船は加重バランスが微妙で、船体と帆柱の高さを物理的な計算で算定しなければならない。適当な場所にたてるだけではダメなのだ。
大商人や大船主たちはこのむくっとした若い男が書く図面を欲しがり、そのためならば万金を惜しまない。史浩がその気になれば自己の船会社を興して大商人にのしあがることも出来るのに、金銭や世評に感心のないこの男は最近はもっぱらより飛距離を稼ぐ大砲と、子供の頃から好きだった下手糞な絵とに情熱を燃やしている。
「肖像画を、描こうか」
商家へ向かいながら史浩が涼介に言った。行き交う街角の婦女子が涼介の姿を見るとキャッという顔で笑う。それに笑い返しながら涼介は、
「どうして」
尋ね返す。
「トルコに送ろう。とりあえず元気って、それだけでも」
「馬鹿か、お前。俺の弟をなめるなよ。どんなに誤魔化しても必ず辿ってくるぜ。俺がいなくなった後でお前、攫われて拷問にかけられたいのか」
「でも弟、心配しているぜきっと」
「仕方ないさ。今はまだ、俺が居ない方が、いいんだ」
「もう帰らないつもりなのか、あそこには?」
「帰れるようになったら今すぐにでも帰る」
「ならなかったら?」
史浩の問いかけに、
「……」
答えない横顔は寂しく、悲しげでさえあった。