海峡の東・11

 

 暑い日だった。

 頭からすっぽり布を被った涼介は余計に暑いだろうと思った史浩は、茶を飲めそうな商家を探していた。その内心を、

「お二人さん、俺のところで茶でも飲まないかい」

 見透かしたような言葉が掛けられる。振り向くとそこに居たのは細めで細身で、けれど剛直な雰囲気を纏った男。史浩の腕を涼介が、きゅっと握った。

「せっかくですが……」

 断りかけたとき、

「面白い話をしてやるぜ」

 男がもう一言をいって、その言葉に涼介の指から力が抜ける。

「では、御邪魔いたします」

 史浩は涼介の肩を抱くようにして、男のあとをついていく。

 

 案内されたのは小さな商家。

 小さいながらも商人や船乗りが入れ替わり立ち代り、情報や海図を仕入れにきていて、活気がある。留守番の男に挨拶して、主は二人を、商家の奥へ招く。

「とったらどうだい、暑いだろう」

 自分で茶を注ぎながら主人は言った。

「いいえ、妻は宗教上の理由で、夫と身内以外の人間に顔を……」

 見られるわけには行かないのですと言いかけて史浩は言葉を詰まらせる。隣の涼介が、すっとベールを取ったから。

 薄布とはいえ、黒いそれは暑さを増していたのだろう。彼の額にはうすく汗がにじんでいた。主人が無言のまま冷たい水で絞ってきた布を渡すと、涼介はそれで顔を拭い、手を拭う。

「ご子息は?」

 それが涼介の初めての言葉。

「なんだ、知り合いだったのか」

 事情を知らない史浩は安心した顔で出された茶をすする。真っ赤な色の、酸味が舌に心地よい。ハイビスカスの花を乾燥させて煎じた、贅沢な代物。素っ気無い白い陶器の器には不似合いなほどの。

「ローマに行ってるぜ。あんたがここに来たって知ったら、口惜しがるだろうよ」

「そうですか」

 ごくごくと、涼介は茶を飲み干す。空いた器を受け取って主人はもう一度、壷から茶をつぎながら、

「顔、隠してたのは拓海にみつかりたくねぇからかい?」

 からかうような、物言い。

「いいえ。むしろ、彼を捜していました」

「あいつが聞いたら飛び上がって喜ぶぜ。なんの用だい?」

「船乗りに航海以外、用があるとでも?」

「そのとおりだ」

 苦笑して、主人は涼介に器を渡してやった。

「トルコへ行きたいのです。船を捜しています」

「そりゃまた物好きだな。逃げ出してきたんだろ?」

「居れなくなっただけです」

「政変で今、政情不安定らしいぜ。なのに帰るのか」

「だからこそ。船のお心当たりは、ありませんか」

「そいつぁ難しいな。新しいトルコとの取引は儲けもリスクも無茶苦茶に、でかい。新しい王様が落ち着いて、そいつのやり方が分かるまで、ベネチア商人は静観するつもりだ」

「なんでも、いたしますが」

 涼介の口調が変わって、史浩は眉を寄せる。

「おい……」

「だったらちょいと、話を聞いてくれるかい」

 主人は指を伸ばし、涼介の頬に触れた。堅い乾いた、ひびわれた指先。涼介は避けなかった。触れられる事を、瞳を伏せて、受け入れる。

「若い頃……、そう、俺があんたと同じかもうちょっと若い頃だ」

「大昔ですね」

「東洋の女に、惚れた」

「俺と同じ顔の?」

「そう。女も俺を気に入ってくれてな。女はその土地じゃ姫様とか呼ばれる身分の生まれでな。命がけの密会ってなぁ、盛り上がったぜ」

「刺激的でしょうね」

「俺はそこに、住み着いてもいいくれぇの気でいたが、女に縁談が起こってな。明日は婚礼のために出発って夜、手に手をとって逃げたんだ」

「……ロマンチックなお話です」

 少しもそんなこと思っていない、むしろ馬鹿にしたような表情で、涼介は笑う。

「月の夜に?」

「まぁ、そんなところだ」

 馬鹿にされても気にする様子もなく、主人は話を続ける。

「……船が難破、してな」

 トルコの海岸で。

 遭難した船乗りの運命は悲惨だ。沈没・溺死を免れてなんとか岸へたどり着いても、積荷や船の木材目当ての土地の人間や領主に殺される事が多い。幸い、トルコの宗主は難破した船乗りに庇護を与えており、その恩恵は異教徒にも与えられる。……しかし。

「若くてきれぇな女だったからな」

 目をつけられた。土地の宗主に。船の船長は女一人を差し出して乗組員が無事に帰れるならばと、易々とその条件をのんだ。自分の女ではなかったから。

「俺ぁもちろん、渡す気はなかったさ。女と逃げるつもりだったんだが」

「棄てられましたか」

「女はさっさと、伽に行きやがった。……仕込まれた後で宗主の後宮に、奴隷として献上されたって、聞いた……」

 歯噛みしながら噂を聞いた、若い日の彼。

「俺ぁ女を恨んでる。俺の為だったって事ぁ重々承知で、それでもな」

 言いながらそっと、涼介の頬を手のひらで包む。

「ちょっと、笑ってみねぇか」

 言われて涼介はその通りにした。一目でわかる嘘笑だったが、主人はそれに文句はつけなかった。

「俺のために死ぬぐねぇなら、俺と一緒に死んでくれてもいいと思わねぇかい?」

 涼介は、それには答えない。黙って今度は、本当に笑った。

「……世の中には、覚悟の要る男がいるんです」

「あん?」

「無茶で無鉄砲で、馬鹿じゃないから余計しまつの悪い、のが」

「俺がそうだってのかい?」

「そういうのを、愛した時点でこっちは覚悟してる。そいつのために死ぬ事を。でなきゃ恐くて、手は伸ばせない」

「言うぜ……」

 主人は苦笑し、

「名前を呼ばねぇか、俺の」

「……藤原文太さん」

「あんたのお袋の故郷の言葉じゃ、……、って言うんだ」

 聞いた瞬間、涼介が。

 凄絶に、微笑む。

「よろしいですよ。……お耳を」

 白い指を髪に差し入れ、耳たぶを噛みそうな近さで。

「……、……、、」

 何度も言わされた言葉だった。

 愛の言葉と、父親は思っていた。

 女の心に最後までいついた、別の男の名前とも知らずに。

 ゆっくり主人が、涼介の肩に手をまわす。

「悪かったな」

 初めての、謝罪。

「あんたの御袋を、好きだったぜ。おんなじだけ憎んでたけどな。それでも捜してた。死なれたって知ったショックであんたにやつ当たり、しちまった」

「今後、トルコに来られることがあったなら」

「うん……?」

「ぜひ、お立ち寄りください。あなたも同じにしてあげます」

「切り落として宦官かい?」

 笑い混じりの主人の表情が、

「いいえ、わたしの、夜伽の奴隷に」

 そう答えられ、強張る。それは本当にかすかな変化だった。けれどベネチアでもっとも内心を知らせないこの細目の主人に、はっきり分かる表情の変化をもたらしたのは、涼介だけだった。

「あんた本当に御袋に似てるな」

「あなたは、息子に少し似ています」

「あの女も気の強い、腹の据わったいい女だったぜ」

「逆か。息子があなたに似ている」

「あんたから抱き締めてくれねぇか」

「自分が得意な攻撃を相手に返されると、けっこう、脆い」

「トルコに帰れる手段をみつけてやるぜ」

「そう簡単に交換条件を、自分から出しちゃいけない。まだまだですよ、親子とも」

「帰したくねぇな……」

 肩口に額を埋めて抱き締められながら、主人が呟いた言葉には本気が滲んでいた。

「このままここに居ないかい。拓海が戻ってきたら決闘、してやるぜ」

「ばかばかしい。どっちが勝っても、俺に利点はない」

「強い男を選べるじゃねぇか」

「好きな男じゃなけりゃ意味がありませんね」

 

 ベネチアからトルコに行く船は結局、なかったが、ベネチアにきていてトルコへ戻ってゆく船を、文太の尽力でみつけることが出来た。

 涼介は港で史浩と別れると言ったが、

「そんな中途半端なことはできん」

 史浩はさっさと船に乗り込む。

「お前は俺の命の恩人だ」

「じゅうぶん、それ以上のことをしてもらったよ」

「まだだ」

「危ないんだ。頼むから、ここで別れてくれ」

「安心しろ。これから先、ナニが起こったとしてもそれは俺が、生きているから起ることなんだ。死んじまったら、痛い目にもあえやしない」

「死んだ方がマシの生かし方があるんだ、沢山。……いろいろ」

「お前の弟に切り落とされたり、拷問されたりは俺もちょっと、遠慮したいもんだが」

 かつてトルコに滞在していた短い期間のうちに、史浩は涼介と啓介の関係をごく性格にのみこんだ。彼は、みかけによらず、聡い男だった。

「俺を罰せる状態だったら、俺はさっさと逃げ出すさ。手伝ってくれるだろう?」

「あぁ」

「よし、じゃあ、行こう」

 二人分の船賃を払って乗り込む。

「大丈夫さ、きっと」

 道中ずっと、繰り返してきた気休めを史浩は口にする。根拠のない、無責任な言葉。けれどもひどく、涼介の心を安らがせる、語句。

「きっと、うまく、逃げたさ。すばしっこそうなガキだったじゃないか」

「もうガキじゃないぜ。二十一だ」

「なら知恵づいて、ますます逃げられてるさ。大丈夫」

「……うん」

「きっと、大丈夫だ」

「そう。……きっと」

「会えるぜ、もう一度。何度でも」

「……あぁ」

 

月が波頭を照らして、トルコへの道が出来る。

 祈りの航路だった。