海峡の東・13

 

 彼は眠っていた。子供のように真摯に、老人のように懸命に。外界との繋がりを遮断し、自分自身を確認するために、呼吸さえ最小限にして、静かに。

「おい……、起きろ、変事だ」

 館の主人に揺り起こされるまで。

「……」

 意識は言葉を拾っていた。けれども身体は眠りの中にある。何を言おうとしているか、理性は予想をしていた。いっそ、待ちかねていたかも、しれない。

「叔母上が、啓介の母親が死んだ。自殺だ」

 起きろと乱暴に揺すられる。起きているぞと心で思っても唇は動かない。今朝、愛した男に着せられた夜衣をまとった、幸せな眠りを肉体は貪り続ける。はだけた夜衣の隙間からこぼれる素肌の痕を見て、

「……ッ」 

 将軍は息を飲む。

「……」

 ゆっくりと、長い睫を見せ付けるように、彼は目蓋を、持ち上げた。

「おはよう、ございます」

「あんたがやったのか」

 単刀直入に将軍は尋ねた。ゆっくり唇をほころばすことで彼は問いかけを肯定したが、

「なんのことでしょう」

 口先だけは、とぼけてみる。

 サイズの合わない練絹の贅沢な夜衣。肘にも喉にも胸元にも散らばるうっ血や歯形をまるで誇るように、彼は将軍にみせつける。東アジア最高の権力者に愛された、あとを。

「あの塔に入り込めるんだ。叔母上の住いなんざ、簡単なものだろう」

 微笑むだけで彼は答えない。

「やられたぜ……」

 短い前髪に手を突っ込んで将軍は、息を吐く。

「選べとか決めろとかって人を惑わせておいて、これかよ。選ぶも決めるもねぇ、片一方しか、残ってねぇからな」

「待つのは嫌いなんです」

 夜衣の裾がはだけて膝が見えるのも構わず、涼介は寝台の上で起き上がる。

「他人の選択を受け入れさせられるのも、大嫌いなんです」

「よくもまぁ澄ました面で言いやがる。悪党め」

「……あんたが遅いんだよ」

 がらっと涼介は口調を変えた。

 主人に連なる相手から、単なる同僚へと。そう、母親自身が死んでしまえば、宗主の母方の血族という地位は揺らぐ。母権が消滅すればあとは、男に一番近いのは、その男が愛している女。

「あんたは中途半端だ。何かを成すには慎重すぎて、時期を待つには頭が良すぎる」

「ぬかせ」

「王者には、向かない」

「勝手に言ってろ。啓介を塔から出すぜ。ここに降ろすからな」

「待て。……早すぎる」

「あん?」

「あいつはまだ監禁しておかないと、母親殺しがあいつの罪になる。……父上を幽閉先から、呼び戻してくれ」

「……」

「無理だったんだ、もともと」

無謀な蜂起から、ムリをしまくっての即位。国内も宮廷内も、その歪みに軋んで悲鳴をあげている。このままでは、いずれ身動きがとれなくなる。

「国政ってものは、そんなに安易なものじゃないってことさ。啓介にはまだ、ムリだ」

「あんたナニ、考えてる」

「父上に再度、宗主になっていただこう」

「それで」

「一度、国内と宮廷を落ち着けて。諸外国に対する体面を整えて」

「啓介は、どうなる」

「……全ての罪は、母后に被っていただくさ」

 死人に口なしだと、ごく冷静に、涼介は言った。

「悪いのは死んだ方。啓介は母親にけしかけられて気が迷っただけ。そういう事に、する」

「そんな都合のいいことは」

「……できる」

 俺ならしてみせる。父上を丸め込めると、涼介は言った。将軍の頬から血の気が引いていく。

「身体で丸め込む気かよ。もう一度、父親を」

「俺には母后を廃して父上を再度、宗主に返り咲かせた手柄がつく。引き換えに啓介の、命だけは必ず救ってみせる」

「あいつの立場も考えてやれよ、あんた。一度は宗主になっといて、国内が落ち着かないからって追放した父親に復位されて、それで、男が世間に顔向けできると思うのか」

 厳しい口調の将軍の言葉を受けて、

「じゃあ、お前には他に名案があるのか」

 いっそ投げやりなほど静かに、涼介は問い返した。

「あるなら教えてくれ……。母方親族の後見を失って」

「……おい」

「一時とはいえ従兄弟に政変起されて、監禁されて足元みられたせいで、あっちこっちの地方領主が反乱の準備をしてる」

「あんた」

「ヨーロッパでは十字軍編成の意気があがって、ベネチアにはぞくぞく物資が集まってきてる。この状況で他に啓介を、守る手段があるなら教えてくれ」

「泣く、なよ」

「仕方がないじゃないか……。最初からムリだったんだ……。仕方がないじゃ……。あいつが起した反乱自体が無茶で。勝たせてやることはなんとか出来たけど、あいつを宗主にしてやることはまだ……、俺には出来な、かった」

「泣くな。あんたのせいじゃねぇ」

「他に手段があるなら教えて。俺だって……、俺だって今更……」

「ねぇよ。あんたが考えて、ほかがなかったんなら、誰が考えてても」

「父上のところに戻りたくなんか、ない……」

 夜衣の襟元に顔をうずめるようにして。

 震える涼介を、将軍はそっと、抱き締めた。

「すまない」

 脅えたように嘆く背中を抱きながら。

「力不足は俺も同じだ。対立をうまく裁けずに」

「……そう、お前も、……悪い」

「地方領主たちに睨みをきかせるだけの貫禄も、まだ、ねぇ」

「……命だけは、守って」

 殆ど縋りつくように、涼介は京一の肩に腕をまわす。

「啓介の命だけは守って。必ずもう一度、宗主にしてやるから。それまであいつの」

「分かった。必ず、約束する」

「命だけは」

「絶対に。俺の命にかえても」

「お願い……」

「あぁ」

 

 メフメト二世は若くして一度、宗主の地位についた。

 しかし若すぎて治世に失敗し、退位。

 一度は隠棲した父親、ムラト二世が再び宗主となり、混乱した政情を押さえた。

 軍人として、治世者として、実績のあるムラト二世の登場にヨーロッパ諸国は動揺し、十字軍の結成は中断。内乱を起しかけていた各地のパシャたちも叛意を沈め、国内は平定された。

 

「お変わりのないお姿を拝見できなによりです」

 かつて寵愛していた美貌の『息子』に出迎えられ、

「よくその顔を、わしの前に出せたな」

 花で埋め尽くされた広間の、王座に戻った『父親』は侮蔑の表情を隠さなかった。

「淫売めが。あやつのモノを散々にくわえこんで、愉しんだむのだろうが」

「……」

「さっさと消えろ。目障り極まりない」

「それはあまりなお言葉です。父上のご復位に、かくも尽力いたしましたわたくしに」

「……ふん」

 信用できるか、という目で父親は息子を眺めた。息子は、微笑んだ。

 艶やかに。

 美しく。

 父親は舌打ちし、

「臥所でまっておれ。報いるかどうかは、肝心のことを試してから決める」

 父親がそう告げた瞬間に、結果は決まっていた。

 男が決して手放さない身体と声と、表情、そして深みを持っていたから。

「淫売、この、淫売めが」

 罵られながら、それでも彼は熱心に、老醜のました腕に応じた。

「あやつはどう、お前を抱いた?あやつにもヨガって、愉しませてやったのか。お前も愉しんだのか、淫売め」

 それでは足りずに、……商売女のアソコ、という意味の。

 卑猥で猥雑な、罵り文句を投げられて。

 彼は笑った。壊れそうな、だからかえって凄絶に妖艶な、微笑み。

 馴れた言葉だった。

 初対面の弟にさえ投げつけられた、言葉。

 遊ばれて。でも陥落させて、夜明けには。

 命の嘆願を、彼は受け入れさせた。

 

「……啓介」

 父親に代わって『前宗主』になった息子を、

「返事、して」

 彼がそっと、尋ねてきたのは『前宗主』が父親と入れ替わりに幽閉される配所に旅立つという、日のこと。

「啓介」

 監禁場所は塔のままだったが待遇は悪化していた。伽の女は差し入れられていず、居室と廊下の間には頑丈な鉄格子。抱き合うことはできないけれど、せめて。

「顔を、見せて」

 声を聞かせてくれと。

 彼が何度繰り返しても、鉄格子の向こうで闇は、動かない。

「怒っている、のか」

 当たり前だけど。

「仕方なかったんだ。他に方法が、なかった」

 許してくれとは言わないが、せめて。

「顔を、見せて」

「あんたって、本当に、俺が一番、嫌なことばっか、するよね」

「……ごめんなさい」

「俺はあんたをあいつに渡すくらいなら、あんたと地獄におちたかったけど」

 静かに彼は、頭を左右に振った。

 そんなことは出来ない。させられない。

「あんたは結局、あいつのところに戻ったんだ。……自分で、戻ったんだ」

「ごめん、なさい」

「もう俺に、会いに来ないでくれ」

 ゆっくり立ち上がり、啓介は鉄格子の手前に来る。薪の炎が揺れて、痩せてやつれた顔に、深い陰影がまとわりつく。

「二度と俺に話し掛けないで。笑いかけないで」

「けい、すけ……」

「だいっ嫌いさ。あんたのことなんて」

「……」

 

 涙は出なかった。

 悲しすぎると呼吸さえ忘れて。

 空っぽになってしまうのだと、その時、初めて、涼介は実感した。