海峡の東・14
1451年、ムラト二世は47歳で死去。死因は心臓発作。
配所から戻った啓介を、華やかな女たちとその女たちが産んだ子供が取り巻いていた。一旦は退位させられたとはいえ次期宗主という地位は魅力的で、女もその父親も、彼の子を産みたがっていた。
正式な継承を控えた一日、啓介は後宮の女たちを広間に集めた。勿論、全員ではない。全員は入りきれない。年齢は十二歳から十八歳、容姿が優れていて、まだ宗主の手がついていなかった女たち。彼女らはそれぞれ、懸命に装い凝らしていた。ここで宗主に選ばれるかれないかが明日の運命を、おおげさに言うなら人生、生命さえも左右してしまう。
うずくまり膝をついた女たちの間を歩きながら、良さそうな女の肩を、宗主は叩いて顔を上げさせる。更にそれが好みなら腕を掴んで立たせた。立った女は嬉しそうに勝ち誇り、宦官に案内されるまま、後宮の奥宮へと戻る。立たされなかった女たちは地方のパシャたちに下賜されるか最悪、市井の家の女奴隷として生きていかなければならない。
百人近い女の中から八人ほどを選び出し、宗主は居間へ戻る。かつて短い期間暮らした、宗主の居間へ。そこから見える中庭の噴水は、時が止まったかのように石の湿り方まで同じだった。違うのはそれを眺める『新』宗主の姿。
もともと長身だったのかさらに伸びて、体つきは男っぽくカタくなっているのが、服を着ていても分かる。顔立ちにも表情にも、かつてはあった甘さは見られず、厳しく引き締まっている。それは成長の証かもしれないが反面、純粋・愛嬌・真摯、そんなものを失ってしまったことを示している。
「イイ女、居たか?」
以前と同じように、居間の脇机から従兄弟の須藤京一が話し掛ける。
「別に」
「会わないのか、彼とは」
京一は、ずばりと尋ねた。
「興味ねぇよ」
「なら俺が口説いてもいいな?」
じろりと啓介は従兄弟を眺める。
「……会ったのか」
「ちらっと姿だけ。書類と鍵の引渡しのときに。ジジイ、晩年はロリ趣味で七つ八つのガキ、抱いて寝ているだけだったって?ま、実質的に内政を支えてきたのは、あの美形だし」
「幾つか分かってるのかよ。二十歳こえてもう何年もたつ。小姓にゃとうがたちすぎてるぜ」
「磨きがかかってたぜ。まぁ容姿はおいても、あの才気と実績は、放り出すには惜しいだろ」
「京一、お前は、あれを気に入ってるんだろう」
「惚れては、いる」
「どうして俺をけしかけるようにことを言う」
「本人がお前を好きなんだ。仕方ねぇだろ」
俺は俺の方がずっといい男と思うがな、と、京一は言った。啓介も否定はしなかった。
「お前を見れて嬉しそうだったぜ。挨拶しに行かないのかいって尋ねたら、近づくな話し掛けるなって言われたってたが」
「そうだ」
「マジかよ。もったいねぇな」
京一の挑発に啓介はのらない。黙って中庭の噴水へ目を向ける。やがて京一が部下に呼ばれて出て行って、一人になっても、まだ。
一度目の、宗主時代。
夢のように抱き合って過ごしたあの幸福な時に、ふざけて夜中、水浴びをしたことがある噴水。薄物を纏った肢体は濡れると透けて素裸よりもエロティックで、思わず押し倒し、溺れさせそうになった。
夢のようだった、時間は短かった。
「惚れてるさ、俺だって、まだ」
呟く。自分自身に向けて。それは敗北を認めることでもあった。拒んだのは自分の方。二度と会いたくないと思った。嫌なことばかりする人。嘘ばかりつく人。惚れたのも彼が初めてなら、こうも傷つけられたのもはじめて。心の一番やわらかな場所をつかまれて、握り込まれた場所からはたらたら、暖かい血が、今も流れている。
……会いたい。
それは、切実な欲求。同時に絶対、避けなければならないこと。会ったら終わりだから。逆らえなく、なるから。
月の綺麗な夜だった。
もうずいぶんと一人寝の続いた寝床で、その日も目を閉じる。
見る夢はいつも同じ。幸福だった、あの短い時間。あれと人生を引き換えにして後悔はなかった。愛しい男を今度は破綻なく宗主にしてやれて、それで満足だった。
性で仕える『妾』ではなく宗主の秘書として、かれは宮殿の一室に眠る。事務の引継ぎはあと二・三日、かかる。その間は遠目にでも、姿を眺めていられるのが嬉しかった。終わった後の自分のことなんて考えては居ない。なるようになるだろうし、ならなくっても構いはしないから。
あの頃、何度も眠った寝台で、愛しい男は今ごろ眠っているだろう。隣にはきっと美しい女。嫉妬が……、なくは、なかった。あの腕にだかれてあの声で睦言を囁かれて、眠る夜の甘さを知っているから。
妬けつく胸に苦しみながら、それでも眠りの沼に落ち、夜半。
ふっと目覚める。違和感を感じて。起き上がろうとして……、動けない。
なんだろうと、思う間もなかった。
「うごくな」
どくん、と心臓が大きく脈打つ。
この、声は。
「動かないで」
それは……、ムリ。
「動くなってば」
悲鳴のような制止をしりぞけて向き直る。後ろ抱きにされた腕の中で、抱く腕の持ち主を確かめるために。月の光を、頼りに。
「笑うなって言っただろう」
それもムリ。だって嬉しいから。お前に、もう一度触れるなんて。
「……けい」
「喋るな」
「すけ」
「黙れよッ」
「好きだよ、会いたかった」
「うるさい」
唇を塞がれる。うっとり目を、閉じる。幸せで死ぬかも。キスなんか、してもらって。
息にはずいぶん濃いアルコールの気配。酔っているのかと思った。酔っ払いは嫌いだった。でも今は好き。酔って迷って、来てくれたのだから。
「……んで、こんなに……」
寝巻きを剥がれるまでもなく自分から紐を解く。あぁしまったと、思う。まさかこんな幸運が降ってくるとは思わなかったから、ナンにも用意をしていない。唇に香り珠も含んでいないし、爪も最近、真面目に手入れをしていなかった。せめて手間を掛けさせないように、よっぱらって動きの鈍い手に協力して、自分から、身体を開いていく。
「……どうして」
「ん……ッ」
「チクショウ……。もう絶対、触んないって、きめてたのに……」
「ッン、……は」
「俺、意思弱くねぇよ。頑固な方だよ、どっちかってったら」
「……、あぁ」
「なんであんたに逆らえないんだろう。あんたにだけ、こんなに」
「す……、き」
「離せよ、俺を」
どん、と心臓を。
痛い力で叩かれた。
「俺を返せ。俺の……、恋を」
ごめん。
「返せよ。あんただけ愛してた十年」
ごめん。返せない。
だって、俺だって、それだけのために生きてきたから。
お前に愛されてることだけを理由に。
「俺を自由に、してくれ。もぉ、苦しめるな」
……ごめん。
「キモチも身体もあんたに入れ込んで、丸ごと裏切られんのはもう、たくさんだよ」
ごめんなさい。
「俺の前から消えて。見えないところに、行って……」
首を横に振る。それはイヤだった。
抱いてくれなくてもいい。笑ってくれなくても、言葉を交わすことが出来なくても。
お前をたまに見られるだけでいい。それだけで幸せ。
「他の男の手に入るのみたくはないんだよ……」
そんなこと、もう起らないよ。俺を幾つと思ってる。
お前にこうやって抱き締めてもらえる幸運も、たぶん、最後。
「どっかに消えて。あんたが近くにいると、俺はぐちゃぐちゃになっちまう」
……イヤ。
「夜が明けたら出て行けよ。ベネチアにでも、何処へでも。なに持って行ってもいい。金が要るなら幾らでも送ってやる。……だから、俺に自由を、くれ」
「……なんにも、要らないよ」
我慢できずに、口を開いてしまった。
怒られはしなかった。
「俺は、なんにも要らない。一生懸命働くから、ここに置いて。お前の目に付かないようにするから」
「ムリ。俺が捜す。捜しちまうんだ。いつも、あんたは何処だろうって」
「お前の女たちの、靴でも床でも磨くから、いらせて」
「ダメ。ンなコト、俺が許せない」
「なんにも要らないから」
「あんたが居たら、俺はダメなんだ。甘ったれのガキに戻っちまう」
「そんなことないよお前は立派な……、男だ」
「俺サァ、すっごい、好きな人、居たんだ」
ぎゅっと抱き締める腕の強さで伝わる。それが彼だという事は。
「その人に何べんも棄てられたよ」
「ちが、啓介、それは、違う」
「うん、あんたも、したくてしたんじゃないよな。俺が馬鹿だったり力不足だったりして、結局、あんたは、俺のために」
投げ出した。
この綺麗な顔と身体。
「二度とさせねぇよ」
「しないから」
「嘘つき。あんたはするさ、何度でも」
「置いてくれ。ここに、いらせて」
「命を何度も助けてもらったけど、俺はちっとも、感謝なんかしてない」
「……ごめん」
「情けなかったよ、すごく。だから俺、決めたんだ。もう恋とか愛とかは、止める。力だけで、生きてく」
殺伐とした支配者の道を歩む事を、そんな言葉で、男は宣言した。
「あんたは邪魔だ。遠くに、消えてくれ。……頼むから」
「俺が、お前の?」
「うん」
「邪魔……?」
「そう」
「……分かった」
あきらかに無理をして、美貌が笑う。そんな顔さえ冴え冴えと、月光を浴びて、白い花みたいに見える。
「言うとおりにする。遠くに行く」
「金は送るよ。本当に、幾らでも」
「……キスしていいか」
最後に、という言葉は告げあわなくても、伝わった。
唇を重ねる。ゆっくり男は彼をシーツに、もう一度、広げる。
「、、、て、言ったよな、俺のコト」
膝を広げながら彼は、似合わない猥雑な単語を口にする。最初にこの愛しい男から投げつけられた、言葉。
「俺は、違う。……ちがうよ」
愛しているのはお前だけだから。
「コンスタンチノプールに」
「……ん?」
「ハギア・ソフィア寺院って、あるんだ」
毒殺未遂後、あちこち旅した中には当然、そこも訪れた。
「鐘の音が凄く、綺麗だった」
「……それで?」
「それだけ」
ぎゅっと男を抱き締めて、
「それでも俺、幸せ、だったよ……」
嘘ではなかった。心からそう思う。
「お前と会えて、お前を愛して、幸せ、だった」
生まれてこれてよかった、って。
それは今でも、思ってる。
継承式の朝、時刻になっても、宗主は現れなかった。後宮の何処にも姿はなく、大げさに言えば行方不明。もっとも須藤将軍は無駄に騒がなかった。
まっすぐ秘書官の住居エリアへ行き、
「おーい、寝坊だぞ」
涼介の部屋のドアを叩く。
「さっさと起きて、支度しろ。時間がねぇ」
大きな声で呼んだが返事はない。ドアに手を掛けると鍵はかかっておらず、開いて、中に踏み入った途端。
将軍の顔色が変わった。
鉄臭い、独特の匂い。戦場で嗅ぎなれたそれは大量の……、血の。
「おい、啓介。……、涼介ッ」
寝室、書斎、姿はなかった。
浴室のドアを開けた瞬間、肝の据わったこの男が、おもわず、
「……ッ」
息を、呑んだ。
白い夜衣。痛みに暴れて裾がはだけないようにか、膝を同じく、白紐で縛って。
真っ赤に染まった、胸元。
力を無くしてタイルに伸ばされた白い手の先には、短剣。何故だか啓介の母親の実家、つまり京一の家の家紋付きの。
血の気を無くして青白い、それでも冴えた美貌に苦しみの翳りはなかった。いっそうっとり、しているような穏やか、いや満足そうな表情。唇はかすかに微笑んでさえ見える。
額にかかる黒髪に顔を押し当てるようにして。
泣いている、従兄弟。
「……ヤベェと思ったんだよ」
京一の食いしばった歯の隙間から漏れる、今更いっても仕様のない、繰言。
「お前が宗主にカムバックして、戻ってきたときあんまりさばさばしてるから、ナンかおかしいとは……。だからお前をたきつけたのに」
逆効果だったのか。
「ナンてこった。……もったいねぇ」
心からの愛惜。
「こんなガキを、あんたホンキで、そんなに好きだったのかよ……」
浴室のとびらにもたれたままで、ズルッと。
京一が座り込む。この頑丈な男が、そんな姿を見せたのは、初めて。
「もっ……、たいねぇ……」
なんにも要らないよ。
それは残酷なほど、本当のことだった。
何年か前に、着せてやった覚えのある夜衣一枚。
十年前に、啓介が、持ち込んだ短剣で、浴室で、胸をついて。
遠くへ行った。二度とは戻らないほど、遠くへ。
再度、宗主となって二年目。1453年、トルコ帝国はコンスタンチノプールを陥落。
メフメト二世は二つの大陸と二つの海の支配者となった。
攻防戦において勝敗を決した『バリメッツア』という名の巨大な大砲の技術者のこと。
そして、コンスタンチノプール陥落後も大トルコ帝国宗主に反抗しつづけ、1479年まで支配権を認めようとしなかったベネチア領主の事。
それらは蛇足でしかない。
陥落から半年。戦乱によって破壊された部分の修復が終わったばかりのハギア・ソフィア寺院に、運び込まれたのは、棺。トルコ王室の紋いりの紫檀のそれにはしかし、被葬者の名は記されていなかった。
到着したのは、寒い夜。そうかと頷き宗主は立ち上がった。そのまま寺院へ、馬で向かう。
安置させた部屋に、誰も入れずに、一人で入る。真夜中なのに、鐘を鳴らさせた。
「……まんぞく?」
棺に手を添え、優しく問い掛ける。
「ちゃんと聞いてる?大変だったんだぜ、あんたの遺言、叶えるの。これからは、嫌になるほど、聞かせてやるよ」
夜明けと日暮れに毎日、永遠に。
「……卑怯者」
優しく棺を撫でながら、囁く。
「おんなじことをしただけだよ、俺は。あんたが俺にした事と。……俺があんたを好きなこと、みんな知ってるから」
各地のパシャたちの娘も、バルカンの貴族の妹も。政略上の必要があって娶った女たち。
「離した方が、きらったまんまのフリして遠ざけた方が安全だと、思ったんだ。遠くで、平和に、暮らさせて……。俺が誰の思惑も気に掛けないでいいように、なるまで」
宗主のハレムの権力闘争の激しさを啓介はよく知っていた。嫡長子としてその一翼を担っていた。母親に言われるままに義兄を始末、しようとしたことも、あった。
「ひでぇ人だよあんた十年も、隠し持ってたのかよ、刀」
恨むことも、出来ない。
自分が持ち込んだ刃で胸をつかれた。十年前の殺意のツケを、ひどい利子付きで支払わされた。十年間の執着が、愛し愛された記憶が利子分の、膨大な、痛み。
「死んじまったら呼び戻せないじゃん。それとも戻ってこれるならおいで。ぜんぜん、少しも、俺おこってないから」
……戻って、来て。
夢でも幻でもいい。生まれ変わってくれたらもっといい。
「……ごめんな。そんなに辛いって、思わなかった」
言えば良かった?落ち着いたら呼び戻すからって。でも言ったらあんたはいう事をきかなかっただろう。絶対俺のソバに居た。そして平気で、自分を傷つけて俺を、庇った。
それがもう、嫌だったんだ、俺は。
あんたにもうかすり傷一つ、俺のせいで、つけたくなかったのに。
致命傷を、俺がつけてしまった。
「愛してるよ。昔も今も、ずっとあんただけ」
あんたが俺を愛してくれてることも、ちゃんと分かってる。
だから。
「ゆっくりお休み。……また、来る」
黒テンの毛皮を内張りにした、なめし皮の外套を脱いで棺にかけて、若い宗主は棺に口付ける。
現在もコンスタンチノプール、ハギア・ソフィア寺院の一室に、王室の紋つきの棺が安置、されている。
被葬者の名は伝わっていない。征服王メフメト二世の愛妾の一人としか。
東方の覇者の権利あるいは義務として、王は多くの美しい男女に仕えられた。快楽に仕えるための男女の奴隷とは別に、正式に妻と呼ばれる立場の女性は十一人。うちの五人はモレア王の息女を筆頭に、ヨーロッパ王侯貴族の娘であった。
しかし彼女らの墓所は分からない。ただ一人、名も伝わらぬ棺のぬしだけが、征服王の喜捨と愛情に庇護され今も安らかに、寺院の鐘の音をきく。