海峡の東・2

 

 父親のことをそれでも、好きだったことはあった。

 正妻に愛妾を殺された男は、忘れ形見を膝の上で育てた。毒殺を警戒して食べ物には気を使い、戦場にでも、何処にでも同行した。

 あの頃、嫌だったのは女を抱く閨まで一緒に連れて行かれたことだけだった。精通のない年齢の幼児にも性欲はある。優しい胸と豊かな腰をした女が父親に抱かれてよがる隣で、奇妙な息苦しさを感じていた。

 そして、年齢を重ねるごとに母親にそっくりになる息子を父親が、そうすると決めたのは十歳の誕生日。印に馬を送られた。真っ白なアラブ馬。嬉しかったけど怖かった。十二歳の誕生日には成人して、彼女らのようなことをするのだと思った。

 思ったとおりだった。

あの父親が特に変質者だった訳ではない。後宮に生きる人間は、女も皇子も宦官も、宗主の欲望に尽くすために飼われているのだから、どれをどうしようが宗主の勝手なのだ。腹違いの姉妹や孫娘を侍らせた宗主は数多い。だから父親も、地位に応じた権利を行使しただけ。

十二の誕生日、彼はまだ役に立つ身体にはなっていなかった。宗主は忍耐強く、一晩かけて彼をひらいた。優しかったといって言いのだろう。鳥篭の鸚鵡の羽根を切るような、残酷な優しさだったけど。

そうなってからは生活が変わった。与えられた館は第一オダリスク、最も寵愛される女のための建物。

ここに母親を入れてやりたかったのだと、父親は言った。

奴隷出身で身分が低かったために出来なかったのだと嘆いた。奴隷のままで死なせたことを悔いていた。美しい優しい女だった。

そこまでは、いつもどおりの言葉

でも。

お前の方が白いなと、脚を撫でながら言われた。白はこの国で最上を意味する。白い肌の女は珍重され、おかげで後宮にはさらわれてきた西洋人も多い。もっとも彼女らは、年端も行かない幼児のうちでなければ意味がない。宗主に処女を犯された女と、犯されるための生娘と、それらが産んだ子供しか生息を許されない場所だから、ここは。

館とともに侍女や宦官も与えられた。でも寂しかった。召し人はあくまでも仕える役目だけで、誰も友達になってくれないから。広大な後宮の豪奢な建物の中で一人、書庫に積み上げられた本だけを友人にして過ごした。

弟と初めてあったのはそんな時期だった。

チューリップの咲く庭で、版の大きな図録を見ていた時。いきなり後頭部に衝撃を感じた。最初は痛いというよりも痺れて、大人の拳ほどある大きな石をぶつけられたのだと、思いつくまで時間が必要だった。

『・・・・ッ』

 聞こえた声に振り向くと子供が居た。大声で叫んだ単語は、よく聞き取れなかった。子供はさっと離れていく。追いかけようとしたが頭が痛くて出来なかった。抑えていた手を離すと、指にべっとり、血がついていた。

 飛んできたのは見張りの宦官。その子供が正妻の産んだ弟だと、彼の口から聞いた。どうやってココにたどり着いたのか、貴方に石を投げるとはなんということを、宗主に報告してきつく叱って頂きましょう、と。

 止めてくれと咄嗟に言った。父には言わないでくれ、と。子供が叱られると思った。可哀想というよりも、叱られたらもう来ないだろう、それが嫌だった。あの子と話をしてみたかった。周囲は大人ばっかりで、年齢の近い相手を見たのは殆ど初めてだった。

指輪で宦官の沈黙を買った。そんな真似をしたのはそれが初めてだった。誰にも初体験はある。大人になるにしたがって、侍女や宦官を買収・逆買収するのが得意になるのだけれど、そのころはまだ、正直な子供だった。

父親に転んで怪我した嘘をつき、その時に指輪をなくしたと言った。自然に口から出た。自分が嘘が得意だと、初めて自覚した。

次の日から、毎日、中庭に出た。

子供はなかなかやって来てくれなかった。

それでもずっと、中庭で待ち続けた。

 

「なに、考えてんの?」

 胸元で囁かれ目をあける。目線を下げると、こっちを見上げる弟の鋭い視線とかみ合う。

「お前のこと」

「嘘つき」

「本当だよ。・・・・、って」

 彼の口から出た単語に弟の眉が寄せられる。

「なに、それ」

腐った女のアソコ、という意味の。

この麗人にも場面にも不似合いな言葉。

天蓋つきの寝台で、身体の沈み込むベッドの上で、抱き合う。

「お前が最初に俺に言った言葉さ」

「嘘。俺そんなこと言ったっけ」

「石を投げつけた後に」

「……」

 思い出したらしい。

「あの時は何を言われたか、分からなかったけど」

「それ俺の言葉じゃねぇよ。お袋たちが使ってるのを聞いて覚えてただけだ。それを最初にするのはやめてくれねぇ?」

「何かあったか、他に」

「沢山ほめたじゃねぇか。綺麗とか美人とか」

「覚えてないな」

「思い出せよ」

 

 あの初対面のあと。

ずいぶんたってからようやく姿を現した弟に、彼はそっと、怒られなかったかと尋ねた。弟は強い警戒心を見せながらそれでも頷く。

よかった。心配してたんだ。何処からここに来るの?

 生垣をかきわけてだと、喋らせるのに半日くらいかかった。

 大人の目を盗んで話した。いつも少しだけ。いつも来るのは弟の方だった。彼は外に行こうとはせず、弟も連れ出そうとはしなかった。彼にとって、外が危ないことは二人ともよく分かっていた。

 時々、弟は来なくなった。それから二三日すると侍女たちの噂話から来れない理由はわかった。それは正妻と宗主との仲が特別険悪になった時期だったり、外国からの使節が来ていたり。正妻の実家を訪問していたり。やがて弟が外国に留学することも、噂で知った。

 旅立つという日の前日、宵闇に紛れてやって来た弟が初めて、館に入りたいと言った。

 戸惑いはたったけれど、暫く会えないと分かっていたから、別れがたかった。そっと手引きして部屋へ招き入れる。一言二言、言葉を交わすか交わさないかのうちに、父親の来訪を告げる鐘が鳴って、彼も弟も、声も出ないほど驚いた。

 弟を寝台の下に押し入れて。

 動くな、声を出すなと告げた。そうして父親に抱かれた。初めてそれを嫌なことだと思った。それまではよく分かっていなかった。寝台の下で何もかも聞いている弟の存在に、初めて自分のしていることを、恥じた。

 

「この下に、俺、詰め込まれたことがあったよなぁ」

 耳元を舐めるような近さで囁かれる。何度もだかれて敏感になった身体は、耳たぶに触れる息だけで竦んだ。
「あんたと親父がヤッてる音と、声ききながら。情けなかったよ。俺、あん時、あんたを好きだって言いに行ったのに。あんたを助けてやれもしないで」

「嘘つき。殺しに来たんだろ」

 なんでもないように彼は告げる。実際、それは宗主の後宮で、よくある出来事だった。

 

 母親のために父親の寵愛する愛妾を殺す息子。

 または、留学で外国に出される間に跡取の地位を奪われないために、義兄の命を奪っていく弟。

 その弟を、彼は庇った。背中から腰を抱えあげられ崩れた上体を寝台からこぼしかける勢いで揺さぶられる。まだ華奢な少年の身体だった。腕が床に、甲が触れそうな高さで落ちた途端。

 寝台の下からその手を掴まれた。

 瞬間、彼の喉から絶叫が迸った。恥辱と罪の意識と、弟の手によって、彼が初めて絶頂感を、感じた瞬間だった。

 反応の良さに父親は何度も彼を抱き。

 ようやく自由になれたのは夜半。

 だるい身体はシーツの上で起き上がることも不可能で。

 それでも、弟のことを思って立ち上がった。寝台の下を覗き込む。暗くて、よく見えなかった。

啓介、もう出てきて良いよ。

 声をかけたが返事はない。

早く帰らないと心配される。……眠っちゃったの? 

 返事はない。

けい、

 返事の代わりに凄い勢いで、彼は寝台の下に引きずられた。頭や肩をあちこちにぶつけながら。混乱した意識が状況を理解できるより早く、唇を塞がれる。脚をひらかされる。

 高さのない閉ざされた空間。絡みつかれて、拒絶も逃亡もできなくて。

 突きつけられたのは灼熱の欲望。

 脅えて離れようとした。でも声は出さなかった。この弟は見つかれば罰を受ける。殺されるかもしれない。

 それが嫌だったからだ。

イヤだ。

 出来たのはたった一言だけ。短い、拒絶の言葉だけ。

 弟に抱かれるのは嫌だった。嫌というよりも哀しかった。父親と同じ欲望をたたきつけられる。ひくひく震えていることしか出来ない自分は確かに、あの時。弟の、あの言葉通りの存在に過ぎなかった。

 

「あん時あんた、すげぇ間抜けなこと言ったよな」

 白い内股の感触を愉しむように、啓介は頬をすりよせて、笑う。

「寝たのか、なんてさ。眠れるわけなんかねぇじゃん」

 

 寝台の、下で何度も犯された。

 いれられたまま少年の欲望のままで、何度も。

 泣いても低くうめいても許してくれなかった。

体液と精液に塗れて。

苦しくて、とても哀しかった。

 

「なぁ、下、もぐってみようか」

 今は堂々と部屋を訪れ、シーツの上で彼を抱く弟がそんなことを言い出す。

「どうして」

「思い出すかもしれないからさ。初夜」

「俺は忘れたことなんか一度もない。お前は忘れたのか?」

「覚えてるよ」

「だったら必要ないだろ。それにもうガキじゃない。二人してもぐるのは、無理だな」

 あの時は十五と十三で。本当にまだ子供だった。子供でも、人を抱いたり、傷つけたりは出来た。

「俺、今度はあんたのアニキに生まれてたい」

「……どうして」

「最初にひらいてみたいから。俺の形だけ覚えさせたいから」

「馬鹿なことを……」

「何で馬鹿だよ。大事だろ?」

「もっと大事なこともあるさ。俺を女にしたのはお前だ」

「なに、それ」

「男にされてイッたのはお前に手を掴まれた、あれが初めてだった」

 ふーん、と弟は複雑な声音。その時に含ませていた雄は自分ではなかったから。

 それでもそれ以上せめはせず、互いに腕を絡ませて抱き合う。睫を伏せて口付けを受けながら、彼は天蓋の翳りを眺めている。

 刃物が隠されていることを、この弟は知らない。

 前宗主の正妻。自分の母親の紋つきの短刀。

 この弟がこの部屋に、持ち込んだ刃物が。

 隠されている。天蓋の、布を支える金属の翳に。

 もう一つ、この胸の中にも。

 この弟が、ここに持ち込んだ刃物が。