海峡の東・3
「でよぉ、その新宗主ってのが、これが若くっていい男でよぉ」
父親の客がトルコ宗主の交代劇を語るのを、拓海は聞くともなしに聞いていた。二週間の航海から戻ったばかりで疲れていた。交易都市として発展するベネチアの一角の小さな船会社、それがたくみの勤務先である。船会社の社長は父親なので彼は跡取だが、雇われ船頭の倍はこき使われている。
それでも今日は休んでもバチは当たらないはずだ。急ぎの積荷を普通の船頭の半分近い日数でフランスへ届けてきた。航海日誌を整理してファイルして、もう上がろうとした時に、
「親父が抱いてた女をその場でヤッちまったらしいんだな。女は最初は嫌がってたが、ヤられてみたらこれが良かったのか、新宗主にこう、腕をまわしてよぉ」
客の話は色事の部分に及んで、熱が入ってくる。ちらっと拓海は父親の顔に目線を走らせた。細目で表情というものを滅多に見せない父親の内心は、十八年間息子やっている彼にも分かりにくい。ふだんは猥談を好きな方でもないのに、トルコのハレムで起こった事件には異常なほど興味を示す。友人はそれを承知で微に入り細に入り、話してゆく。
「脱いだ服を女の腰の下に敷いて、ずいぶん情熱的だったそうだぜ。たまんねぇよなぁ、トルコの男ってのは。衆人環視の中で女、抱かなきゃならねぇ時もあるし、それで勃たなかったら面子丸つぶれだろ?ハレムに何十人も若いの蓄えて、あれでよく身が持つもんだぜ。食い物の違いかね」
茫洋とした父親の細い目がふと、見慣れぬ鋭さで光った気がして拓海は足を止める。友人の話の途中で、
「女の歳は?」
淫靡な内容とは関係ないことを尋ねる。
「女の歳?そりゃ聞かなかったな。父親の女だからいい歳かもしれねーし、破瓜したばっかの十四、五かもしれねーし」
「そうか」
父親はそれきり何も言わない。拓海は父親の友人に会釈して店を離れた。
「拓海も立派になったもんだ。あの歳で、西回り航路の航海士だろ?」
客は本人が居なくなるとすぐに拓海の話をしだす。
「まだまだ、下手糞さ」
「ンなコト言うのは親父のお前だけだ。そりゃあ、お前の現役時代にゃ一歩を譲るかもしれねえが、拓海は間違いなくお前の息子だよ。素質はお前以上かもしれねぇぞ」
「素質だけでやってけるほど、甘い世界じゃねぇよ」
「実績も充分じゃねぇか。キッズ協会の中里もスリースターの池谷も相手にならねぇ。先ず間違いなく、このベネチアじゃ一番の若手航海士だぜ」
「ベネチアで一番なだけじゃな」
「ははぁーん。澄ました顔してぶっとんでんのは相変わらずだなぁ、文太。うちの息子はベネチアだけで納まるタマじゃないってハラかよ」
「ま、俺ほどじゃねぇけどな」
「領主が婿に狙ってるって噂も聞くぜ。拓海は歌姫だったお袋さんに似てハンサムだしなぁ」
「俺に似てハンサムなんだ」
「はっ、そんな細目でナニ言ってやがる。でもお前、不自然なほどもてたよな。お前が港に降りるたびに女たちがキャーキャー言って、俺はあれが未だに不思議だぜ」
友人は首を捻る。
「拓海の母親もこのベネチアきっての歌姫がなぁ、抱いてくれなきゃ運河に飛び込むって、泣き喚いて大騒ぎだったよなぁ。女は細目がすきなのかね。俺も細目にしといてみるか」
すき放題なことを言って友人は帰った。
「おい、拓海」
店から奥へ入って、父親は水を飲んでいた息子に声を掛ける。
「お前、さっきなに考えてた?」
「さっきって?」
息子は確かにハンサムだが、ややボーッとして見える表情で振り向く。
「さっきだよ。竜一の話を聞きながら、あれって面をしただろう」
「あぁ。別に。つまんない事だよ」
「いいから言え。言わねぇと今度の航海の取り分、やらねぇぞ」
「ひでぇ横暴だ。なら言うけどさ、本当につまんない事だぜ。ちょっと、おかしいって思っただけだよ」
「なにが、どう」
「親父の、その、抱いた後の女だろ?そーゆーのって、俺なら嫌だけど」
「お前の趣味は聞いてねぇ」
「わかってるよ。けどさ、自分が脱いだ服、敷いてやるっていうのはちょっと、おかしい気がしたんだ。義務で抱く親父の女にそんな真似、するかな」
「……」
「普通さぁ、納屋とか船底とかにシケこんでも、女の下にって女の服、敷くもんじゃねぇ?俺、自分の敷いてやったこと一度もないから。だから」
「……」
「トルコの男がどうかは知らないけど、もしかしてその、『親父の女』、息子は前から好きだったんじゃ、とか思っただけ。それだけだよ」
「おめぇがロクでもねぇ真似してんのがよく分かったぜ」
「ンだよ。親父が言えっていったから……」
「ほらよ
懐から金貨の皮包みを取り出し投げつける。
「まさかと思うが納屋に連れ込んだ女、領主の娘じやあるまいな?」
「なっ、んな訳ねぇだろ、なつきとは」
「へーぇ。まだかよ」
「関係ねぇだろーが、そんなの」
「素人女相手にヘマすんなよ」
「うっせぇ、余計なお世話だぜ」
出て行く拓海を父親はにやつきながら見送った。しかし拓海が居なくなった後で、
「親父の女、ねぇ……」
呟く声は、かなり低く掠れた。
同じ頃、トルコの後宮、第一オダリスクの館では。
「っ、ア……」
高い嬌声が上がった。跳ねる身体を愛おしそうに抱いて、男はきつく拘束する。二人して地獄のような天国へ失墜する寸前、
「あ、ン……ッ、、・・・、・」
甘く喘ぐ濡れた唇が細く、素早く、何かを口走った直後、
「また、かよ」
蕩けそうな顔で全身、嘗め回していた男の表情がさっと変わる。陶酔が醒めた直後の不機嫌さで、苦い顔で手を振り上げる。
「ツッ」
よがりながらの苦悶とは違う、明らかな苦痛の声。白い薄い皮膚は指の形にみるみる赤く腫れていく。その様子があんまり顕著だったから、
「殴んねーと正気に戻らないだろうが、あんた」
言わなくてもいい言い訳を口にする。苛ついた乱暴さのままで前髪を掴み、
「また言ったぜ、あんた、あの台詞」
荒い呼吸を継ぎ、痛む頬を無意識に抑えながら、
「……すまない」
細く謝る。一方的な暴力に対する無抵抗さが、男を余計に苛つかせる。
「謝るぐらいならなんで言うんだよ。親父に教え込まれた言葉をさ。クセになってんの?それとも母親の真似すんのが気持ちいいわけ?」
早口の罵り文句の礫を受けながら、
「わざとじゃ、ないんだ。覚えていない」
はだ半分は陶酔の中に居る彼は、搾り出すような掠れた声で囁く。
上気した頬が艶っぽくて、無理に中断した欲情が、
「あんたさぁ、俺に抱かれながら、他の男のこととか思い出してねぇ、よな?」
横滑りする。凶暴な暴力。白い肢体に飢餓状態で、渇えていた時間が長すぎて。
好きなだけ貪れるようになった今、いっそ、縊り殺してみようか、なんて。
「してない……」
「覚えてねぇのになんで分かるのさ」
「してないよ、啓介」
「も、いーよ。シラケちまった」
半端にたかめたままで放り出す。彼の皮膚の内側で目覚めた熱が、疼いて辛そうなのを横目で眺めて愉しむ。吐息を殺しながら、それでも服を着ようとしたから、
「なぁ、口でして」
そんなことを要求してみる。彼は目を見開いて弟を見て、戸惑ったように伏せた。ハレムの女のうちでも筋目のいい連中はそんな真似はしない。飼い殺しの宮女、恥知らずな宦官あたりしか。
「した事、ない?ないなら余計、して欲しい」
要求に彼は俯き、そのまま、シーツに蹲る。仕えるように弟の、脚の間に美貌を差し出して。
「マジかよ」
素直にするとは思っていなかったから、驚く。その一瞬後には怒りがきた。初めてでこんなに素直に言うことをきく筈がない。経験があるんだ。こんな真似をさせられたことが。親父かそれとも別の男にか、花びらのような唇で仕えてやったことが。
「の、ヤロ……」
罵り文句は、誰に向けたものだったか。
後ろ髪を掴んで無茶苦茶に動かす。苦しそうに痙攣しながら、それでも彼は男を含み続けた。理不尽さも怒りも憤りも、哀憐も後悔も腹立ちも何もかも。
吐き出しながら引き抜く。人形じみて整った顔に、汚れた欲望を撒き散らす。それは独占欲。今更、過去を、取り戻しようがないのに。
「……啓介、俺は」
「黙って」
「俺はお前を愛してる。昔も、今も。それでもお前が、我慢できないなら」
「出来るわけないだろ、くそ」
「外せよ、俺を。ハレムから」
「……」
思い掛けない台詞に一瞬、弟は目を見開く。
「で、自由になって、今度は何する気だよ」
「別に。お前の邪魔にならないように、するさ」
「言っておくけどあんたは俺の持ち物だぜ」
宗主の地位の継承とともに、後宮の女や皇子、宦官たちも所有『物』として譲渡される。生母以外の女は全て新しい主人のものになる。
「だから命が助かってるの、分かってる?」
「兄弟たち、もう殺したか?」
袖を纏わりつかせただけの艶姿で、語り合うには不似合いな話題だ。
「まだ。閉宮に集めてはいるけど。親父が不節操につくりまくった二十七人、墓の用意だけでも手間が掛かるよ」
悪ぶってうそぶく弟に、
「殺すの、やめないか」
緋色の袖で顔を拭いながら涼介は言った。
「首を切るのは後腐れないようでかえって面倒になる。生母や姉妹たちはハレムに居続けたり地方の豪族に嫁いだりするから。下手に恨みを買うと内乱の引き金になる。父上も」
「あの人の話はするなって言ったろう」
弟は凄んだ。涼介は一瞬、口を噤んだが。
「それで毒殺されかれたり地方にそむかれたり、ご苦労されて、後悔されていた」
早口で言い終わった瞬間、平手がとんでくる。
「言うこと聞けよ、あんたはッ」
「……心配なんだ。お前、急に宗主になったから。須藤は優秀だけど軍人で、内政のことはよく分から……」
「他の男の話、するなって言ってるだろうが」
怒声に涼介は肩を竦める。殴られることを怖がっているというより、激高が辛い。
だけど。
「最初に内政で下手をうつと、後々でたた……」
「うるせぇ口」
口付けで塞がれる。
「いいから脚、ひらけ」
それは厭なことではない。
愛した弟にひらいて、その熱を迎え入れるのは厭なことではない。ただ。
翌日、宵の時刻。
いつものようにやって来た宗主は豪奢な扉に、鍵がかかっているのに眉をひそめた。
「ンだよ、これは」
繊細な彫刻の施された扉を蹴る。
「ハレムに俺を拒める奴は居ないんだぜ」
「蹴るなよ、彫りがいたむ」
扉の向こうから、声。
「あんたなに考えてんの。そんなに苛められたいわけ?」
「話をしたいんだ。少しでいい」
「どーせろくでもない話だろ」
「ハレムを出たい」
「俺に抱かれるのそんなにイヤかよ」
「幸せだよ。宵のうちから朝まで一緒に居られるなんて、凄く幸せだ。でも」
「でたね。あんたの得意な、“でも”」
「それだけじゃ辛い」
「要するに、あんたはあれだろ。秘書みたいな役目につきたいんだ。親父にそうしてたみたいに」
「お前の役に立ちたい」
「俺それが嫌なんだよ。あんた親父の愛妾しながら俺と密通したろ。あれも秘書みたいにしてうろうろしてたからだ。べったりハレムに閉じ込めてりゃ、そんなことは出来ないだろ」
「俺が、誰と通じ合うって言うんだ。こんなにお前を好きなのに」
「……」
「信じられないか。俺がお前がはじめてじゃなかったから?」
「信じてない訳じゃないんだけどさ……」
強気だった弟の語尾がその時、初めて弱まった。
「不安なんだよ。あんた、綺麗過ぎる」
「なら手術、していいから」
「なんの」
「去勢。宦官にしていい」
涼介の、それは随分思い切った決意だったが。
「ふーん」
聞いた弟の声は不穏に掠れる。
「やっぱあんた、俺から逃げたいんじゃないの」
「ずっとお前のそばに居たいから」
「俺に抱かれるだけじゃイヤでさ、雄じゃなくなってもいいから秘書したいなんて」
「仕事がしたいんだ。お前が俺に飽きても、そばに居られるように」
「おかしいよ。そんなに権力が欲しいわけ。親父の隣であんたけっこう、実力者だったもんな」
無謀な反乱を起こした弟を勝ちに導けるほど。
「お前のそばに、居たいんだ」
「開けろよ」
最後通牒、という風に弟は扉を蹴る。
「自分で開けろ。今、宦官たち呼んだ。連中が来る前に開けないと、あんた罪人だぜ」
「分かってる。ハレムの決まりには、宗主になりたてのお前より俺が詳しいよ」
「そりゃそうさ。親父の愛妾してたんだもんな。どんな罰、くらうか分かってて俺を拒むわけ」
「お前を愛してるから」
「親父をそうしたことなんかいっぺんもなかったくせに」
「身体だけなのは、いやなんだ」
それから、互いに沈黙だけがおちて。
槌と斧で、無理に暴かれる扉。
中で静かに、美貌の愛妾は待っていた。
最愛の弟と、罰を。
「さて、どうしようか」
薄笑いを浮かべた弟が近づく。顎を掴まれ上向かされる。ちょうどいい位置だったから首を傾けて涼介は、キスしようとした。避けられた。
そんなことをしたらなし崩しに、許してしまいそうだったから。
「最初の躾けが肝心だもんな。で、規則どおりだと罰はどうなる?」
ハレムでもっとも地位の高い黒人宦官に尋ねる。
「は。後宮の広間で裸に剥いて、張り型と番わせることに」
「相変わらず悪趣味だな」
「ハレムの全員に見せしめのために見物させることになっています」
「お前ら喜ばすだけじゃねぇか。他は?」
「片脚を切り落として、棄市」
棄市、とは市街に追い出すこと。長い間、後宮という閉ざされた世界で生きていた女ならすぐに飢え死ぬ。主家から追い出された老使用人のように。が、
「ンな真似したら三秒で他の男に拾われちまう。罰にならねぇよ」
細かくケチをつけていく宗主は、涼介の謝罪と懇願を待っているように見えた。許して、助けて、と。
でも涼介は何も言わなかった。静かに弟を見ている。もしかしたらこれが、見納めになるかもしれない。
「壬宮での、幽閉」
黒人宦官は最後に告げてそれきり言葉を発しない。いかにもそれが妥当な罰だ、といいたげに。
涼介も何も言わなかった。顔色が少し青い。それでも、覚悟を決めた目をしている。
裁定を、宗主がしなければならなかった。
「連れて行け」
両腕と肩を捕らえられ引きずられるように歩きながら、暗い回廊の途中で涼介が足をとめ、振り向く。
「なんだよ」
つまらなそうに尋ねながら弟は、本当は待っていた。彼の口から助けてくれと。
「兄弟たちの、処刑は」
赦しを乞う言葉を。
「須藤とよく、話し合ってからきめろよ」
「……連れて行け」