海峡の東・5

 

 文化の断絶する狭間には、必ず戦火が生れ落ちる。

 キリスト教とイスラム教徒という、二つの世界でもそれは同じだった。

 航海術の進歩とともに隔ての海は狭まり、その分、異なる世界間での摩擦も増えて。

 互いの領地、声望、財物、歴史、聖地、そして商品としての人間を奪い合う戦いは、熾烈さを増していく。

 トルコ帝国の若い宗主が、正確には、その懐刀と噂される筆頭書記官が、ベネチアの回漕業者とそっと、会ったのはそんな時期だった。ベネチア領主がコンスタンチノプールへ向かって、十字軍という名の略奪部隊がやがて来ると、そんな噂が海に流れ出す頃。

 

 招き入れられたトルコの王宮を、男はゆっくりと見回す。年齢は四十代の半ば。ハンサムとか端整とか表現する種類の顔立ちではないが、尋常な目鼻立ちの中で細い、内心を窺わせない目が、一筋縄で背はいかない感じで妙に印象的でもある。

 宦官に案内されて導かれた王宮の奥深く。不必要なほど天井の高い部屋で、宗主の筆頭書記官は男を待っていた。天井に色ガラスが嵌め込まれた、採光のいい明るい部屋。その贅沢さに男は眉を寄せる。そして、贅沢な部屋にしっくりと馴染んだ書記官にも。

「初めまして、藤原文太さん……、ですね」 

 優しい澄んだ声だ。聞きしに勝る美貌の持ち主。しかしその目は聡明に澄んで、彼が只者でないことをどんな言葉より雄弁に証言している。

「お噂は、かねがね。お若い頃はこの国にも随分、立ち寄られたそうですね」

 彼は案内の宦官に目で合図して人払い。

「王宮に入ったのは初めてだがね」

 二人きりになった部屋で、椅子を勧められ男は遠慮せず座る。糸目の奥からじっと眺められても書記官は警戒しなかった。値踏みされるのには慣れている。それが顔立ちだったり肉体の形だったり、頭脳だったり唇から漏らす情報だったり、変化するだけ。

「年寄りたちが口を揃えて言いました。地中海とアフリカ航路を、誰よりも知り尽くしているのはあなただと。息子さんもたいした船乗りで、ベネチア領主と一緒にコンスタンチノプール会議に出席しているとか」

「単なるお供さ。荷物もち」

「ずいぶん謙遜されるんですね」

 答えず男は懐から何通かの手紙を取り出した。それは息子の拓海からで、もちろん、内容はごく事務的なもの。途中の寄港地で見かけた船の国籍、船主、そして名の知れた船長ならばその名前。

 一見すればなんということもない通知。しかし見るものが見れば……、分析力を持つ者が見れば、それは情報の宝庫となる。人が動くときにはまず物資が動く。そして物資は、船で動く。

 書記官は受け取り、引き出しから別の書類を出した。封筒から出した便箋とそれを見比べる。筆跡の確認か、と男は気づいた。なんと抜かりのない男。偽の情報を掴まされないために、どうやってか拓海の筆跡を手に入れていたのだろう。それをわざわざ、父親の前で確認するのは威嚇だ。

「確かに」

 言って、ぱさりと、書記官は男の前に別の書類を置く。イタリア語で記入されたリスト。

「ご希望のものです。前宗主の後宮に居た女、全員の出身地と本名、連れてこられたときの状況、年月日です。ただ行方不明の女も居ますので多少、漏れているのもあると思いますが」

 男はしかし、その書類には手を伸ばそうとしない。じっと、書記官を眺めている。

「なにか?」

「あんた、お袋さん、なんて名前だ?」

「……」

 答えず書記官は男を見かえした。男の視線の意味にようやく、気がついて。

「俺は女を捜してる」

「お聞きしました」

「あんたにそっくりの女だ。多分、あんたのお袋だ」

「偶然ですね、それは。母のお知り合いですか」

 そこで一度、目を瞑り。

「母に話しておきますよ。どんなご関係で?」

「お袋さんの名前は?」

 答えた彼の口元を、男はじっと見詰めている。それは、違う名前だった。

「外国の女は後宮に入ると名を変える慣わしなので」

「お袋さん、今年で幾つだったかな」

「さぁ。女の歳は尋ねないのがこちらの習慣でして」 

「あんた、父親は?」

「それは秘密です」

「すっきりしねぇ物言いだな。……死んだのか、あの女」

 心の中で彼は、チッと舌打ち。見た目以上に鋭い男のようだ。女を捜しているというから、これは便利な手づると思ったのに。今回限りではなくて永続的に情報を得るつもりだった。その為ならば後宮の女など、何人譲ってやってもいいつもりで。

「代わりに似た東洋の女をいかがです。綺麗なのがいますよ」

「おいおい。俺に美人局する気かい」

「見てみませんか。お好みを今夜、何人でも」

「他ならともかくそのツラで、俺に女をすすめないでくれや」

 男が手を伸ばしてくる。笑みを崩さず、それでも彼はその手を避けた。

 母親の話をされるのは嫌いだった。顔が似てると言われるのはもっとだ。

「あんたのお袋を東の街から、ここに連れてきたのは俺だよ」

「なるほど。げぜんもしておられたのですね」

 美人局、といわれたことへの報復の言葉だった。さらにその返礼は、

「……」

 きつい口付け。逃れられなかった。男の手はみかけからは信じられないほどの力で。

「連れ出したのは否定しねぇが、誘拐じゃねぇ。駆け落ちだ。この世で一人だけ、俺の方から愛した女さ」

 彼の美貌がみるみる強張る。嫌な言葉だった。彼にとってはこの世で一番、厭わしい。

「あんたの親父に横取りされたがな」

「乗り換えられる程度の駆け落ちじゃ、たかが知れ」

「シッ」

 耳元で囁かれる。黙れ、と。

「なに……」

「シーッ。聞こえるとあんた困るんだろ?」

 逃げようとした。抵抗しようと。けれど。

 逃れられなかった。

 

 極秘の相手と会談中と言われ、京一は大人しく面会の順番を待った。コンスタンチノプールに潜ませたスパイからの知らせは色よいものではない。大船団を率いるベネチアが東ローマの後押しをする気になっているらしい。もしもそうなら、大変なことになる。

 切れ者の秘書官の会談もおそらく、それが目的なのだろう。

「将軍、お待たせいたしました」

 会談が終わったからと呼ばれて執務室へ。途中で男とすれ違う。中肉中背で細目以外、これといって目立つ外見の無い男。しかし広い回廊のあっちとこっちですれ違った瞬間に、ピリッと皮膚をさす刺激があった。強い雄に独特の気配を、男は静かな顔つきの下に纏っていた。

 只者ではない。もっとも只者が、わざわざ呼ばれることは無い。

執務室の前で咳払いをする。返事は無い。が、待てとも言われなかったので扉を押し開ける。

「元気かい、別嬪さん」

 地下牢で『拾い』そこねて以来、須藤は彼をそう呼んでいる。啓介は最初は嫌な顔をしたが、確かにその人、すっげー別嬪だもんなと呼び名に同意した。本人は、聞き流している。

 広い部屋の何処にも姿が見えなくて須藤は眉を寄せる。大きな執務机の向こう側に蹲っているのを見つけて眉を寄せる。びくッと見上げる目が潤んで、服が乱れているのに気づいたとき、

「……あんた」

 そこで何が起こったのかを正確に、須藤京一は察した。

咄嗟に顔を背ける彼の、襟首を掴む。宗主の愛妾に対する態度ではなかったが、腹が立ったのだ。

目の前が真紅に染まるほど。

「なにやってんだ、あんたはッ」

「大きな声を、出さないで、くれ」

 返事が掠れているのを聞いてますます、須藤は襟を締め付ける手の力を強くする。

「確かにうちは今、ヤバくない訳じゃねぇがな、天下のトルコ大帝国の筆頭書記官に」

「須藤京一、頼む」

「身売りさせるほどじゃねぇぞ。あんたはもう、正式な官僚だ。前の時とは違う。妙な噂がたってみろ、うちのメンツ丸つぶれに、」

「啓介には、言わないでくれ」

「啓介だってこんな事知ったら、喜びゃしねぇぞ。分かってるだろうが」

 容赦のない非難に、

「俺の意思じゃない」

 彼が思わず、漏らした細い叫び。

「なに……?」

 須藤の眉が顰められる。瞳が一瞬、酷薄な光を帯びる。それは目の前の麗人に向けられたものではなくて。

「無理にされたのかよ」

 俯き唇を震わせながら彼はかすかに頷く。無言で刀の柄に手を掛け須藤は立ち上がる。王宮内で帯刀を許されたたった一人の男。その裾にすがるように、彼は手を伸ばし、止めた。

「ヤメ、」

「待ってろ。すぐに済ませる」

 しれっとした顔で自分とすれ違った異国人。

「すぐだ」

 女の受けた恥辱は血で漱がれる。イスラムの女に強いた男は、女の身内から仇として付け狙われることを覚悟しなければならない。

「止めろ、やめてくれ、須藤。啓介に……、バレる」

「泣き寝入りする気かよ、あんた」

 須藤京一と涼介の間に直接のつながりはない。が、涼介の『主人』である啓介とは従兄で、その意味で涼介が京一の身内の女でないとは言えない。

「知られたくないんだ。頼む」

 京一は返事をしなかった。身内の女に勝手に触れられるのはイスラムの男にとって死に勝るほどの恥辱。だからこそ、男たちは女を後宮に囲い込み庇護して贅沢させている。その裏側で女同士の確執は凄まじいが、男には男で、誇りと意地と見栄、男である事実そのものがかかっている。

「たのむ、から」

 俯いていた美貌が京一を見上げる。脅えた表情。華奢だがしたたかな肢体が震えているのは、どうして?

「あんた……」

そんなに好きなのか、あのガキを。帝国全土を巻き込んだ戦乱を、指先口先できりきりまいさせたあんたが、泣きそうになるほど。

「知られたら、生きていけない。……頼む」

いまさら、かもしれないけれど、これ以上、別の男の指痕がついたってバレたくない。一つのほころびから過去の傷を思い返され、責められるのは、ともかく。

軽蔑されたり、罵られたり、したらもう、たぶん息が止まる。

「なんでも、する」

 呟いて彼は京一の脚に腕を伸ばす。足の甲に触れようとする。誓いの仕草だ。その指先が固い軍靴に触れる寸前、京一は人差し指と中指をまとめて掴んで、引き上げた。

 上向く顔に目線を合わせたまま背中を抱く。地下牢で抱き上げたときよりは肉付きがいいがそれでも、頼りないほど細い。胸元の位置に抱いて、指をつかまれたせいで肘まで袖の下がった白い腕の内側に京一が、顔を伏せると。

「……ッ」

 生娘のように竦んだ。白く湿ってきめの細かな、柔肌に唇で触れられて。

「許しがたいが」

 触れたのは一瞬だけ。すぐに開放してやる。机の向こう側に逃げ込む彼を、追いはしなかった。

「あんたがそうして欲しい欲しいなら気づかなかったことにする。ただ、報復はしていいな?啓介にバレなきゃいいんだろ?」

 京一の落ち着いた物言いに安心したのか、涼介は頷いた。京一は机の上に手を伸ばし、インク壷に指を突っ込む。彼が何をするつもりなのかわからないままの涼介を置いて、

「おい、すまんが布を絞って持ってきてくれ」

 扉を身体の幅だけ開け、廊下に待機していた宦官に告げる。

「派手にやっちまった」

 汚れた指を見せると宦官はおやという顔で、いますぐお持ちしますと頷いた。

「お拭きいたしましょうか」

「いや。秘密の書き物でな」

「あ、はい。失礼しました」

渡された濡らして絞った柔らかな布を京一は涼介に差し出し、そのまま部屋の隅へ行く。机の陰で涼介は身体の始末をした。

 拭った布に京一はインクを派手に撒く。その頃には涼介にも理解できていた。頑丈な体躯のこの軍人が自分を庇おうとしていること。

「どう、して」

 肘に一瞬だけ押し当てられた唇の、乾いて荒れた感触が蘇る。でもこの軍人はそれ以上を仕掛けようとはしなかった。口止めに彼をむさぼるつもりなら、それこそ身体を拭う前に仕掛けてくる筈だ。

「俺がおかしいんじゃねぇ」

 何故か腹立たしげに、京一は涼介の方を見ず言った。

「俺以外の連中が恩知らずなだけだ。あんたにゃ何度も命を助けられたからな」

 義理堅い口調だった。

 

 その日の夕方。

 呼ばれて出向いた宗主の執務室には、寵愛する美貌の筆頭書記官も同席していた。

 面倒そうに決済の署名をする歳若い宗主を宥め、いちいち、内容を飲み込ませる。優しくて我慢強い、愛情のこもった口調。それさえうざったい、という風に宗主は、書類を置いて従兄に向き直る。

「コンスタンチノプールに行くんだって?俺も連れて行けよ」

 人数を絞って敵情視察に向かうのに、そんな風に気楽に言われてムッとした。この従弟が無邪気で野放図なのはいつものことなのに。

「無理言って困らせるなよ、啓介」

 咎めるふりをして優しい口調が京一に助け舟を出す。

「お前は宗主だ。お前が出たら決戦になっちまう」

「つまんねーの。俺もいっぺん見てみたいな。ギリシャ・ローマ時代の化石をサ」

「見れるさ。ただしお前が見るときは、コンスタンチノプールの主人としてだ」

 なんて気楽な会話だ。ヨーロッパ連合の十字軍を迎え撃たなければならないかもしれない、こんなヤバイ状況でよく、逆征服の話なんか出来るな。更に頭に来るのは啓介と離す涼介の優しい表情。現在の窮地を分かっていない筈はないのに、こいつはあくまでも啓介を庇うつもりなのだ。

 腹が立った。何にか、誰にか、それは考えないことにした。

 型どおりの出立の挨拶。従弟の気楽な見送りと、書記官の常よりさらに丁寧な会釈を受けて執務室を出る。大股で京一は、京一自身が最高指示支持者である軍務を司る武尚台へ戻る。

「将軍、コンスタンチノプール市街地図、詳しいのが届いています」

「ベネチア領主の宿舎、さぐりだせました」

「同行は娘と、娘婿候補三人のようです」

「見せろ」

同行者名簿を受け取った京一は頑丈そうな口元をにやりとゆがめた。

「藤原拓海」

「は?」

「狙うぞ。最悪、獲物はそれだけでもいい」

「……、はぁ」

 どうしてこんな一介の回漕商の息子を、と部下は思ったが質問はしなかった。何か考えがあるのだろう。無愛想で口数の少ない京一だが、部下からは全面的な信頼を得ている。

「愉しい旅になりそうだぜ」

胸の奥で蠢く、暗く湿った感情を持て余し苛ついていた。

そうやくやつ当たりする相手をみつけた歓びに京一は、凶悪なほどの酷薄さで微笑む。

 

「あにき、アニキィ」

 後宮のハレムではない。宗主の執務室と続きの寝室で。

「ん……」

 快い疲労に弛緩しながら涼介は、それでも甘えてくる弟の髪を撫でてやり、唇にキス。

「俺のこと好きか?」

「大好きだよ」

「京一よりも、俺がいい男だよな」

「なんで、いきなりそんなこと」

「京一があんたをスキみたいだから。あいつ昔っから、スッゲー面食いなんだよ。あんた見せるのヤバイって前から思ってたし」

「お前、自覚が足りないぞ、啓介」

「え?」

「お前はもう宗主なんだから。俺は宗主の持ち物だ。俺に手を出せば、即座に」

 斬首、晒し首。

「分かるかよ。あんたみたいな美人なら、男に簡単に命ぐらい、賭けさせられる」

 俺みたいにと、そこまでは啓介も言わなかった。言えばこの人の過去の傷に触れる。

 絶対君主の寵愛する相手とかつて、密通したのは啓介自身。この人に触れるためなら危険も厭わなかった。命をかけて後悔はなかった。

「お前がバレなかったのは俺が庇ってたからさ。俺は、お前を好きだったから」

「過去形かよ」

「今も愛しているぜ。安心しろよ、啓介」

 ちゅっと、わざと音をたてて優しいキス。

「須藤京一よりも、お前がいい男だぜ」

 優しく笑う美貌に誘われて、啓介はかけ布を剥ぎ取った。今夜、すでに何度も開かせた膝に手を掛ける。吐息を漏らしながら涼介は、それでもそっと、膝を開いていく。

「スゲェ、綺麗なイロ」

 感嘆の声とともに触れてくる唇。あ、と、即座に涼介は背中をそらせる。余韻の醒めきらない体に急激に熱が宿っていく。

「アン……、ッン」

 焦らされて腰をよじる。蜜がたまってゆく。別の場所にも、焦らされて、熱が。

導きいれたくって肩に手を掛けてせがむ。

「せっかちだな。ちょっと、待てって」

長く愉しみたいらしい啓介は涼介の腕を掴み、内側に口付けてなだめた。

「ンーッ」

 それがかえって感覚を抉ったらしい。涼介は顎を上げ、たまらないように喘ぐ。甘い吐息が啓介の鼓膜に心地よく響く。

「スキだぜ……」

 囁き、腕を掴んだ手を離し、胸の突起を擦りあげる。悲鳴に近い声をあげのけぞる。その姿勢は白い胸元を、もっと弄れと差し出すようにも見える。

「なんか今日、積極的じゃねぇ?」

 からかい混じりに囁かれドキッとした。いつもと同じように、昼間あった出来事を意識するまいと、極力、自然に振舞ったつもりだったのに、何処かがやはり、違っていただろうか。

「アニキ?」

「イヤ、か?こんなのは」

「全然、嬉しいよ。俺だってたまには欲しがられたいし」

「いつも欲しいさ、お前のことは」

 優しい睦言を交換して、互いの囁く声音にのって頂点へ駆け上がる。

 

夜が、更けてゆく。

夜明けはまだ遥か遠くにある。