海峡の東・6

 

 素晴らしい捕虜を土産に須藤京一が威嚇偵察から戻ったとき、新宗主の宮廷はそれどころではなかった。

 京一は奥宮に入ったまま出てこず、捕虜の二人は長いこと待たされた。

 天上の高い明るい部屋で。中庭にはチューリップが咲き誇り、爽やかな風が吹きすぎていく。まだ歳若い少女は明るい日差しに似合わない脅えを見せて時々涙を浮かべている。青年は少女の方を見ようともせず、不機嫌そうに庭を眺めている。

 俯いていた少女がやがて、勇気を振り絞ったように、

「……タクミくん」

 青年に話し掛ける。しかし返事はない。少女は瞳をうるませて俯いた。膝の上で握り締めた手の甲に、ぽつりと涙が、落ちた。

 部屋には見張りを兼ねて宦官が数人。去勢された男子であり後宮その他に仕える事を職務とする彼らには独特の優しさがある。ぼそぼそ話し合っていたが、やがて、運ばれてきたのは香り高いお茶とクッキー。二人の間にカップを置いて、少女に食べろと、身振りですすめる。恐る恐る、という風に少女は手を伸ばし口に運ぶ。ナッツや乾燥した果物を練りこんだ甘い菓子を齧った瞬間、少しだけ少女は微笑んだ。わらうとあどけない、可愛い顔になる少女だった。

 青年はそれでも、頑なに少女から目をそらし続けた。

 

 宗主と側近筆頭が怒鳴りあっている、と聞いて京一は急いで執務室へ向かった。

 そうして他の誰にも出来ない事をする。ノックなしで執務室の扉を開けた。

開けた瞬間に後悔した。宗主はともかく、美人さんの返事は待てば良かったと思った。彼の目に映ったのは分厚い絨毯の上に押し伏せられている麗人と、その上に被さってこっちを睨む従兄弟。

「……失礼」

 言って扉を閉める。不可抗力だぜと誰にともなく呟く。濡れ場を覗く趣味はない。あれは、見るものではなくてやるものだ。

 暫くして、

「お待たせしました将軍。どうぞ」

 扉の隙間から微笑む美貌に顔が上げられなかったのは、なぜか京一の方。

 何を揉めていたのかと尋ねると、

「後宮のことです」

「ハレムの女だよ」

 二人、同時に答えが返ってくる。

「この人が増やすとか言うんだもんよ」

「各地の領主から娘を容れるのは代々の義務だ」

「そんなので地方の反乱、予防できたのは百年前までだぜ。今じゃムコなんか簡単に攻め込む」

「馬鹿。後宮の産出物がどれだけの金額になると思う」

「俺はそんな話をしているんじゃないの。大体、あんたが俺に女すすめるのってどーかと思う。げぜんじゃあるまいし」

「お前こそ少しは自覚を持て。もう部屋住みの御曹司じゃないんだぞ」

「ストップ。分かった。その話はこっちに置いといて、俺の報告を聞いてくれるか」

 エキサイトしかけていた二人はそこで、ようやく京一が偵察帰りだったことを気づいた。

「申し訳ありません将軍、おもどり早々に」

「お疲れ。なんか面白いことあったか?」

「まぁまぁだったぜ。土産もあるし。二人とも、多分喜んでくれんじゃねぇかな」

 宦官に合図して連れてこさせる。若い男女の二人組み。少女は脅えて俯き、青年はふてぶてしく三人を見返した。

「情報漏れるのがマズかったから知らせられなかったんだがな。女の方は啓介に」

「俺、今、女要らないけどな」

「貰っとけ。身代金ががっぽりだぜ。ベネチア領主の娘だ」

「マジかよ……」

「男の方は美人さんに」

「おい。俺の愛人に男取り持つなんざいい度胸じゃねーか」

「ベネチアの回漕業者の一人息子だぜ。ほら、この間、ここに来てたナントカってヤツの」

 涼介の顔色が変わる。唇が微妙に動いたのは屈辱の記憶を思い出したからか。

「人質にして色々、尋問できるだろ?情報取るのはあんたが適任だ」

 涼介は唇の端で笑う。そうして視線を青年に向けた。

「名前は?」

 筈かな声だった。が、逆らう事を許さない口調だった。

「……藤原、拓海」

「父親は藤原文太で間違いはないかい?」

 言葉にはせずに頷く。涼介は京一に向き直り、

「とても嬉しいよ。どうもありがとう」

 滅多に見せない、輝くような笑顔。

 

 その日は客として、二人は扱われ、翌日から別々の部屋に抑留された。少女は啓介のハレムの一室に。そして藤原拓海は、筆頭書記官の執務室に。

手首を縛られて座らされた椅子。ばらっと机の上に投げ出された書簡。それが自分の報告書なのを見て、拓海は眉を寄せる。

「父上と先日、ちょっとした取引をしてね」

「……オレ、オヤジとは関係ない……、ですよ」

 ついつい敬語を使ってしまうのは男のサガ。目の前の相手があんまり綺麗だから。男なのは見れば分かるけど、それにしても綺麗な人。色白といってもベネチアの貴婦人たちのように、白く塗った白さではない。東方産の白綾の絹に透明の膜が一枚かかったような、そんなきめ。みとれていたら、

「いくつか聞きたい事があるんだ。答えてくれたら、彼女に会わせる」

「彼女って、なつきのことですか」

「そんな名前なのか。ベネチア領主令嬢は。君の婚約者だろう?」

「止めて下さい」

 その語調のキツさに涼介は、おや、という顔をする。

「止めて下さい。あんな女、婚約者でもなんでもないです」

「……へぇ。だが攫われたのに気づいて、単身、追いかけてきたんだろう?」

情熱的じゃあないかと笑われる。誘導尋問と気づいたが止まらなかった。そんなんじゃないと、拓海は頭を大きく横に振る。

「オレ、彼女のお供だったから義務で、取り戻そうとしただけ……、です。オレしか追いつきそうなヤツ居なかったし。仲間も一緒だったけど、あんたのところのあの男が、オレとなつき以外は途中の港で降ろしたから、仕方なく二人だけだっただけ」

 貴重すぎる捕虜の噂が広まれば寄港地で狙われる可能性がある。秘密を守るには人数を絞るのが一番いい。京一はそのあたり、そつのない男だ。

「心配じゃないのか彼女が。誰も知らない場所で、一人で居るのに」

「別に、心配なことはないですよ。だって、あいつ、もう」

 キリッと拓海は唇を噛む。若い頬に、年齢相応の潔癖さが浮かぶ。

「彼女がどうかしたのかい?」

 涼介の声は透明で、しなやかで、誘惑に満ちていた。言ってしまえ、という誘惑。胸に詰まって苦しい言葉を口にして、楽になってしまえ、という。

「寝てたんですよ。父親と」

 ピクッと、涼介の眉が寄る。顕著な反応に拓海の唇は、流れるように言葉を告げていく。

「養女ってことは知ってたけど、でも一応は親子でしょう。その上、あの領主、オレになつきを押し付けようとして」

「確かなのか」

「オレ、二人が裸でベッドに居るのを見ました」

 その言葉を聞いた瞬間、涼介は目を伏せた。もしもそれが本当なら……。

 ベネチア領主のたいへんな弱みを、彼は握ったことになる。世間に知れれば領主の社会的生命は終わる。舌なめずりをしたいような気分は、

「キタネェ……」

 拓海の呟きに中断された。

「あんな女、どーなったって、知ったことじゃないですよ」

「まだ歳若い少女なのに?君以外には頼る人も居ないのに?」

「頼られる筋合いはないですね」

「私はキリスト教国の習慣をよく知らないが、それで君の騎士道はたつのかな」

「それは穢れのない処女か貞淑な人妻に発揮されるものです」

 藤原拓海はせせら笑う。それは、苦しさの裏返しだった。

 愛していたとまでは言わない。けれど彼女をけっこう、スキ、ではあったから。彼女の方もたくみに向けては、他の花婿候補とはちがう笑顔を見せていた。コンスタンティのプールまでの航海の途中で隠れてキスはした。婿入りしてもいいなとぼんやり、思っていたのに、あどけない笑顔の少女はしかし、養父と……。

 なんとも思っていない女なら、ここまでキタナイとは思わなかったろう。肌の粟立つほどの嫌悪は裏切られた憤りでもある。よくもまぁ、あんな中年男に足を開いた。

「それはでも、彼女の意志だったのかな」

 涼介の台詞は誘導尋問が半分。汚らわしいと言われた少女をなぜか、庇ってやりたい気持ちがもう半分。

「死んだ方がマシですけどね、オレなら」

「そう簡単に死ねないよ、人間は」

「ヤなヤツにやられるくらいなら舌ぐらい噛めるでしょ」

「……試してみるかい?」

 え、と問い掛ける間もなかった。

 間近に迫った美貌に見惚れる暇さえ。

 何が起こっているのか理解しないうちに、拓海は仰向けに床に寝ていた。横に椅子が転がる。そうして上に、被さってくる体。

「な、なに、するんですか」

「試してみようと思って」

 真上でこぼれた前髪をかきあげる、悪夢のような美貌。

「君が死ねるかどうか」

「え……」

「ムリにヤられるくらいなら舌を噛めるんだろう?」

 噛んでごらん、ほらと言いながら美貌の男は拓海の服の、裾に手を入れた。咄嗟に逃れようとするが手を縛られた上に腰に乗られた体勢で、勝負ははじめから決まっていた。

「ナニしやがる、キチガイッ」

「俺もそう叫びたかったよ。……君の父上に」

 なんのことだか分からずに目を見開く拓海。

「レイプされたのさ。この部屋で、君の父上に。ついこの間だ。だから復讐に、京一はオレに君をくれたのさ」

「……関係ねぇって言ったろ、親父とは」

「そう。それとは無関係の話にしてもいい。君に彼女を庇う義務があるか、ないか」

 急所をつかまれ、拓海は息を飲む。船乗りをしていれば長い航海のうちに、そんな対象にされることもある。が、拓海はその技量と、領主の婿養子候補ということが幸いして、実際の被害にあったことはなかった。

「無理強いされるくらいなら死ねって君は言うが」

「よせよ、おいッ」

「出来るかどうか、試してみよう」

「あんたには関係ないだろッ」

「……あるんだ」

 とても、興味が、ある。

「キスはしないから、好きなときに噛み切っていいぜ」

 言いながら本当に、洒落にならない事をしようとした時。

「おーい、美人さん。はかどってるかい?」

 緊張した場面に似合わない声がして、部屋の扉を開けたのは須藤京一。

「啓介が茶を飲もうって言ってんだが、出てこれるかい?」

 明らかな濡れ場に微動もせずに、告げる。涼介は瞬き、身体の下に敷いた拓海に向かって……、笑った。

 翳りのない微笑だった。京一の声以上に、場に似合わない、優しいあでやかさで。

「続きは、戻ってきてから」

 おそろしい言葉と共に、身体を離す。重さが退いても起き上がることも出来ず、拓海は暫く、床で強張っていた。

 

「覗き癖がついたのかな、将軍?」

 宗主専用の食堂に向かいながら、回廊の途中で涼介は話し掛けれる。

「昨日のは偶然だぜ。さっきはまぁ、狙って邪魔したがな」

「いいところだったのに」

「小姓が欲しいなら別口にしてくれ。もっと若くて可愛いの連れてきてやるから」

 あいつは困る。啓介に釘をさされていると、京一。

「無茶苦茶に意識してやがる。あんたが珍しく気にしてるからだがな。この間まで俺を警戒していたくせに、今度は俺にあんたを見張らせるくらいだ」

「ちょっと腹が立つことがあったんだ」

 その言葉をどういう意味に取ったのか京一は、

「邪魔して悪かったな」

 さっきまでとは違うことを言い出す。

「いいや。本当は有難かった。お陰で頭が冷えたよ」

 俺も彼もと、つけ加える。

「将軍がせっかく捕まえてきた手駒だ。有意義に使わせてもらう」

「好きにしてくれ。半分は偶然ってぇか、瓢箪から駒って感じだった」

「そういえば聞いていなかったな。どうやって捕らえたんだ?」

「智謀を尽くして、とか言ってみてぇがな。娘がなんか、数少ないお供だけで飛び出したんだ、滞在先を。そこをさらったら男がついてきた。要するにそれだけだ」

 藤原拓海の証言と重なった。

「実際に見て、どう思った?将軍は」

「はっきりいってあの国は左前だ。キリスト教国同士の抗争が激しくって、連帯がとれないから大した援助も来ない。ただ、制圧するとするといくつか難問がある」

 京一の言葉を涼介は興味深そうに聞く。戦略家、という意味でこの二人は近い。涼介は政治家、京一は軍人という専門分野の違いはあるが、政治と関係のない戦争も、戦争なしの政治も有り得ない。

「内陸には三重の城壁がある。中心で高さ4メートル、厚さ4メートル。その間には20メートルの尖塔が九十六本」

「兵糧攻めは出来ないか?」

 守備力の高い城砦に対する常套手段だ。

「どうかな。海に向かった海岸線が入り組んでる上に、長い。完全封鎖はムリだ。ただ、同時にそれがつけこむ弱みにもなる。あの海岸線を防衛する守備力は、あの街にはなかろうよ」

 

 二人がそんなことを 話し合っている頃、ベネチアでは。

 

「文太、文太、大変だ、拓海がさらわれたっ」

 知らせを受けて駆け込んできた旧友に、帳簿をつけていた藤原文太は顔を上げた。

「領主令嬢を庇って、一緒にトルコの将軍にさらわれちまったとさ。途中で開放された池谷ってのが今、港について、町は大騒ぎだぜ」

「……トルコに?」

 そりぁあ、マズイなと文太は呟く。

「切り落とされちまうかもな……」

「え?」