海峡の東・7

 

 腹違いの兄、父親の愛妾、側近筆頭、そして今では最愛の……。

 彼に倒れられたとき、宗主は怒り狂った。それで、普通の病ではないことが分かった。さらに懐刀と目されていた須藤将軍が不興を得て宮廷から遠ざけられたという、その事実で、彼におそらくは毒を、盛った犯人はわかった。

 激怒した宗主が、それでいて犯人を探索しようともしない、理由も。

 須藤京一、宗主の、母方の従兄弟。それが遠ざけられたとなれば犯人は……。

 

 彼が意識の混濁からようやく、目覚めたのは、三日後。

 泣きはらした宗主の顔がすぐそばにあった。

 泣くなよと言おうとして、でも、声が出ないことに気づく。仕方がなくて、笑った。抱き起こされて差し出される杯に唇をつける。飲み下す力がなくて、唇から溢れる。

 宗主は杯の中身を口に含んだ。蜂蜜とレモンを混ぜて湯で割ったのみものを、一滴ずつ滴らせるように、彼の口内に落としていく。眼を細め彼は受け入れた。飲み込む事が出来なくても、粘膜を伝って自然に、液体は嚥下できた。一握りくらいの杯に二杯、あまい蜜をすするとようやく、身体が覚醒していく。

蜜をこぼした胸元が丁寧に拭われる。髪がすかれて、触れるだけのくちづけ。優しい力強い腕に抱かれながらうっとり、彼は目を細める。

 戻って来れるとは、思わなかった。

 無用心だった。それは確かだ。忙しさに紛れて毒見を怠った。厨房から続きの食卓ではなくて、執務室に食事を運ばせた。途中で多分、仕込まれた毒は、砒素。口の中が痺れて吐き気がして、絨毯に倒れたときには既に覚悟をした。近くに居た秘書に宗主への遺言を、伝える事が精一杯だった。母親を罰するな、と。

 有名な話だ。前宗主の正妻、現宗主の母親が策謀とともに毒殺が得意であるということ。夫の子を孕んだ競争相手を何人も、毒で殺した。しまいには夫まで用心して、決して彼女とは食卓をともにしなかったという。そうやって守った地位であり、守った息子だった。その息子が蜂起して宗主の地位に就いて、そして。

 もっとも信任され寵愛されているのが、かつて自分が葬った女の産んだ人間だということに、彼女は耐えられなかった。嫉妬と、身の危険を感じた危機感が彼女に毒をもらせたのだろう。母親をかつて彼女に殺された涼介が、啓介からの寵愛を楯に復讐を画策することは自然な発想だった。涼介にそんなつもりは少しもなかったけれど、彼の諦念と混ざった淡白さを理解するには、彼女はバイタリティー溢れる女だった。

「……死んじまうかと、思ったよ」

 頬を摺り寄せられる。涙声とともに。馬鹿だなと、涼介は、返事が出来なかった。咽喉が、痛い。力のぬけた身体はまだ自由には動かず、頭を撫でてやることさえ出来ない。

「あんたに死なれたら、死なせちまったら、後を追おうと思ってた」

 馬鹿。そんなことは考えるなと、せめて笑おうとした。ダメだった。毒との戦いに体力を使い果たした身体はもう一度、眠りの沼に吸い込まれてしまう。

「……アニキ?」

 腕の中で力を失った身体に不審そうな、問いかけ。

「お休みになったようです。どうぞそのまま、ご安静に」

 医師らしい落ち着いた声が若い宗主の動揺を押さえる。

「もう大丈夫です。ご安心ください」

 そっと寝台に戻される身体。その後も宗主は病室を動かず、彼を護るように付き添い続けた。

 

 一方、須藤京一。

 宮廷内に拝領した館に滞在することさえ遠慮して、市街地の、なじみの商人の別宅に居た。近くには父親の住いもあったが、連合する意思のないことを示す恭順。朝から晩まで、王宮から届けさせる書類を決裁してゆく仕事ぶりに商人は感心した。そして。

 宗主の愛人の、生命が助かったという知らせを告げたとき、

「……そうか」

 京一は笑った。商人は驚いた。強面で無愛想でしられたこの男とは思えない、見たこともないような、明るい笑みだった。

 

 毒殺事件の余波は思わぬ人間に思わぬ運命をもたらす。

ベネチア領主の娘は遠く東洋に住むという海ウサギの角と引き換えに、ベネチア商人に引き渡されることになった。最初、娘はどうしても一人では戻らない、と言い張った。

「拓海くんは?拓海くんと一緒じゃなけりゃ、あたし戻らないから」

 迎えに来た商人は困り果てた。手持ちの海うさぎの角は、一人分の身代金にしかならないのだと説明すると、

「じゃあ拓海くんを助けて。あたしのせいで迷惑かけたんだもの、拓海くんを、先に助けてよ」

 説得しあぐねた商人の懇願で、藤原拓海が彼らのもとへ呼ばれる。相変わらずの亡羊とした顔つきは、敵地に人質として抑留されている現在も変わらない。拓海くん、と叫ぶ娘の方は正視しないまま、

「先、帰ってろよ」

 それでもキチンと、言うべきことは、言った。

「そんなコト、できないよ。こうなったのはなつきのせいなんだから」

「まあ、そうだけどよ」

 藤原拓海の口調は苦い。父親と寝台の中に居たのを見られたなつきが滞在先を飛び出して、見張っていた須藤恭一の部下に捕らえられた。それがそもそもの、原因。

「けどお前、女だし。先に帰ってろ」

「だって……、でも」

「お前をここに置いて、俺一人が戻るわけにゃいかないんだ。分かるだろ」

「だったらなつきも残る。拓海くんと居る」

「あのな」

 藤原拓海が、ようやく娘の方を向く。

「足手まといだ。邪魔なんだよ。逃げるにしても俺一人ならなんとかなっても、女連れじゃ、逃げるに逃げられない」

 宦官たちが聞いている前で堂々とそう言われ、宦官も商人も苦笑。拓海もつられて笑い、ついでに彼女に手を伸ばす。髪をくしゃっ掻き上げて。

あれ以来、拓海が彼女にさわるのは初めてだった。

「……気をつけてな」

「うん。拓海くん、なにか伝言、ある?」

「別に。元気って、それだけ」

「分かった」

 商人に連れられて娘は出て行く。やれやれと、思った。いろいろあった相手だが、捕まっているよりは自由になってくれた方がいい。……それに。

 藤原拓海は、まだここから、逃れたくない訳があった。

 

 腰の抜けそうな麗人にレイプされかけて。しかし、彼は戻ってきたとき、

『悪かったな。冗談だ』

 そう言って笑った。びびる拓海を宥めるように。そして尋問を続けた。優しい、柔らかな声で。睫の長い横顔には、さっきまでの静かな怒りとはまた違う、悲しみの気配が沈んでいて、それを見たときに拓海は、自分が彼を傷つけてしまったことを、知った。

 それから会話というほどの言葉は交わさなかった。けれども拓海は彼の、悲しみが気になってずっと考えた。何が、どんな言葉が彼のあの、白い美貌を翳らせてしまったのか。

 父親とセックスしてたこと?

 怒ったのは、自分が、嫌な奴とセックスするぐらいなら舌を噛んで死ねるだろうと言ったときだった。あの時は本気で、真剣に、怒っていた。

 あぁ、それとオヤジのこと……。

 それを考えると拓海はがっくり落ち込んでしまう。あの父親の手癖腰クセが悪いのは重々、知っていた。亡羊とした雰囲気で実際は、美味な果肉には残さず食いついていることも、よぉく知っている。親子だけあって自分にも、少しその傾向は、ある。

 しかし。

 何も、こんな所のあんな人にまで、手を伸ばしていなくっても良さそうなものだ。こんな異国の王宮の、奥深くにそっと隠されている綺麗な白い花にまで、しっかり指跡つけてなくっても。息子の俺がこんなに気になる人にまで。

 そう、あの綺麗な、人は。

 二代にわたるトルコ宗主の愛人で……、父親がレイプ、した相手。

 そんな人のがどうしてか、気になって仕方がない。

 まさか恋とかじゃないよな、と思った。

 まさかと自分に、何度もそう、言い聞かせた。

 冗談じゃないぜ、あのオヤジと……、女の趣味は、そりゃ似てるけど。

 こんなのは、冗談じゃないぜ、と。

 

 その頃、藤原拓海の胸を騒がせる麗人は。

「あんた、また……」

 弟で情人で、主君でもある男に怒られていた。安静を言い渡されながら、隠れて仕事をしていたのが、見つかってしまったのだ。

銀の大きな盆を宗主は、自身が持って涼介の寝室にやって来た。咄嗟に枕の下に押し込もうとした書類の束がばらけて、床に落ちる。

「こんなのしちゃダメって言ったろ。今は猫の頭でも撫でて過ごしてろよ」

 そのためによく躾けられた銀色の高価なシャム猫が、涼介のベッドの裾にいついている。

「まぁ、説教はあとにして、昼飯だよ」

 銀の盆の上には、銀の食器と銀のスプーン。消化のいい柔らかな煮込み料理が中心の、昼食。砒素に触れると変色する銀ずくめの器に入れて、厨房から直接、宗主が持って来る食事。宦官が茶を淹れる。それすら宦官にまず一杯を飲ませ、暫くしてから同じ茶碗に、今度は宗主が注いで出渡す。神経質すぎるほどの警戒。あんなことがあったあとだから、仕方がないけれど。

 ばらけた書類を拾い集める宦官。宗主の手に支えられて、涼介はベッドの横のクッションに移った。銀の盆は新しいマットの上に置かれてそこで、彼の昼食が始まる。

「……須藤将軍を、そろそろ呼び戻さないか」

 食欲は、まだなかった。けれど涼介は努力して銀の匙を動かす。彼が一口食べるごとに安堵の表情を浮かべる弟のために。

「彼が俺に、砒素を盛ったわけでも、ないのに」

「見せしめって、大事なことじゃん」

「限度がある。彼はお前の、貴重な腹心だ」

「腹心だからこそ、だよ。京一まで遠ざけるぐらい怒ってるって、インパクトがあるだろ。お陰でお袋の大人しいこと。……なぁ」

 何度も言いかけて、でも涼介の体調が回復するまではと思って止めていた事を、言い出す。

「お袋、幽閉しようと思う」

「……止めてくれ」

「あの人のあのクセは治らねぇよ。俺ぁ近くでずっと見てたから分かってる。あん人は、何回だって、あんたを殺そうとするぜ」

 自分が常に中心で一番で、比べるものなき存在でなければ我慢できない女。

「止めろ。彼女を処分、なんてことになったら、影響が大きい」

 啓介の母親は、トルコ帝国の八分の一の領地を所有する大領主の娘。その勢力は国内のあちこちに食い込んでいる。

「お前にいいことは一つもない。母方だけがお前、信頼できる味方じゃあないか」

啓介の無謀な蜂起にさえ、啓介を見捨てることなく奔走した一族。その一族を束ねているのは京一の父親と啓介の母親の、姉弟。

「お前本人を狙ったならともかく、愛人の一人や二人を殺そうとしたからって、お前の母親を処罰することは出来ないよ……」

 彼女は普通の母親ではない。女傑、といっていい存在。息子を愛して、息子のために、二十年間、身体を張って一族を率いて戦い抜いてきた。

「あんたそれ、マジで言ってんの?」

 宗主の声が低く、掠れる。手が伸びてきて、涼介はぶたれるかもと、食器を置いて目を閉じる。抱きすくめ、られた。

 腕ごとそうされて、身動きがとれない。仕方がないから自由になる首を動かして、愛しい弟の肩口に顔を埋める。甘いかすかな汗のにおい。子供の頃から、これだけが愛しかった。

しばらくそうして、抱き合った後で。

「欲、だよ」

 ぼそりと、宗主が呟く。彼に似合わないほの昏い声で。

「俺を好きなんじゃねぇよ、誰も。単に欲。俺を応援する事が自分の得になるだけ」

「そんなことは、」

「あるよ」

「言っても仕方ないことだ。運命共同体だろ?」

「嫌なモンなんだぜ。権勢ずくで愛されんのって」

 その言葉の苦味が可哀相で、涼介は優しく弟に額を擦り付けた。それが慰めに、なるかどうかも分からなかったけれど。正妻腹の嫡長子として生まれ、生まれた時から次期宗主として期待され生きてきた弟。多分、自分とはまったく違う種類のプレッシャーを背負って。

「だから、分かるんだよ、俺。そいつが俺に、ナニ求めてるか。俺について来る理由とか味方する訳とかさ……。みんな、計算と、打算だ」

「母上は、違うさ。将軍も」

「純粋な打算だけじゃねぇから性質、余計に悪いってコトも、あるぜ」

「それでも……、お前には貴重な味方だ」

「俺から何も欲しがらないのはあんただけだ。味方してくれる理由が俺を好きだから、だけなのもあんただけ」

「啓介、それは……」

「俺の味方、あんただけだよ。あんた居なくなったら俺、寂しくって、生きていけねぇよ」

 縋りつくように腕に、寄せられる頬に、涼介の胸が痛む。

 この弟には、確かに孤独の影が付きまとっていた。子供の頃から、ずっと。周りを親族や侍女に囲まれていながら、いつも寂しそうで……、そう。

 その寂しさが同調したのだ。血の親しさと寂しさに引き摺られて、互いに相手への執着を募らせて、今、こういうことに、なった。

「俺はお袋よかあんたを、選ぶ」

 決然とした声だった。

「お袋が俺からあんたを取り上げるつもりなら、容赦しないぜ」

「啓介、なあ、待って」

「許せないんだよ。あんたを傷つける奴は」

「大丈夫だよ。ほら、何処も傷ついてないし、もう元気になったし。……な?」

 懸命に、涼介は宗主の怒りを宥めた。

「これからちゃんと用心するから。二度と、油断はしないから」

「あんた、あの女のこと知らないからンな、甘いこと、言うんだ」

「俺ココに居るよ。お前のそばに、ちゃんと居るじゃないか」

「今度はたまたま。次は、どうだか、分からない」

「……嫌だ」

 とうとう涼介は泣き声を出した。演技では、なかった。

「お願いだから、母上を罰するのは、ヤメテ」

「なんでそこまで庇うの。あんたのお袋の仇だろ」

「たって、お前の味方が、減る」

 トルコの習慣で、罪は一族に及ぶ。伯母が処罰されたとなれば須藤将軍も監禁、もしくは流刑。

「あんた、京一のためにこんな、一生懸命なのかよ」

「いつも俺、お前のために、ならない……」

「なに寝言いってんの。あんた、俺の」

 女神だよとは、耳元で、小さな声で囁かれた。照れたように、けれど真摯に。

「お願い。今度だけは、やめて」

「……」

「許してあげてくれ。頼むから」

「……」

「お願い」

 

 何度も何度も、繰り返し懇願して、ようやく。

「ホントに今度、だけだぜ」

 そう返事を貰ったとき、既に陽は西に傾いていた。

 寝台はすぐそこにあるのにクッションの上で、はだけられた衣服。晒される素肌。穏やかな愛撫を繰り返す宗主の手は、涼介を慰めるばかりで奪おうとは、しない。

「痩せたな……」

「そんなにみっともない、か」

「まさか。でもちょっと恐いかも。力入れたら、ポキンって、折れそう」

「……そんなこと、ない」

「今夜は止めとく。もうちょっと元気になってから、な?」

「ひさしぶり、なのに」

「うん。まあでもいいさ。昔と違うから」

 ちゅっと、わざと音をたてて、胸元にくちづけられる。あぁと涼介は甘いと声と、熱い吐息とを、漏らす。

「俺のだし。いつでも、触れるし」

「……抱けよ。可愛がって」

「ん。もーちょっと、してからな」

「次があるとは……、限らない、の、に」

「……」

 暮れてきた部屋の中で、宗主はふっと、真顔で口を噤む。毒殺を警戒しているのか、それとも何か、別の意図があるのか。

 問い正そうとしたとき、

「あ……、は、ん……ッ」

 彼が白濁した欲望を、こぼして。

「キモチ良かった?」

「……ん」

 凄く、と頷かれ、嬉しさに不審さはかき消された。

 お返し、という風に彼がそっと、宗主に指を絡めてきて。それは制止せず、愛しい肢体を宗主はそっと丁寧に、けれど情熱を篭めて、抱き締める。

 陽が暮れてゆく。けれど。

抱き合った二つの身体が、離れる気配は、なかった。