海峡の東・8

 

 十日ぶりに謹慎の解けた京一は、なにはともあれ宗主に挨拶するために、宮廷の、宗主の執務室へ向かって歩いていた。

 その途中、回廊の片隅から声を掛けられて、振り向く。

 振り向いた顔は、日ごろ無愛想で知られたこの男にしては優しかった。といっても、眦の吊りあがった角度がほんの二度くらい下がっているだけ。見慣れない者には違いは、分からないだろう。円柱の柱の影にひそんでいた麗人に分かったかどうかは、あやうい。

「よぉ、美人さん」

 大股で近づく。部下たちはその場にとどまったまま、動かない。

「元気になってくれてよかったぜ」

「今度のことでは、ご迷惑をおかけしました」

 深々と麗人は頭を下げる。

「わたしの不注意でした。どうぞ宗主には、ご遺恨なく」

「……あんた、啓介を本当に好きなんだな」

 呆れたように感心したように呟き、手を伸ばす。意図が分からないまま麗人はその手に自分の掌を乗せる。頑丈な男の指にキュッと握りこまれて、

「痩せたな」

 男は、痛々しく呟く。

「啓介のことは、別になんとも思っちゃいねぇよ。短気なあいつがよく我慢したと思う。あんたが宥めてくれたんだろ。これであんた、また俺の命の恩人だ」

「わたしは、なにも」

「感謝してるぜ。あんたが居るから大騒ぎにならなかった」

「……私が居なければ、そもそも起らなかった騒ぎです」

 呟く麗人の、頬の翳りが深い。

「母太后はわたしを、受け入れられない、でしょうね」

「……叔母上もご苦労が多かったからな」

 用心深いのを通り越して疑い深い。人を信じる事が出来ないのは、しかし彼女のせいではない。信じた瞬間に背中から刺されることが常道の宗主の後宮で、我が身と我が子を護るために身に付けた習性。そうですねと、麗人は呟いた。

「お気持ちはよく、分かります」

「あんた、けっこうお人よしだな。殺されかけたってのに」

 しかも母親の仇なのにと、将軍の目は言っていた。

「わたしも知っているだけです。前宗主の後宮がどんな場所だったか」

 それほど悪い男でも残酷でもなかった。歴代の宗主にとって後宮は、己の欲望に仕えさせる奴隷を飼育する牧場。なかには女を入れ替える、それだけのために、五百人もの人間を麻袋に詰めて海へと投げ込んだ宗主も居る。そんなのに比べれば、尋常に、当然の権利を遂行しただけの、男。

「同情申し上げている、といったら、あちらはご不快に思われるでしょうが」

 それでも嘘偽りはない、正直な心情。女でなくて良かったと思う。遊ぶばかりで護ろうとか庇おうとかは、少しもしない男だった。あの男から息子を庇護して、よく今日まで生き延びさせられたと、思う。恨みより感心してしまうのは多分、彼女がそうやって守り育てた息子のことを、愛しているから。感謝さえ、できる気分になる。

「あんたみたいなのが居てくれて、啓介は強運だぜ」

「厄災ですよ、俺は」

 可愛い愛しい、あの弟にとっては。

「母太后にも、拝謁なさいますか」

「あぁ。啓介に挨拶したらな」

「……少し時間を下さいと、お伝えくださいますか」

「なんの時間だ」

 麗人は答えずに笑う。悲しげな透明な笑みに京一は、

「おい……」

 何かを言いかけて、けれども結局、何も言えなかった。そして。

「そんなに好きか、あのガキが」

 腹立ち紛れに、別の事を言い出す。

「えぇ。とても」

「あんた、いっそ、俺のものにならねぇか」

「お気持ちだけは、有難く」

 さらっと言われて思い知る。そんなつもりは、少しもないのだと。

「ひでぇ人だな、あんた」

 幾つもの意味をこめて投げつけた言葉に、

「……すみません」

 細く答えた唇に、いっそ噛み付きたかったけれど。

「将軍、急がないと」

「宗主、あんまり待たせると、また怒りますよ」

 部下たちに声をかけられ、それも阻まれる。荒っぽい仕草で振り向く背中に麗人は、

「愛しているんです」

 耐え切れないように、訴えるように、呟いた。

「アレのことだけ、ずっと……」

 

 宗主の寝室、広い寝台の上。

 銀の盆に拡げた食べ物をつまみながら、ふざけたキスを交わす。

 まだ服は脱いでいない。くすぐりあって、触れ合って、もう一押しで互いに欲情に落ちそうな身体をギリギリのラインに保って。

「元気になってくれて、良かった……」

 胸元にこぼれる宗主の、甘い言葉。もう何百回も繰り返されたけど、いちいちキモチが篭っていて、涼介は聞くたびに幸せな気持ちになる。暖かな流れが胸に、満ちて。

「俺ホント、あんた居ないとどうなるか分からねぇよ」

「……そんなことは、ないさ」

「あるって、あんたは分かってるだろう?」

 残酷な衝動がこの胸の中にあると、宗主は涼介の手をそこに触れさせた。男ならみんなあるさと微笑み、それでもそれを宥めるように、涼介はそこを、舐める。

「そーだけどよ。問題は、俺がそれ、実行できるってコト?」

 絶対君主だ。命令一つで、多くの人命を断つ事が出来る。幽閉している父親、異母の兄弟たち。父親からそっくり譲られた後宮の女。宮廷に仕える宦官。ざっと数えただけで、千はくだらない数の、男女。

「あんたが俺の良心だぜ。離れないで、くれよ一生」

 交わされるくちづけが深くなって、宗主は盆を、床に払い落とした。転がっていく、乾燥した無花果の果実。乾いた掌に狭間をさぐられて甘い吐息が、漏れる。

「……イイ?」

 毒殺未遂が起って以来、半月近く、拓かれなかったそこを濡らした指先で弄りながら、尋ねる。意地悪と宗主の耳元で、涼介は囁く。

「してってずっと、俺は言ってるのに」

「ん。でもほら、やっぱ、弱ってるときはさ」

「大丈夫だって、ずっと」

「抱いても抱かれてもキモチ良くねぇだろ?あんたとは一回も失敗したくねぇんだ」

失敗の意味がよく分からない涼介に、

「イかせられないで終わったら、俺が落ち込んでインポになりそう」

「馬鹿……、ン」

自分から脚を開き、固い指先を含みながら、笑う。

「なんで馬鹿だよ。男の沽券だぜ」

「そんなのお前が心配するこ……、ぁ、ふぁ、ん」

「心配、するよ」

だって愛してんだからと、指を蠢かせながら告げられて、涼介はもう、まともな返事が出来ない。両腕を宗主の背中にまわして縋りつく。久しぶりの快楽だった。前戯を時々、与えられていたから完全な禁欲よりも余計に、身体が飢え渇いて、欲しがる。

「……ぁ、すご……」

 締め付け、搾り取ろうとする動きが指先に露骨に伝わって、宗主は男らしい目尻をしまらない様子で、下げた。

「まだそんな、一生懸命になるなよ。指だぜ?」

 絞め殺すなら俺のをにしてと、低く掠れてきた声で、囁く。

「……イレテ」

 抱き締めながら、顔を隠しながら、涼介は小さな声でそれでもはっきり、強請った。

「もうちょっと、我慢しろよ。久々だし」

「いいから、し……、あぁ、……、アッ」

 性腺を内側から逆撫でされて全身がわななく。達しようとする根元を、

「早すぎ」

 微苦笑とともに戒められる。……苦しい。

「して……、いれて、も、欲し、い」

「ん。……もうちょっと」

 指が増やされる。宗主はそこをほどくために舐めようとしたが、涼介が縋りつく腕を緩めなかった。手離されるのは嫌だと泣き声でねだられて、

「しょーがねぇな……」

 言葉とは裏腹に、口調はひどく愉しげで、甘い。中から一度、指を抜いて。

「あ……、ヤッ」

「我儘」

涼介が零す欲望のしずくを掌にうけて、奥へと、塗りつける。その間も涼介は甘い声で自分を抱く男に誘惑を、仕掛け続ける。

「禁欲させっと、こんな風になるんだ。知らなかった」

 呟きの意味をゆっくり、理解して、

「ちが……、あんッ」

 泣き声でそれでも必死にあげた、抗議の声。

「お前だ、から。お前……」

「うん。ありがと。好きだよ」

「俺、も、おれ……ッ」

「大好き……」

 呟きながら、貫く。久々に与えられた楔を、天地を。

「……ッ」

 叫びにさえならない歓喜の声で受け止める。二人とも、もろともに。

 言葉もなく絡み合う。与えあい奪い合う快楽が深すぎて、嬌声どころか呼吸さえうまくは繋げない。苦しい。けれどその苦しささえも、愛情の証に思えて、欲望を煽っていく。

 絶頂と、失墜。

 深すぎて、暫く二人で、喘ぐことしか出来ない。無呼吸の限界ギリギリまで二人、息することさえ忘れて駆け上がった。

「……あー、死ぬとこだった」

 宗主の呟きは半分以上が、本気。

「生きてる?アニキ」

 前髪をかきあげられて、微笑む瞳は醒めない欲情に煙って。

 思わずキスした。眼球を舌で、舐める。

「……ぁ」

「イヤ?」

「いい、よ」

 お前にならばナニをされてもと。

 囁かれ、抱き締められて、……とろける。

 キモチが柔らかく、潤びて蕩けて、抱く人の身体のカタチにそっていく。愛情と優しさ。少しの不純物も見当たらないそれを、くれるのはいつもこの人だけ。

「……、してる、ぜ」

 何千回も繰り返した、代わり映えのない告白を。

「俺も愛してるよ、お前のコト」

 それでも嬉しく、涼介は受け止めて、かえす。言葉を胸に大切にしまうように、添えられた手がいっそ、可憐にさえ見えて。

 たまらずその手に、胸元に、齧りつく。

 甘い悲鳴が、寝台から床へつづけざまに、転がる。

 

 須藤将軍の謹慎が解かれたことと、涼介が執務室に復帰したことでようやく、滞っていた政務が順調に流れ出し、忙しさもようやく落ち着いた、頃。

「……あ?」

 報告を受けた宗主は顔色を変えた。たまたまその時、同席していた須藤将軍は、眉を寄せ目を細め、ため息。

 宦官は告げたのだ。筆頭書記官にして宗主の寵愛する相手が何処にも居ない、姿が見えない、と。

「捜せ。……京一、お袋のトコに」

 拉致もしくは誘拐を思った宗主に、

「それが、書き置きが、こちらに」

 宦官は、流麗な筆跡の書状を差し出した。奪い取って開いて読み下す、宗主の表情が見る見る、変わってゆく。

「……嘘だろ」

 信じられない文句がそこには、並んでいた。

 籠の鳥は、もううんざりだ、ということ。

 広い世界に出て行きたい、捜さないでくれ、と。

「ベネチア商人の息子、須藤将軍が捕らえられた人質の青年の姿もありません。明け方、港を出たベネチア船籍の商船に、それらしい二人連れが居たと」

「……の、野郎……」

 呟く啓介の声が、らしくもなくあまりにも、暗く凄みがあったから。

「嘘だぜ、それは」

 京一は書置きの書簡を指差して、言った。

「お前のために居なくなったんだ。お前と母太后が決裂、しないうちに身を引いた」

「わかってんだよ、ンな事ぁ」

 宗主が叫ぶ。大した大声だった。宦官は床にひれ伏し京一は、痛々しさに、何も言えなくなる。

「いつもの事だぜ。俺のためって言いながら、俺が一番、イヤなことする人さ……」

震える手で羊皮紙をくしゃくしゃに、握りこむ。怒りで蒼白になった頬にも目元にも、凶暴な衝動が浮かんでいた。そこに涼介が居たなら確実に、脅えただろう、表情。

「……チクショウ、覚えてろよ」

 唇からもれるのは呪いの言葉。

「連れ戻したら奴隷にしてやる。今度こそ、本当の。潰して繋いで、逃げられなく、してやる。お袋が興味も抱かないくらい無茶苦茶に……、鳥篭に裸で飼ってやる……」

 聞きながら京一は、しかし思った。この言葉すらあの麗人の、思惑通りではないのかと、

 呪詛さえわが身に引き受けるつもりで、彼は姿を消したのではないか。宗主ののろいは彼の一新に注がれて、既に母親に対する不審も腹立ちも、忘れ去られている。

「覚えてろよ……」

 呪詛の仕上げ、復讐の誓いのように、宗主は丸めた羊皮紙に歯をたてた。ひどく生々しい音とともに、それはふたつに、食い千切られて、裂けた。