海峡の東・9

 

 出港した時から波は高かった。大丈夫かなとは、乗った時から思った。日が沈むのにしたがって風が強くなり、船体は右に左に、大きく揺れた。天井から吊るされたランプも。
「……大丈夫?」
 食事の終わった人に拓海は、食器を給仕に返しながら尋ねる。船賃を弾んで甲板からすぐ下の、賓客用の部屋に入っている。それでも天井は低くてつくりつけの家具も小さい。何よりも船室の片隅に造られたベットの、幅の狭さが気になって仕方がなかった。
「船酔いとか、してない?」
「ありがとう。平気だ」
かすかに微笑む表情が凶悪なほど麗しい。トルコ大帝国宗主の後宮で、二代に渡って最も寵愛された『女』の微笑なのだから当然言えば当然。着ている服は拓海と同じ、ベネチア風の船乗りの格好。腰高の肢体に腰帯がよく似合って、着替えられた後で拓海は、しばらく見惚れていた。
その人から取引を申し込まれたとき、拓海は二つ返事で引き受けた。宮廷を出てベネチアの商船まで送り届けてやる、変わりに自分をベネチアまで同行してくれ、と。自由になれるとか故郷に帰れるとか、そんなこと、その時は考えなかった。ただこの人の逃亡を手伝える事が、一緒にベネチアへ行ける事が嬉しかった。
「あの、涼介、さん」
「ずいぶん気にして居るんだな」
「え?」
「ベッド」
 視線をそっちに流されて藤原拓海は赤面。そんなに、見ていた、だろうか。
「安心しろよ、襲わないぜ」
「別に、襲われるって、思ってるわけじゃない……、です」
「一回ふざけたからな。信用がなくて当然だが」
「だから、そんなんじゃなくって」
「何も無理強いはしない。安心しろ」
「……はぁ」
 俺は無理強いしたくてドキドキしています、とはまさか、言えない。
 そこへ水夫がやって来て、ランプの火を消してくれるようにと言った。風が強いので防火のための用心。木造船は、燃えてしまえば、それで終わりだから。
「仕方がないな。もう寝るか」
「……はぁ」
「お前も疲れただろう?朝から、大変だったから」
 ランプの明りが消される。明り取りの窓から差し込む月光を頼りに涼介は、さっさと貫頭衣の下着姿になる。ぎしっと寝台を鳴らして彼が横たわるのを、拓海は正視しきれず俯きながら、それでもちらちら視線を走らせて、眺めた。
「……藤原、寝ないのか?」
 掛け布を肩まで掛けた姿勢で涼介が拓海を呼ぶ。呼ばれて拓海は、覚悟を決めた。
「失礼します」
 言って隣に滑り込む。おそらくは船主夫妻を滞在させるために作られた寝台。細身とはいえ男二人では転がり落ちそうになる。意を決して、拓海は隣で眠る人に手を伸ばした。温和に見えるが少しも大人しくない、藤原拓海は、そういう青年だった。
「……ッ」
 さすがに少し驚いた涼介だったが、
「狭いから」
 仕方ないのだと耳元で囁かれあっさり納得する。しなやかな人を抱き締めたとたんに拓海は、うっとりするよりぎょっとした。細い。尋常な痩せ方ではない。以前、レイプされかけて圧し掛かられたときは、細身だったけれど皮膚の内側にしなやかな、しっかりした充実があった。今はまともな手ごたえもない。背中を抱いても虚ろな感触が掌に返ってくるだけ。
「どーしたの。こんなに痩せて。なんかあった?……そーいえば、海ウサギの角って……」
 砒素中毒に薬効があるという高価な医薬品。トルコ宗主が珍しいものを揃えたがるのはいつものことなので気にしていなかったが、では。
「もしかしてあんた、一服盛られた?そんで宮廷を逃げ出したの?」
 涼介は答えない。否定も肯定もないまま目を閉じる。疲れているのは、彼の方だったらしい。
「こんな細くて、弱って……、よく男と、旅なんかしようと思ったね」
 反応のなさが悲しくて、挑発的な台詞を告げてみる。涼介はそれでも返事をしなかった。
「もしかして俺が、狼になったらどうすんの。俺だけじゃないよ。あんたみたいな人が弱って、一人で、うろうろしてて、無事に……」
「覚悟はしているよ」
 静かな声だった。向けられる欲望を肯定する訳ではなく受け入れている訳ではもちろんなく、ただ、強要されることに対する諦め。
「いいのかよ、それで。レイプされてもあんた、平気なの」
「少しも平気じゃないけれど、俺はまだ、死にたくないから」
 あの宮廷から逃げないわけには行かなかった。逃げるためには手引きが必要だった。今もまだ必要だ、だから。
 覚悟はしている。舌は噛まない。そう告げたまま、涼介はそれきり喋らない。ただ大人しく、じっと横たわる。抱き締めたものの、腕の中の身体をどうすればいいのか分からずに、拓海の方が、いっそ泣きたくなった。
「……好き、です」
 分からないまま、破れかぶれに、本当の事を言ってみる。
「俺あんたのコト、好きになったみたい。……どうしよ」
 どうしよう、これはトルコ後宮の、訳アリの人。
 自分の父親や弟と寝ていた人。あまつさえ実の父親が、レイプ、してことがある、人。
 せめて最後がなかったら、抱いた腕に力をこめてこのまま、自分のものにすることも出来ただろう。でもそうするには痛かった。父親のつかみ所のない顔つきが、蹴り付けたいほどの苛立たしさで目の前に浮かぶ。その父親が傷つけた人を、自分まで奪うことは少し、ひどすぎる気がした。
「ねぇ、どーする?俺があんたを好きって言ったら」
「……」
「信じる?」
「慣れてるよ」
 男に欲しがられることは。言外のその意味を、藤原拓海は正確に読み取った。
「違うよ。人の話を聞かない人だな。あんたの事を、愛してるって言ってんだよ」
 返事はない。
「信じる?」
「……」
「ねぇ、返事、して」
「そうだな。ベネチアに、無事に連れて行ってくれたら」
「ひでぇ言い方。ぜんぜん信じてないんだ」
 それでもふと、いいことを思いつく。
「ねぇ、ベネチアについたら俺、オヤジと決闘するよ」
「……?」
「勝ったら俺のこと信じて」
 くすくす、思わず涼介は笑い出した。笑ってくれて、拓海は嬉しかった。
「約束な。忘れんなよ」
「……あぁ」
「じゃ、そういう事で」
 そっと腕を離して拓海は寝台から降りようとする。その手を掴まれ、引き止められた。
「……な、なに」
「ここに居ろ」
「居ろって、そんな」
「ボディーガードに、居ろ」
 半分は冗談。でもあと半分はかなり、本気。水夫や漕ぎ手たちの、彼を見る目は美しい女に向ける男の視線だった。
「ひど……、これって意地悪?」
 ぼやきながらそれでも、拓海はそのまま寝台の外側に横たわり、痩せて弱った人を庇うように、眠った。


 そして、夜更け。
 気配と物音に、涼介は目覚める。


「ごめん。寝てていいよ」
 起してしまったことに気づいた拓海は、それでも着替える手は止めずに言う。
「風がひどいんだ。船団もばらけたみてぇ。甲板に出て、ちょっと手伝ってくる」
 ドアは塞がないでおいて、今、悪戯しようなんて思う船乗りは居ないからと、早口で告げる。落ち着いていたが緊張は隠せなかった。船に乗るのは初めての涼介だったがそんな拓海の様子から、事態が相当に切迫している事を知った。
「沈むのか?」
「まだ分からない。あんた、泳げる?」
「泳いだことはない」
「……沈む前に、戻ってくるから」
 肩ヒモをきゅっと引っ張り、袖を捲り上げ張り詰めた二の腕と肩を見せながら、拓海は言った。トルコ宮廷の後宮で生まれ育ちいきて、ようやく外に出てきたばかりの人を死なせることなんて絶対にしないと自分自身に誓う。
「いよいよになったらあんた、抱えて海に飛び込むけど、ギリギリまでは頑張ってみるから」
「……あぁ」
「恐がらなくていいからね」
「ああ。ありがとう」
 じゃあ、と言い残し拓海は足早に出て行く。ぱたりと扉が閉まったとき、そうか沈むのかと、涼介は思った。それは同時に、そうか死ぬのかという感慨でもあった。
 皮肉なものだが、こういうのがきっと、運命。乗った船が沈んだ噂はトルコにも届くだろう。海で死んだと知ったらきっと、嘆かせる。
「ごめんな、啓介」
 風はいっそう激しくなって、ギシッギシッと船体の、軋む嫌な音が響く。


「なにやってんだよ、あんたた達」
 甲板で、藤原拓海の絶叫。普段の静かさが信じられないような、大声。
「マスト切り倒すほどの大風じゃないだろ。雲も薄い。嵐に直撃はされない」
 ただ問題はこの波。近い海域に嵐がいて、その影響で、あれた波。
「こんな外海でマスト、切り倒したら自分から死神の胸に飛び込むようなもんだぜ。どうせ水も食料も、そう余計には積んでないんだろうが」
 ぽんぽん言いながら青年は水夫の斧を取り上げる。若さに不似合いな場数を踏んだ凄みが水夫たちにも伝わって、彼らは逆らわない。名前を名乗れと船長に言われ、
「藤原拓海」
 いっそ倣岸に、拓海は答えた。船籍はベネチアでも船長は雇われで拓海のことを知らない。船団のうち、わざとそういう船に乗り込んだ。余計な詮索をされたくなかったから。
 船長はしかし、拓海をじっと見て、
「藤原文太、って男は」
「オヤジだ」
「ふん。……マストを倒さずにどうやって乗り切る、この波を」
「舵を、俺によこせ」
 船の全員の生命を握る輪を。
「どんなに荒れた海でも、大船一艘、転覆させる波は時々しか来ない。その前に、舳先を波に向けてしまえばいい」
 船というのは構造上、横波に最も弱い。それさえ避ければ沈みはしないと、堂々と言い切る。
「夜だぞ。見えるのか」
「俺には」
「出来るのか、そんなことが」
「俺なら」
「よし、船の指揮を任せる」
「船長」
 船乗りたちは口々に驚きの声を上げるが、拓海は当然といった顔で船長の手から舵を受け取る。
「ぼやぼやせずに、帆をはれよ。人の背丈くらいに。右と左に分かれて、俺が言うとおりに動け」
 年齢に似合わない固い掌でぐっと、樫の木で出来た舵を、掴む。
「よぉ、朝までは、俺が主人だ」
 頼むぜと囁き顔を上げる。月が時々、雲に隠れていく。そんな中で藤原拓海の目は、戯れかかる悪戯な波と、それに紛れて時折牙を剥きこちらを船底へ引きずり込もうとする死神とをきっちり、見分ける事が出来た。
「左翼、貼れっ。左は屈めッ」
 風音に負けない大声で指示を出す。同時に舵をからからと廻し、初めて握った船をまるで、十年乗っている自分の持ち船のように扱う。
「……死なせるもんか」
 咽喉奥で、唸るように、呟く。
「ぜってー戻って、オヤジと決闘する。までは、ぜってー、死なせねぇ」
 荒れ狂う海の上で、ここは人の領域ではないのになぜやって来たのかと、責めるような波にもまれて、それでも。
 人間たちは、戦った。生きるために。生き延びて、生命を繋いでいくために。
 強いられる緊張に体力はずんずん消耗していく。夜明けはまだかと泣きたい気持ちになり掛けたとき、
「……ほら」
 口元に差し出された、水。
「飲めよ。咽喉、渇いただろう?」
 差し出した麗人を信じられない顔で、見つめる。
「さっきから手伝ってた。気づかなかったか?猫よりマシらしいぜ。ヒモが結べるから」
 優しい声とレモン入りの水に意識が覚醒する。拓海が飲み終えるとさっさと彼は風下へ移った。何をしているのかと思ったら積荷の中から運ばせたオリーブ油の樽の、栓を抜いて海へ投げた。海面は瞬間、確かに、凪いだ。
「油だ、もっと持って来い」
 見ていた船長が怒鳴る。自身も船蔵にもぐりこむ。幸か不幸か、高価なオリーブ油の樽は小さく、頑丈な男なら両脇に二つ、運ぶことの出来る大きさ。
「一度に投げるな、もったいないから」
 いつのまにか船尾で指揮をとっているのは、涼介。
「油膜で波の、飛沫を覆うんだ。船体に染み入る海水を少なく出来る」
 指示にあわせて一つずつ、海中へ投擲される樽。それは命を、数えるような行為。


 夜が、明けて。
 東の方角に顔を見せた太陽に、甲板の全員が吼えて、ひざまづき、祈る。
 日頃、信仰など思い出したこともない拓海まで、萎えかけた腕で甲板に膝をつき汚れた床に唇をつけて女神の守護に感謝した。もう大丈夫だという船長に舵を任せ、膝をがくがくさせながら、船室へ降りる。とびきりのご馳走を作ると水夫は申し出たが、
「昼にしてくれ。とにかく、寝たい」
 わかった、ゆっくりなと水夫たちは言った。命を救ってくれたのが彼だと、船乗りたちは分かっていた。ベネチアの、藤原商会の跡取息子だとよとあちこちで、囁き。あれがか、領主の娘を庇ってトルコに捕まってたっていう。逃げ出してきたんだと。念のために、偽名のまんまでいたってさ。じゃあ、連れのあの男は?なんでも、ベネチア領主が逃亡させるための手引きとして雇った男らしいぜ。
「あんまり近づかないで。俺、汗臭いから」
 支えて階段を降りてくれる人にそう言ったが、
「俺も同じだ」
 すずしく返される。そんなことないよ全然、あんたヤな匂いしない。なんか、甘い気配がほんの、少ししか。犬頃みたいに鼻面寄せて、嗅ぎたいような匂いしか。
「よく知ってね、油のことなんて」
 それで波が収まるなんて、あのオヤジからも聞いたことはなかった。たぶんベネチアの、どんな船乗りも知らない。
「たまたま、偶然」
「ンな筈、ない」
「昔読んだ旅行記に、台風で沈没しようとした時に鯨の死体が近くに漂流してきて、なぜか風雨がおさまって助かった、って話がのっていて」
「それ、聖書じゃん」
 使徒の航海を命をかけて護った生き物として、以来、鯨は聖なる動物とされている。
「お前たちの経典か?それを読んだときに思ったんだ。漂流物で助かるはずはないからな。鯨油で波がおさまったんじゃないかと」
「……、これだから、アタマがいい人は」
 かなわないよと拓海は苦笑して、ベッドへ辿り付く。ごろりと転がって、待ったが気配は、近づかない。
 目を開けると、掛け布をとって床に、横たわろうとしていた。
「ちょ、涼介さん、なにしてるの」
「なにって。お前、疲れただろう。ゆっくり寝ろよ」
「こっちおいでよ。大丈夫だよ、俺へとへとで、何にも出来ないから」
「そういう意味じゃないよ」
「あんたのこと床で寝かせるぐらいなら、俺、甲板で波かぶりながら逆立ちしてる肩がマシだよ」
「なにを言ってる。命の恩人にそんなこと、させられるもんか」
 暫く押し問答が続いた後で、
「こっちに来てよ。ボディーガード。俺、本当に疲れてるから今、寝たらナニされたって起きないよ」
 ずるい言葉だった。仕方なく、涼介は起き上がり寝台へ。ぎゅっと背中から抱き締められて。
「……啓介」
 ここには居ない弟の名前を呼んで目を閉じる。彼は夜明けにも、何にも祈らなかった。助けてくれたものがあったとしたらそれは、自分を思ってくれる弟の気持ちだと思った。
「……おやすみなさい」
 涼介の呟きが、藤原拓海の耳に届かなかったはずはないけれど。
 言って静かに目を閉じる。明り取りの窓を閉めて眩しい光を遮って、疲労困憊したい体と意識を眠りにあけわたす。
 穏やかな波が彼らを、優しく揺らしていた。