庇護本能・10

 

 

 出勤は、男に運転させた車で。

 当然のように俺を送ったから男も勤務なのだと思っていたら、実は非番だった。部屋掃除して、布団干しときますよと、笑う横顔にはまだ少し翳が残ってる。昨日から不安定なこの男に散々、引き摺られ引き回されて、朝というのに、私は疲れていた。

 さらに、出勤した私の目の前には、さらに疲れる事態が。

「ぐぅぐぅ……、すぴぴ……。すぅすぅ……」

 いびき、というほどではないが、寝息というには大きすぎるBGMを、自ら奏でて、私を待っていた。

「……中尉」

 有能きわまりない副官は、

「はい」

 澄ました顔で返事をして、決済の書類を手渡す。

「昨夜は緊急出動、通報、連絡、ともにありませんでした。私はこれにて勤務を終え、ブレダ少尉に業務を引き継ぎます」

「それはいいが、これは何だね」

「エドワード・エルリック君です。国家錬金術師で、ロイ・マスタング大佐・兼・准将代行の指揮下に所属しています」

「そんなことを尋ねているのではない」

「あぁ、忘れていました。ご伝言をお預かりしています。『大佐のせーだ、騙された。チクショウ、朝一で文句言ってやる』以上です」

「……」

 文句を言うために、執務室で待ち伏せしていたというのか。

 だとしてもソファもあるのに、わざわざ私の、机の上で寝なくても。

「あまり、オイタをなさいませんように」

 ピッと見事な敬礼を残してリザは離れていく。残されたのは仕事の山と、子供と私だった。子供は本当にいい度胸をしている。安らかに眠っている。顔には少々の疲れが見られるが、それは夜通し、書庫を漁っていたせいで、起きて食べれば回復するだろう。

 睡眠を邪魔することも出来かねて、私は応接コーナーのソファで新聞を眺め、書類にサインした。ついでにメモに短く走り書きして、ドアに張り付ける。その時に通りかかったブレダ少尉が、

「大佐ぁ、朝から居眠り宣言ですかぁー」

 不満そうに言ったので、誤解されかねないことに気付き、メモを書き直した。『睡眠中・静かに』から、『ペット睡眠中・ドアの開閉は静かに』と。我ながら、なんと心配りをする上官だろう。

 午前中、子供は何度か、机の上で寝返りを打った。そのたびに落ちやしないかと私はドキドキしたが、本能的に回避するのか、子供は固い机の上に、うまく身体を丸めて収まっている。ふと、その、姿を見て、思うことが一つ。

 これも柔らかベッドを、好きでないのかもしれない。

 生身と機械鎧では密度も質感も違いすぎる。一緒に『眠った』何夜かも、この子は鎧を持て余したように眠っていた。腕を抱いて眠った私には分かっている。冷たくて、重い。

 不自然に沈む右腕と左足が、ソファだと苦しいのかもしれない。

 オイタをするなというリザの言葉がひっかかって、私は午前中、たいへん真面目に執務をこなしていった。さっさと書類にサインをして、気になった物には付箋をつけ、さらに回覧に目を通す。戦後処理に関する司令部の見解が気に障った。わが軍の被害僅少、という語句が。

 被害僅少。それはめでたいことだ。百人死ぬところが十人で済んだのは素晴らしい。それを成した優秀な指揮官、つまりは俺を、褒め千切っているのも、まぁ当然のことだが。

 死んだ十人は、それぞれにとっては唯一だった。それとこれとは問題の次元が違う。分かっていても気に障るのは多分、私がまだ、半分は戦場に居るから。身体は列車で中央に運び戻されても、気持ちがあの血溜まりから日常に帰るのには時間がかかる。被害僅少。その言葉の裏で息を止めるのは、今度は私かもしれないし。

「……、鋼の」

 この子供かもしれない。

「いい加減におきたまえ。昼だ」

 正午を知らせるサイレンが鳴って、昼食と休憩の時間を知らせてくる。当方司令部では側近達と一緒に食堂で食べることもあったが、中央は地方と違って組織が厳格で、士官用の食堂と一般兵のとは建物からして違う。士官用のも、使用するのは殆どが下士官と尉官までで、佐官ともなれば出来たてのを、執務室に運ばせる事が多い。

「鋼の」

 揺り起こそうとして手を伸ばした、途端。

「……、っと……ッ」

 その手を取られ、引き寄せられる。一瞬からだが流れたが、もう一方の手をデスクの端について踏みとどまった。目を向けると、子供は金色のキレイな瞳で、瞬きもせず、私を見ていた。

 見詰めていた、という方が似合いの真剣さで。

「うそつき」

 短い言葉。もう、何度目だろう。

「なかったぜ、賢者の意志の文献なんて一つも。全部、事故記録と報告書だった。……だましたな」

「君の探し方が足りないのだ」

 真昼の明るい陽光に照らされた瞳は本当に、金にきらきら輝いて美しい。見惚れながらも、口は勝手に動いて。

「まさか背表紙に『賢者の石に関する報告書』、目次に『賢者の石の錬成に関する要項その一・材料』なんて書いてある訳はないだろう」

「俺もバカだったけどさ」

 私の片手を離さないままで、金色の少年は起き上がった。手を繋ぎあったようにも見える姿勢で、少年は暫く俯いて、やがて。

「なんで少尉が俺の味方なんて信じたんだろ」

 ぼやきながらも、笑った。私に向かって金色が笑う。

「大佐の味方に決まってんのにね。まぁ、あんたに優しくしてもらったヤオトシマエが一晩の徹夜なのは、優しい方の罰なのかな。あの少尉にしては」

「あんなとんでもないものを」

「大佐の艶姿?」

「見せられたのは、気の毒だったね」

「ちょっと困った。……興奮しちまって。あんたはあの後、大丈夫だった?」

「私があれから罰を受けなかったかという意味なら愚問だよ、鋼の」

「そだね。あんたに酷いまねなんか、できっこないか。結局、俺には顔しか見せなかったしね、少尉」

 下肢だけはだけられて、それも前を披かれるだけで、男の腕に抱き込まれて男の片手だけで、私はこの金色の、前で。

「今夜、時間がとれないか」

 欲情して、男の手指に負けて。

「……なに?ホントの資料のあり場でも教えてくれんの?」

 自分から男にキスをした。腰を浮かして擦り付けた。刺激されるだけでたまらなくて、登りつめた後の崩壊のカタルシスが欲しくて。

「そんなものはない」

「それも嘘だろ。じゃなきゃあり場は、あんたの頭ン中」

「デートしないかと言っているんだよ」

 子供の前だったのに、自分から願った。俺自身を、犯せと。

「……寝てんの?」

 子供の答えは遅れた。金の瞳が焦点を解いて表情を眩ませる。

「私にも意地があってね」

「あんた、もしかして怒ってる?」

「屈辱は、晴らしておきたいのだ」

「俺のこと苛めたいわけ?」

「君ではないよ。奴に対してだ」

「それってもしかして、俺じゃ相手にならないって意味?」

「君が私に何の屈辱を与えたわけでもないだろう」

 こんな子供の前で、悶えさせられた恥を、漱いで。

「君は可愛いしね」

「勘弁してよ。俺、男だぜ」

「でも可愛いよ、君は」

「しつこいって」

「不愉快なのかな。その考えは改めた方がいい」

「なんだよ」

「子供ではなくて男に、母親でなくて女が」

 金の瞳を正視したまま呟くように言うと、ピクッと、少年の眉が上がる。金色が焦点を取り戻し私に向かってくる。

「可愛いという意味は、即オッケーということだ」

「なにがだよ」

「ベッドが」

「ほんっとーに、呆れた性悪だね、あんた。恋人居るくせに、俺のこと口説いてる?」

「口説いている」

「少尉に悪いとか思わない訳かよ」

「あれは恋人ではないよ。番犬だ」

「そういう逃げ方、嫌いだな。少尉の前でも言えるのかよ」

「言えるさ。恋人は沢山居るが、番犬は一匹しか居ない」

「都合のいい理屈に聞こえっぜ」

「ごくシンプルに言ってしまうと、私は君と今夜、寝たいんだ」

「……なんで?」

「君が可愛いから」

「……それだけ?」

「このままじゃ気持ちが悪いんだ」

「どんな感じに?」

「あぁして、あぁなって」

「分かんねーよ」

「こんなハンパでいられるか。するぞ」

「……はぁ……」

 がっくり、少年は肩を落す。

 それでも私の手は離さなかった。

「……俺としましてはぁー」

「なんだね」

「嘘でもいーから、もーちょっと、優しく誘ってもらえるとうれしーデース」

「お望みなら、いくらでも」

 にっくり笑うと、少年は瞬いた。眩しそうな顔をする。おかしな子だ。眩しいのは君の方なのに。

 自由な片手を少年肩にかけて、目を閉じて。

 そっと斜めに、かすめるだけのくちづけ。

 急に子供は大人しくなって、離れた瞬間、もう一度。

「大佐、睫毛ながいね」

 照れたように、明るく笑う。可愛らしい。

「少尉を、今度は、俺たちでだます訳かぁ」

 可愛いだけじゃないところが、実に好みだ。

「ま、順番としては妥当だよな。俺、どーしてればいいの?」

「好きにしていたまえ。今夜、八時に、昨日のホテルのダイニングで待っている」

「リョーカイしました。それでは」

「待て。ついでに、食事に付き合っていけ」

「あぁ。そーいや腹減ったな。奢ってくれんの?」

「さてどうするか。……ブレダ」

ドアの向うに、さっきから感じていた気配。

「開けていい。メモを剥がして来い」

 へーい、というとぼけた声とともに、見かけによらず頭脳明晰な男が現れて。

「お食事は、こちらへお持ちしますか、食堂へ行かれますか」

 敬礼とともに尋ねる。

「美味そうだったか?」

「ヒヨ豆入りのトマト味ビーフシチューでありました。小官には美味に思えましたが、あくまでも個人的見解であります」

「どうする?」

「それでいいよ。食べに出るのも面倒くさいし。ビーフシチュー好きだよ。あんたがナンに笑ってるか気になるけど」

「豆が豆を……」

「うるせぇ」

「従卒に、こちらに持って来させてくれ。二人ぷんな。それと、ブレダ」

「へいー」

「守秘義務は友情より重いな?」

「イェッサー、軍人としましては、当然のことであります」

 その言い草が可笑しくて、ドアが閉まると同時に少年と二人で笑いあう。こうやって。

 無理にでも、笑って、そうやって。

 私たちは気持ちを、心を、取り戻す。戦場の、あの深い森の中から。