庇護本能・11

 

 

 翌日、日暮れ。

 昨夜から帰っていなかった自宅への階段を、若い男は、おぼつかない足取りで登っていた。

 昨夜は夕勤だった。入れ違いに上司は退勤していった。中央司令部は東方と違って喫煙規定が厳しくて、煙草が吸える場所は限られている。喫煙所へふらふらと歩いていく、途中で。

「あぁ、ハボック、すまん」

 退勤途中のブレダとすれ違って。

「これ、棄てといてくれや」

 ブレダから手渡されたのは紙くず。なんだよと思いながら拡げ、それが上司の筆跡なのを見て顔色を変えた。問いただそうとしたがブレダは早足で去って、呆然と取り残された男の手の中には。

『ペット睡眠中。ドアの開閉は静かに』

……ペット?

 誰がだ。

 煙草を吸いに行くことも忘れて考え込む。それはその若い男にとっては物凄いことだった。あの人のペット。といったら、やっぱり先ずは俺だろう。それは自虐ではなく、素で、自負心。

 他に居るのか?嫌な顔が浮かぶ。今朝、ここにまだ居た筈のガキ。一晩中の無駄足にどんな顔してるか楽しみにしていたが、そこまでするなと咎められ顔を見るのは諦めた。確かに、あんなガキ相手に、そこまでするのは大人気ないか、と、思い直した、のに。

 寝ていたのか。あのガキ。このメモをあの人が書いたとしたら、あの人の執務室に?

 目眩がした。視界がすーっと暗くなる。真面目に貧血だった。壁に手をついて身体を支える。生まれてこのかた、貧血を体験したのは二度目。一度目は戦場で大怪我をして、あぁ、そういうのは貧血って言わないんだっけ。

 頭の中で色々なものが廻る。ガキの笑い声、あの人の奇妙に優しい表情。そうして今朝は、少し不機嫌だった。昨日からちょっと調子に乗り過ぎて、苛めすぎたかもしれない。

 メモを握りしめる。ぐしゃっと、紙片が掌の中で鳴る。嫌だ、冗談じゃない。あんたが俺以外を飼うなんて。

「ハボック少尉、如何されましたか」

 ファルマンの声がして、ようやく意識は、現実に戻ってきた。

「……、なんでも、ない」

 顔を上げる。ファルマンは細い目をさらにほそめて。

「顔色が悪いですよ。医務室へ行かれた方が?」

「いや……。それよりお前、今日は昼勤だったよな」

「はい、そうです」

「……、エド、見かけたか?ここで」

「鋼の錬金術師なら、昼間で大佐の執務室で仮眠されていました」

 ……やっぱり。

「昼食を大佐の執務室でとられて、それから帰られました」

「大佐と一緒に?」

「いいえ。大佐は定時まで仕事を。それから、私がお送りしました」

「大佐んちに?」

「いいえ。ホテルに」

「何処の」

 ホテルの名は、夕べあの人を呼び出した場所で。

「……誰かと会ってたか?」

 昨夜の報復なら、これ以上のやり方はないだろう。

「さぁ。私は正面までお送りしただけですので」

 目眩が酷くなって、頭痛までてきた。脳みその奥の方が、ズキズキ。

「少尉、本当に顔色が」

「悪ィ……、ちょっと……」

「医務室で休まれてください。私はまだおりますので」

「……、悪ィ……」

 謝りながら、よろよろ歩いてく。途中、電話室があって、当番の兵士が座っていた。寝てる場合じゃないことに、俺はようやく、気がついて。

「……、もしもし」

 交換台にホテルの名を告げて、繋いでもらう。

「こちら、中央司令部。ロイ・マスタングかエドワード・エルリックって名前で宿泊は?」

 軍の威光を傘に、なるべく威圧的に問い合わせた。丁重なフロントは宿帳を捲って。

「本日、ロイ・マスタング様には、お食事でご利用いただいております。昨日、エドワード様にはご宿泊いただいております」

「ロイ・マスタングの食事の相手は?」

「そこまでは、お電話では申し上げられません。身分証と軍の調査命令書をご持参いただければ」

「……分かった。ありがとう」

 食事だけなのか。なら女とデートかもしれない。女ならいい。あの人は女のことは可愛がるけど引き寄せない。中尉は例外、彼女は女性だけど女なだけじゃない。

 受話器を置く。そのまま少し、考えるふりでじっとしていた。落ち着けと、自分に言い聞かせる。今は動けない。今夜は俺は勤務だし、居所もつかめないのに動き回ったって意味がない。今、あの人があのガキと一緒の確証があって、何処に居るのかはっきりしてかなら、勤務放り出して飛び出してもいいけど。

 始末書も降格も減棒も怖かない。けど。

 多分、なにしたってムダだろう。そんな気がした。あれは用意周到な人だ。俺は半日、出遅れた。あの人と眠った布団を干したりあの人の制服をクリーニングに出したりしているうちに。

 何処で誰と、なにしているにせよ、俺に嗅ぎ付けられる人じゃない。

 そう思うと覚悟が定まって、まだ頭痛はしたけど目眩は収まった。仕切りの中から出て、係官に礼を言う。当番兵は苦笑して、大佐はまたデートで行方不明ですかと、好都合の誤解をしてくれた。

 事務所に戻って、残ってくれていたファルマンに、帰っていいぜと伝えて仕事に戻る。苦手な書類整理、報告書の下書き、中尉に提出してたのが赤線入りで差し戻されていて、その書き直し。

 仮眠室で午前二時から四時間はぐっすり眠れた。朝食をとって引継ぎを終えて、正午には退勤。一縷の望みを託して俺は、書き直した報告書を渡したときに、思い切り息を吸い込んだが。

「なに?」

 聡明で強靭な人は、何もかもお見通しと言う瞳で。

「分かるの、それで?」

 いえ、すいません。ゼンゼン分かりません。

 でも肌では分かります。きめ細かくて相変わらずきれいだけど、セックスの後の艶じゃないですね。

「余計なお世話だけど、少尉」

「はい」

「あの人のおイタに一々、付き合っていたら身がもたないわよ」

「……俺、オトコなもんで」

 抱いてる人の貞操は気になる。その人しか抱いてない今はもう、生きてる関心の殆どをソレが占めてる気がする。今なにしてる?夕べなにしてた?今夜どーするの?明日は一緒に眠れる?

「それがあなたの、可愛いところだけど」

 中尉が判をくれて、報告書は決済された。

 

 それから。

 心当たりを、探し回った。

 大佐は捜しても無駄って知っていたから、鋼の錬金術師の方を。

 夕暮れに、そいつは見つかった。けど会えなかった。軍関連の宿泊施設に居たそいつの弟が、すいません兄さんは、朝、帰って来てまだ眠っているんですと俺に謝った。なりはでかいがまだ、十台半ばの弟に謝まられちゃ、たたき起こせと、言うわけにもいかなくて。

「兄さん、夕べも帰って来なかったんです。なにしてるのか、少尉はご存知ですか?」

 逆に心配そうに尋ねられ、思わず慰める返事をしてしまう。昨日は知らないけど、夕べは司令部の資料室に居たぜ。答えると弟は安心したらしい。鎧の表情は分からないけれど、雰囲気が柔らかくなって。

「あぁ、そうだったんですね」

 司令部の書庫には司令部に所属する軍人または軍属しか入れない。だから自分が一人で残されたのかと、納得する様子がちょっと、気の毒な感じだった。気勢を削がれて、俺はとぼとぼ、帰途につく。

 着替えてあの人の家に行ってみよう。家にもう、帰ってるかもしれない。浮気を糾弾する強気だったのは今日の昼くらいまでで、それから後は、ただ会いたくて捜していた。

 階段を登りきり、自室のドアに鍵を差し込む。……入らない。

 何度かガチャガチャやって、でも、鍵は鍵穴に入っていかなかった。部屋が南向いてるせいで暗い廊下にはまだ明りがついてなくて、鍵穴はよく見えない。なんだろうと思って触れたとたんに、開いた。

 ドア全体が力なく、内側に向かって。

 最初に思ったのは、空き巣にやられたかってこと。でもすぐ、そうじゃないことは分かった。玄関から見えるリビングに軍靴が脱いである。俺のじゃない。あからさまにサイズ違いだ。いかにも歩きながら脱ぎました、って感じに、左右がずれて、右側だけ倒れて。

「……、大佐ッ」

 慌てて俺も部屋に駆け込んだ。リビングには居ない。他には角部屋の狭い寝室しかない。後はトイレと浴室と、リビングに一角に簡単なキッチンの、シンプルだが俺には不相応な住まいだ。

「……、くぅくぅ……」

 それだけは気張って買った、でかいベッドに、彼が眠っていた。大声出して飛び込んだ俺にも無反応。真摯なくらい一生懸命、彼は眠ってた。……俺のベッドで。

「大佐……」

 心の底から、ほっとして。

 部屋に踏み込み、ベッドの端に腰掛ける。すき、すき、すき。

ぎゅっと、彼が被った毛布ごと抱き締める。腕の中に彼が居るという幸福。

時間がこのまま、止まっちまえばい。いばら姫が眠りについた城の、台所の焔さえ凍りついたように静止した、あの世界の中に棲みたい。あんたを、好き、です。

ずいぶん長い時間、抱き締めていたと思う。

「……ジャン・ハボック君」

 彼が目を覚まして、呆れた声をあげるまで。

「私の安眠を邪魔した上、私をマットに使う心づもりかね」

「どーしましょうかね、俺、こんなんなっちまって」

「勃起でもしたか?」

「三十時間、あんたの顔、見れなっただけで半死半生でしたよ。あんたがもし、居なくなったりしたらどうしましょう」

「天気のいい日は、今後もまめに、布団を干したまえ。陽の匂いがする寝床というのは気持ちのいいものだ」

「イエッサー」

「私の胸郭が歪む前に手を離したまえ」

「浮気、していいです。戻って来てくれるなら。俺、今、よく分かりました」

「本気で呼吸圧迫、されているのだが」

「あんたが誰のこと手に入れてもいいです。あんた自身を渡さないんなら」

「ところで君がサクランボでなくなったのは幾つの時かね」

「十七です」

「ちゃんと出来たか?」

「滅茶苦茶でした」

「まぁそんなものだ。腹が減った」

「買いに行ってきます」

 額にキスして、素直に立ち上がる俺に、財布は上着のポケットの中だと大佐は言って、そして。

「まぁ、なかなか愉快で、面白かったがな」

 そんなことを、聞こえよがしに言う性悪も。

 なにもかも、俺は大好き、だった。