庇護本能・2
警備の配置を終えて、敵前線基地の司令室に、私が入った時は日付が変わっていた。暗い部屋には簡易ベッドが運び込まれ、乾燥気味のパンではあったが、夜食のサンドイッチとコーヒーの用意があった。テーブルの横には少ない私物も届いてて、戦乱の最中にも割れなかったらしいバカラの瓶に、赤身を帯びた褐色の液体が底から5センチばかり残っている。
そしてテーブルの横には悄然とした様子の子供。
「……、お帰り、なさい……」
なんと言ったらいいのか分からなかったんだろう。顔を見るなり子供はそう言った。言い方がおかしくて吹き出した。気分はもう、だいぶ回復していた。だがただいまと答えるのも可笑しくて笑っただけで黙っていると、
「……大佐、怪我は?」
心配そうな目が見上げてくる。それを言いたくて休息もとらずにここで待っていたのか。バカな子供だ。誤解されるぞ、お前。もうされている。でなければ側近たちが寝台の用意された私の部屋に、勝手にお前を入れる筈がない。
私の態度もいけなかったかな。女の少ない戦場で小柄な若い兵士を、指揮官や上官が側に呼んで、抱いて寝るのは、よくあることだ。
「大したことはない」
「……血ぃ、いっぱい出てたし」
「頭の傷は出血が多いんだ」
「手当、終わったんだ?」
「あぁ」
軍医は居なかったが医療錬金術師が居て、手持ちの危惧で縫合をしてくれた。下手な医者よりもいい腕だったが、傷口の癒着は出来なかった。心配そうな子供に笑いかけて包帯を解き、傷口を保護したガーゼを剥ぐ。
「鋼の」
「……、はい」
「鏡が欲しい」
言うとすぐさま掌を打ち合わせ、床に触れて錬成してくれた。何処かでガラスが薄くなって、誰かのベッドの脚が折れたかもしれない。それくらい、立派な鏡だった。ランプの火を、指を鳴らして点け、円形の鏡面を覗き込む。少し疲れた男が写っている。
夜食の用意されたバスケットからナイフを手にとって刃を火にかざす。表裏をまんべんなく焼いて殺菌。そうして薄く煤を袖口でぬぐってから、刃を傷口に押し当てようとしたが。
「あんた、ナニして……ッ」
子供の悲鳴に阻まれる。顔を上げると蒼白な表情で、子供がテーブルの向うに手をついて俺を見詰めていた。
「傷を焼いて、癒着させるんだ」
戦場では当たり前のようにしていたことだ。医者が居ない時、もしくは居ても他の重傷者の手当で忙しい時、動ける程度の軽症は互いに手当しあっていた。骨折、脱臼、銃創に刃物傷。傷口を熱した刃物で焼いて殺菌するのは初歩の初歩。衛生状態のよくない戦地では傷の消毒がなによりの優先事で、ついで一刻も早い治癒が求められる。
「火傷の跡、残るだろ……?」
傷跡が残ることなんて、気にした事は一度もない。
「せっかく綺麗に縫ってあるのに。あと何日かしたら後続が来るんだろ?そん中に医者も居るんじゃない?」
居るかも知れないな。でも居ないかもしれない。そもそも無事に、来るかどうかも分からない。来るとしても片目の視界を塞ぐような包帯をしたまま、このせいで明日、戦死してしまえば治療は受けられない。私は明日も陣頭指揮をする。なのに負傷兵じみた包帯姿では部下たちの士気に関わる。
察しのいい子供は二度、やめろとは言わなかった。代わりに。
「……、貸してくれよ、それ」
私が左手に持ったナイフに手を出す。
「やり難いだろ?俺がするよ」
頼めるか、それは有り難い。鏡で遠近がとれなくてやりにくかった。私は片手で髪を押さえて目を閉じ、顔を上向けて傷口を差し出す。子供はさすがに度胸がよくて、もう一度、ランプに刃をかざして、熱して、煤を拭い取った。
押し当てられる熱。顔をしかめそうになるが歯を噛み締めて耐えた。顔の筋肉は動かさない。ジュ、っと傷口が焼ける。痛い。痛いが、これで包帯は外れる。増血剤を飲んで水分をとって今夜、ゆっくり眠れば、明日は動けるだろう。
「ごめんなさい」
刃が外れた時、私は少し、笑っていたと思う。戦地で傷を焼くのには思い出があった。昔そうやって、手当してくれた男が居た。ご自慢のタガーの、切れ味が鈍ると文句を言いながら、刃をライターの火で焼いて。若い頃の、懐かしい記憶だ。まだ二十歳前、東部で内線が起こる前。俺が国家錬金術師の資格をとる以前。
中尉に昇進したのはあいつが先だった。あいつが主席だったから当然。タガー一本、ダメにした礼にあいつの牙を舐めさせられた。ずいぶん長い時間だったと思う。あれはもとと強い男だったが戦場ではそれが特別に顕著で、昔はよく、失神しても揺すり起こされて、頬をぶたれて、正気づかされたっけ。
「ごめんなさい」
俺が返事をしなかったのを怒っていると思ったのか、子供が謝罪を繰り返す。苦笑して肩を叩いた。気にするな。でも気をつけろ、ここは戦地で、お前も私も、敵には憎まれている。油断をするな。相手は我々を殺そうと、真っ直ぐに狙ってくるのだから。
「イエス・サー」
子供の口からは聞きなれない言葉が零れた。それで思い出して、テーブルの夜食に手を伸ばす。側近が気をきかせたのかコーヒーのカップもサンドイッチも二人分、用意されてて、また苦笑した。
「食べろ」
前に置いてやると子供は戸惑ったが、私が手を伸ばしたのを見てそれに倣う。暫く無言で食事をした。ここ数日は携帯食料ばかりだったから、ちゃんとした『食物』はひどく美味かった。冷めたコーヒーも十分に。その後で、俺はバカラの酒瓶に手を伸ばしかけ、
「鋼の。今夜泊まっていかないか」
まだ少し落ち込んでいる子供に尋ねる。え、と子供は顔を上げて。
「私はこの酒を飲んで眠りたい。アルコールは麻酔になるし、エネルギー源にもなる。が、神経を掃討に鈍磨させることも事実で、前線で酔って眠り込むのは」
「番犬しろっての?いいよ」
頷き、私はバカラの蓋をあける。水も氷もなしに喉に流し込んだが、美味い酒はそうやって飲んでも美味い。残っていた全部を飲み終えて、さすがに酔いが、一気にまわって来る。上着を脱いで軍靴を脱いで、簡易ベッドに転がった。子供は戸惑っていたが、やがてベッドのわきに近づき。座り込む。金髪が闇の中で浮き上がって見えた。
「……、なに……」
ぐい、っとそれを引き寄せたのは酔っていたからだ。そして。
「寒い」
それも本当だった。でも何よりもこんな子供を床に座らせて宿直をさせ悠々と眠れるほど、私はまだ、大物ではなかった。
「保温しろ」
「いえ……、いーけどさ、大佐ぁ……、誤解されるぜ……?」
おや、分かっていたのか。くすくす、俺は笑い出す。酔いがまわっていた。
「まさかしろって言ってんじゃねぇよな?」
まさか。そんなつもりならあんなにきつい酒は飲まないさ。ただまぁ、誤解をされておいた方がいい。君はとびぬけて若いからそういう対象に狙われやすいだろう。先発部隊の中には東部内乱にも従軍したすれっからしが多い。私のお手つきと、思われていた方が安全だ。バカどもはそれで近づくまい。
「ご配慮、どーもぉ。……いいの?」
噂なんぞを私は気にしない。気にしていたらキリがないからな。噂は、噂だ。囁く者より自分が強ければ無視できるものだ。
お前も気にする気性でもないだろう。
「まぁね……」
寒いのは本当だった。毛布は別々だったが、触れた場所から熱が伝わって来る。それは不快な感触ではなかった。そういえば砂漠の夜も冷えた。あそこであいつは私を抱こうとしなかったから、私は一人で震えながら眠った。
「……、あんたって」
なんだ。今夜はいいが、明日からその呼び方は止めろよ。
「偉かったんだな。……、知らなかった」
率直な感想にくすくす、また笑いながら、私の意識は眠りの沼に落ちる。その、寸前。
「顔も……、けっこう、きれぇ……、知らなかった……」
おいおい、そんなの見れば分かるだろうに。童顔が玉に瑕だがロイ・マスタングといえば、我が軍きっての二枚目の名前だぞ。
「痕、残りません、よーに……」
言いながらなにかが触れた。柔らかな何かが、傷口のすこし上に。笑いそうになった直後に泣き出しそうになる。同じことをした男が居た。数年後には指輪を交わした妻の指先に、永遠の愛を誓う男の唇が触れた。裏切りを秘めた唇は熱かった。傷跡は酷く残った。奴の唇が嘘つきだったからだ。
子供の唇は随分長く、傷跡のそばにとどまっていた。髪の生え際、跡が残ったところで大して目立ちはしない場所。私は女性ではないし、顔はとり得だが顔だけの男でもない。名誉の負傷は案外と女性には好かれる。男が思うほど、女は戦争や喧嘩や傷跡を嫌いではない。
その夜はそのままで眠った。次も、その次の夜も、子供は私の寝台に眠りに来た。最初はただ並んで眠っていた。それが並んだだけでは狭いという理由で、抱き合う形になったのは戦場だったからだ。少しだけ、本当にほんの少し、我々の間には秘め事が行われた。セックスというほどでもない、可愛いふざけあいだ。和解もしくは同盟の、約束みたいな、ものだ。
別に罪悪感はなかった。子供は私に、とても素直になった。怪我をしてから五日後に後続部隊が到着して、中央と隣国の間では停戦交渉が始められた。交渉の進捗を見ながら指示に従って、前線指揮官たる私は敵対陣営に時々、ゆすぶりをかけた。
後続と一緒に慰安物資も届いて、私はその日から、仮設された司令部に一人で寝た。子供はアームストロング少佐と同室にさせた。反抗されるかと思ったが、イエッサーの返事だけで命令に従った。人数が増えて秩序が回復し、いつまでも夜、一緒に居られる雰囲気でなかったことを子供も悟ったのだろう。純毛の寝袋も届いて、一人で寝ても
寒さに震えることはなくなった。
私は子供の代わりに酒瓶を抱いて寝た。中央から送られてきた慰安品。最初に持って来たのと同じ、バカラの瓶の蒸留酒。一番好きな酒。褐色で香り高いが値段はもっと高い。どうぞと寄越された後で箱を開けてから驚いた高級酒だ。薄給のくせにムリをする。
無理してこれを中央から、送ってくれた男のことを思い出して後ろめたかった。それほどの真似はしていなかったが、一応は寝床を離して別々に眠った。
そうして琥珀色の酒はもう一人の、俺の女のことも思い出させた。白いシーツの上に瓶を置くと、バカラの中でゆれる液体は彼女の目の色とよく似ていた。
悪かったと少し思う。噂は中央や、彼女の居る狙撃部隊にも届いただろうか。今のところは狙撃隊の出番はなく、南方司令部で待機中のはずだ。従軍中だから何も出来ないが、帰りにはせめて立ち寄って顔を見てから中央へ戻ろう。
お前たちを、ちゃんと愛してる。ただ。
戦場ではなかなか思い出さない。愛情が薄いんじゃなくて馴染まないんだ。お前たちの印象は明るくて優しい。その感覚が戦時には似合わない。
思い出すのはもう居ない、別の男のことばかり。あれと一緒に従軍した数回の戦陣が、どうしても忘れられなくて。
最初の記憶は、なかなか消えないんだ。