庇護本能・3

 

 

「私の顔じゃなく指先を見なさい」
「中尉、肌キレイっスね」
「まず右目を瞑って、指先が見えなくなったらそう言って」 
「今、見えなくなりました」
「今度は左を閉じて、同じように」
「はい、見なくなりました」
「乱視ないわね。深視力をいきます。きき目はどっち?」
「えっと……?」
「もう一度、右目を瞑って指を見て。……両目をあけて。指が動いて見えた?」
「はい。少し位置がズレました」
「左を瞑って。……あけて。どう?」
「殆ど動きません」
「おめでとう。右がきき目よ。肩留めでライフルを撃ちやすいわ」
「はぁ。目にも右利き左利きってあるンすねぇ」
「左目を閉じて、私の右手と左手が並行になったら声をあげて」
「……、なりました」
「はい、ピッタリです。いいわ、かなり」
「素質、ありですか?」
「近点調節位置を測ります。私の指が二本に見えたら教えて」
「中尉、まつげ長いッスね。マッチ乗りそうだ。……、はい」
「乗るわ。……、ここ?」
「実は、俺も乗るンすよ」
「そう。調節距離は七十八ミリ。少し遠いけど、銃星の位置を読むには不自由ないでしょう。あとは右視力ね」
「目ってそんなに、射撃に大事ですか?」
「自分のクセが分かっていれば訓練で修正することも出来ます。でも、狙撃兵レベルになるには、ある程度の適性が必要です。見えたとおりに引き金を引けば当るのが理想でしょう」
「中尉の目は?」
「士官学校の入学試験の身体検査で、射撃適性に花丸を貰いました」
「へぇ。東部の養成学校では、そんなのありませんでしたよ」
「あなたの頃はね。今はさせています」
「中尉の進言で?」
「えぇ」
「キレイな目ぇ、されてますよね」 
「それは射撃と関係ないけれど」  ロイ・マスタング大佐の執務室で、側近二人はそんな会話を交わしていた。内容はともかく位置がまずかった。男性少尉は椅子に腰掛けて、足を開き、女性の中尉はその両膝の間に身を乗り出していた。それはもちろん、射撃適性を調べるための接近、視力検査だったが。
「……、何をしている、君たちは」
 二人は視力のみならず、上層部に報告に行った上官が執務室に帰って来るタイミングも測っていた。
「視力検査ですよ」
「ハボック少尉が狙撃訓練を受けなおしたいと言うので」
「けっこう俺、素質あるそうです」
「いいから離れたまえ」
 つかつかと近づき引き剥がす。二人の肩を掴んだ手には力が入っていて、部屋の主が相当に不愉快であることが伝わる。くすくすと、女性中尉が笑い出した。つられて男性の少尉も。
「あーぁ、笑っちゃダメって言ったじゃないっスか、中尉」
「ごめんなさい。おかしくて」
「先に笑ったの中尉ですからね。今夜の宿直は代わって下さいね」
「仕方がないわね。代わりに私の分も、ちゃんと検証して」
「了解です」
「……なにを話している?」
 偉い大佐が眉を寄せた。その背中に、中尉は腕を廻して。
「お帰りなさい、ロイ」
 微笑み、目を細めて顎を上向ける。口づけをねだる愛らしい動作。ギャラリーを意識しつつ、戦場から二時間前、戻ったばかりの大佐は彼女を抱き寄せ唇を重ねた。優しく何度も重ねあううちに、二人の表情がだんだん幸せそうに、暖かくとけていく。煙草を咥えながら、じっと少尉は眺めていた。
「無事で帰って来てくれて嬉しいわ」
「君も怪我がなくて良かった。先に戻っているとは思わなかったよ」
「最後まで司令部待機だったので、南方に旅行に行ったようなものでした。あなたは最前線で、大変だったわね」
「大したことはなかった」
「そう」
 女は男の、強がりを信じるふりをする。優しい女だった。
「戦場で浮気した?」
「していないよ」
「返事が早すぎるわ」
「本当にしていない。……君たちが」
 腕の中の女を抱きながら、こっちを見ている若い男にもちらり、視線を流して。
「何を怒っているか見当はついている。だがつまらない噂だ。信じる価値はない」
「証明できる?」
「私がないと言っている以上の証明が必要かね?」
「必要です。安心したいから」
「君の望みに従おう。……で?」
「はい?」
「私はこれから、どうすればいいのかな?」
 戦場から戻って戦況報告を終えて、復命に伴う煩雑な手続きをようやく済ませて戻ってきた自分の執務室で、偉い大佐は有能な副官にスケジュールを尋ねた。
「とりあえず椅子に座って」
 大きな執務机の、背もたれの高い牛革張りではなく、さっきまで少尉が座っていたパイプの簡易椅子。
「私を膝に乗せて」
 言われるままに引き寄せた。そのまま再度のくちづけをしようとしたが。
「……、ダメ。二度目は、あなたの愛犬が待ってる」
 女は男の胸の中で俯いて静かに拒んだ。
「寄って来ないんだ。私を忘れたかな?」
「忘れていたのはあなたでしょ。ハボック少尉」
「……、はい」
「背中に立ちなさい」
 若い男は暫く動かなかった。それは躊躇いというよりは抵抗に見えた。思い通りにはめられていくことへの抵抗。それでも最後には抗いきれず、上司が座った椅子の背中に立つ。
「ロイ。……目を閉じて」
 言われた通りにした。言われる前に、喉を仰向けて唇を差し出す。こんな真似して相手がのって来なかったらどうしてくれる、一人でバカみたいじゃないかと、心の中での呟きは。
 すぐに途切れた。それどころではなくなって。被さってきた、と思う間もなく逆位置で唇が重ねられる。微妙にほっとする間もなく貪られる。拒む意志はなかったのに力ずくで顎を持ち上げられて、苦しさに反射的に暴れた。女が膝からすっと身を引いて、それを待っていたかのように、軽い簡易椅子は無造作に引かれ、床に倒れる。
 頭を庇う間もなかった。もっとも自分で庇わずとも、別の男の腕が首の後に差し込まれ衝撃を緩和した。抗議しようと開いた口は声を出す間もなく噛み締められる。手首を纏めて捩じ上げられた痛みを耐えるために。関節と逆に絞られた肘が痛む。そのまま床に、押し伏せられてもう一度、頭の芯がマヒするような、くちづけ。
 ちゃんと自分から唇を開いているのに、強引な舌が乱暴に差し入れられ柔らかな粘膜を蹂躙する。歯がかみ合うほどに近い位置を探られて、喉の奥にまで侵略しようという勢いで強引な舌が差し込まれる。
「……、ひゅ……、ん……ッ」
 息を継ぐ隙は与えられなかった。体を捩っても押さえつけた男はびくともせず、声を出そうとしてもくちづけの隙間から、頼りない息が漏れていくだけ。飲みこみ切れない唾液が糸を引いて流れる。そんなキスが、暫くは続いた。
 見栄も体裁もなく、餓えを隠そうともしない。情熱というよりもっとストレートな、直裁的で潔く、かえって清潔な強引さだった。足掻くことを諦めた体が大人しくなってからも暫く、味わった後でようやく、若い男は組み敷いた上官に呼吸を開放する。
「……、は……」
 かなり激しく、翻弄されていた方は咳き込んだ。肩を竦めてごほごほ言っていると、若い男の大きな掌が背中を撫でる。その優しさに、緊張を解きながら、
「ハボック、お前……、女性なら窒息していたぞ……」
 自分でも本当にギリギリ、苦しかったのだから。
 苦情を言って顔を上げる。
「……、ハボ……」
 目の前で、至近距離で、若い男は笑っていた。いつもと違う、目の置くが怖い笑み。
 思わず逃げをうとうとした体を、もう一度。
「少尉……ッ」
 床に押さえ込まれる。今度はうつ伏せに。首筋に唇の感触。
 噛まれるかと思った。
「少尉、手を離しなさい」
 少し離れて眺めていた女性中尉が、ようやくの助け舟。
「……」
「少尉」
「……、イヤです」
「反抗的ね。夜まで待ちなさい」
「今、調べましょうよ。……、中尉も確かめたいでしょう?」
 何を、と抗議の声をあげる暇もなく、
「……、ッ……」
 容赦ない力で腰骨を掴まれて悶える。
 本当に力いっぱい、握りつぶす意志の篭った、指先は着衣ごしにも、その下の素肌に痣を作っただろう。
「剥いて触りゃ、すぐ分かりますよ。カラダは嘘つきませんからね」
「態度はもっと正直よ、その人は」
「俺らから離れて、ナニしてきたか」
「たいしたことはないけどちょっと後ろめたい、というところね、今の大人しさは。……してきたとしても浮気」

「それがゆるせないんッスが」

「大佐を起こして、髪を整えて。食事をさせなきゃ。午後からは報告会があります。資料は私が用意するから、あなは大佐の準備を」

「噛み殺していいっスか」

「せっかく生きて戻ってきたのに?」

 言われて、若い男の力が緩んだ。そうだ、この人は戦場に行ったのだった。命の保障のない場所に。

「……、は……」

 痛みに耐えていた人がようやく解放されて息をつく。抱き締めたいような気がして、若い男は掌を握りこんだ。まだそんな甘い顔は見せられない。噂話を聞く度に、胸に沸いた澱が下腹にたまって。

「あんたがマテって言ったから、いい子に待っていましたよ」

 かぶさって、背中を胸に抱きながら、肩に手をまわし囁く。背後から耳元をくすぐられる声にぴくりと、腕の中の人は小さく反応した。

「あんたのことだけ考えて待ってたのに、あんたは……」

 前線から届く噂は悪意に満ちて、リアルで。

「俺のこと棄てんの?あんな子供に、俺あんたのこと取られんの?あんた若い男、好きですもんね。でもまだ、ちょっと若すぎない?淫行罪に引っかかっちまいますよ、十七歳以下だ」

「……、だから……、何も……」

「抱いたの?抱かれた?俺より気持ちよかった?ねぇ……、大佐」

「……、なんだ」

「決闘して、俺が勝ったら戻って来てくれる?」

「だから、違うと言っているだろうッ」

 あんまりな物言いに逆切れした叫び声は、

「とぼけんな、ウラとれてんだよ、こっちはッ」

 倍の勢いで叫び返される。

「あんたがあのガキと一緒に寝居たことは分かってんだッ」

「誰に聞いたか知らないが」

ぐい、と、肘をまわして背中から男を引き剥がそうとする抵抗は成功しなかった。が、身体を返して仰向けになることは出来た。圧迫された胸の軋みがとれる。仰向けの効果はそれでけではなかった。

床に肘をついて上体を持ち上げれば、腹に跨った若い男の顔が見える。凶暴で強い口調と裏腹に、不安にゆれて泣き出しそうな目が。「……部屋には入れた。それは見られたろう。だがその後のことは、連中の勝手な妄想だ」

「夫婦でもない二人が夜、寝室に閉じこもれば、人類の経験に照らして性交の意志ありと見なされる、んですよ」

「軍法会議所の規定だな。それは平時の話だ。お前も前線は知っているだろう」

「知ってます。気持ちは分かります。でもね、裏切りは許せません」

「そうじゃない。あんなに若くて小さくて、見目も悪い訳じゃない子供を、野営地で、一人で寝かせられると思うか」

 意外な言葉だったらしい。男の表情が動く。執務机の上で女性中尉が、書類を揃えている音も途切れた。

「心配するほど、ヤワでもないでしょうが」

「周囲は戦闘員と国家錬金術師だ」

「返り討ち、できるでしょ、あのガキなら」

「鋼のは初陣だ。……、随分、傷んでいた」

「……、まぁ、軍人と違いますからね。喧嘩と戦争は違うし……」

 次々に攻め込まれて、男の語尾が弱くなる。

「上から退け、少尉」

「美味く誤魔化されたような気がします」

「覚悟していろよ、お前」

「はい?」

「今夜、俺に、泣きながら謝る破目になるぞ」

「ごめんなさいって言えりゃめでたしめでたしですが」

 その前に。

「……お帰りなさい」

 もう一度、今度は柔らかく、ゆっくりと。

「ご無事で、何よりです」

 腕に抱きながら告げる。何をいまさらと、不愉快そうな気配が伝わってきたけれど気付かないことにして。

「ずっとあんたの、無事だけ祈ってましたよ」

 肩口に額を押し当てて告げる。大きな男が屈んで見せる服従の姿勢を、高慢な上官が気に入っている事には気付いていた。

「お帰りなさい」

 牙をおさめて懐いて尾を振れば、

「……、あぁ」

 意外と甘いところのある人は、投げやりながら返事をして、抱き返してくれた。

 書類を捲る音が復活する。

「お前が持たせてくれた酒」

「途中で二度、送りましたよ。届きました?」

「届いた。医者も薬もないときに怪我をしてな」

「……」

「あれのおかげで助かった」

 若い男は暫く揺れていた。そして。

「……、大佐」

 殆ど縋りつくように必死に。

「大佐、大佐……ッ」

 生きて戻ってきてくれた相手を抱き締める。痛いと苦笑しながら、上司はこちらも、やっと笑って。

「ただいま」

 告げる口元を若い男は舐めた。今夜の検証を待つまでもなく、気持ちは既に、懐柔されていた。