庇護本能・5
聞こえてきたのは高い声だった。声だけでもわかるほどうきうきと楽しそうだ。でももう、子供の声ではない。
「だぁからぁー、ぐいっていくんだよ、ぐいって」
子供ではないが大人の男ともいえない、その曖昧さがずるいと、男は扉の外に立って思った。必要に応じてどっちにでも転がれる。今は子供のふりで、本来はそんな口をきれないはずの相手に、
「キアイで描くんだよ、円は」
明るい声で話し掛ける。答える声は聞こえない。
「へったくそぉ〜」
くすくす、また、楽しく笑っている。
「……、か……、私は……」
今度は応える声も聞こえてきた。こっちも笑っている。子供のふりをした少年ほど高くはないが、かなり明るい声。
「ハボック少尉、どうしたの、そんなところで」
執務室の前にたち尽くす同僚を認めて射撃のうまい女性中尉が声を掛ける。立ち尽くしていた男は体ごと中尉に向き直った。その手には。
「すんません、中尉。ドア、開けていただけませんか」
大きな盆に、紅茶とケーキ。ミルクは一つだけ、砂糖はブラウンシュガーを砂糖壷に満杯。あぁ、と気付いた中尉はドアノブを捻って隙間をあけ、男が行儀悪く足を隙間に挟んだのを確かめて離れていく。忙しいのだろう。
「お待たせぇ、お茶っスー」
声を掛けると、部屋の奥で笑いあっていた二人が顔を上げる。あ、うまそうと子供の表情で少年はケーキに手を伸ばす。フォークも添えられていたが生身の片手で手づかみで。
外は雨。厚い雲に遮られ陽光は地上に届かない。照明を点けても室内の雰囲気はどこか暗く、その中で少年の明るい金髪だけがくもりのない輝きを放つ。俺のより細かい毛並みだと男は冷静に眺めた。俺よりも柔らかいんだろうか。金というよりプラチナに近い金髪の少年は応接セットのソファではなく、
「どうしてお前が持って来るんだ?」
執務室の主人である大佐の執務机の、端に座っていた。引き出しの金具に足をかけるように行儀悪く。咎めもせずに大佐もカップに手を伸ばす。こちらもミルクは入れない。
「俺も食べたかったんで」
中央に帰って以来、国家錬金術師を統括する大佐には従僕がつけられ、来客に出す茶菓の接待は彼らの仕事になっている。それを横から、男は盆ごと奪った。ケーキをもう一つと厨房に寄って、さらに廊下に立ち尽くしていたせいで紅茶は冷めかけていたが、戦場帰りの二人は気にする様子を見せない。
「うまーい。中央司令部だけあって、いいモン食ってんねぇ、大佐」
国家錬金術師は軍属であって、佐官待遇だが昇進というものがない。代わりに与えられた勲章と賞金を、受け取りに来て、帰りに戦場での上官に挨拶。筋の通った行動だった。通り過ぎていて違和感があるほど。この少年は、そんな律儀な性質だったろうか?
「食べたくなったらいつでも来ればいい。歓迎するさ」
「そ?ホント?」
野郎と茶を飲んでも楽しくないと、この間までは言っていなかったか。
「大佐はさぁ、大佐のマンマな訳?」
「今回は勲章と金一封で誤魔化されるらしい。この若さで将官に昇進は前例がないとさ」
「前例ねぇ。でも仕事はあれだろ?研究所統括すんだろ?」
「准将代行だ。全く便利な言葉を使うものだよ」
「給料は大佐で仕事は准将かぁ、ひでぇ話。宮仕え辛いねぇ」
二人の会話を聞きながらハボックは離れたソファでバナナのシフォンケーキに喰らいついた。美味いか不味いか、そんなのは分からなかった。
「マジな話さ、どう思う?」
少年の声がいきなり低く、秘密を囁く響きになって。
「……、うむ……」
大佐の口調も、それに同調し。
「受けるというなら推薦はする。君の弟だ、多分受かるだろう。試験免除、書類審査で通るかもしれない。だがな」
「うん」
「君もよく分かっているだろうが、国家資格は諸刃の剣だ。便利な反面、不自由なこともある。……従軍義務とかな」
「うん」
少年はひどく真摯に、黒髪の大佐のいうことに頷く。
「君たちの研究のこともある。国家資格をとれば研究成果を軍に報告しなければならない。片方は自由でいる方が、効率がいいかもしれないぞ。まぁ、私がこんなことを言ったということは秘密だがね」
「うん。俺もそう思うんだけど、アルがさぁ、強情なんだ」
「君の弟だからな」
「あいつ俺より気性カタいもん。この前、俺が一人で戦争行っただろ?それで……」
「気持ちはわからないでもないが、もう少し考えてみるんだな。君の弟はまだ十四だ。国家資格をとっても戦場には招かれない」
「あいつも、もーすぐ十五になるし」
「十六まではもう一年あるだろう。よく話し合ってみたまえ」
「そーするよ。……、ごちそうさま」
カップを少年は受け皿に戻した。名残惜しそうに執務机から飛び降りてのびをして。
「ほんじゃ、俺、帰るわ。またね」
「あぁ。ちょっと待て、ハボック」
「へいー」
勝手にお茶とケーキを食べて、煙草までふかしだした部下は目だけを動かして気のない返事。
「鋼のを送っていけ」
「……、俺っスか」
「今夜の宿は?軍の施設か?」
「あ、ううん。ホテルに泊まってる。アルが居るし。でもいいよ、送ってくれなくて。忙しいだろ」
「雨が降っている。濡らさない方がいい」
「あぁ……、うん。ありがと」
「ハボック、私の車を使え」
「イエッサァー。大将、車まわしてくっから正面玄関でな」
「ありがとう。……あのさ、大佐」
「ん?」
「暫く俺、セントラルに居るからさ……、いっぺん、二人であえないかな……。話、あるんだ……」
「予定をたててみよう。連絡先を、そいつに教えておいてくれ」
「うん。……じゃ、また」
扉を支えて、ハボック少尉は少年を先に行かせた。そうして一旦、パタンとドアを閉めて。
「俺も、二人っきりで会いたいんですけどね。話があンですが」
唸るような低い声。
「勤務が終わったらうちに来い」
「物分りいいっスね。良すぎてナンか、逆に引っかかりますよ」
「男の嫉妬が怖いのはよく知っているのだよ」
「誰に教えられて?」
「ジャン・ハボックという男に」
「……」
艶な流し目に満足して、男はその場では大人しく引いた。今夜の約束が嬉しかったのかもしれない。公用車を運転して鋼の錬金術師を宿まで送っていったことは分かっている。そのまま、帰って来なかった。
「職務怠慢ですか?」
退勤時刻になっても現れない少尉のことを、利け者の中尉が上司に尋ねに来る。どういう意味かと上司は利き返した。
「何か特別な任務につかれているのかと思って。……大佐の命令で」
「これといって、思い当たることはないが」
「エド君を送っていったまま帰って来ないのですが」
「……」
「大佐の命令でないとすると職務放棄、始末書、事情によっては譴責、減給処分となります」
「……、そういえば、何か言いつけたような気がする」
「何をか思い出せ、とは申しませんが」
職務終了後直帰、と、出勤簿に記入しながら、かなり厳しい瞳で中尉は上司を見た。
「あまりオイタを、なさいませんように」
そのまま反論を許さずに離れる。怒っている。
「別に、私は何もしていないぞ……」
姿が見えなくなってから細い声で反論。
「今日は珍しく、ちゃんとマジメに仕事をした。なのに怒られて、それに私も退勤時刻なのに、車がないでは、うちに帰りないじゃないか。君は送ってくれないのか。薄情な」
中尉が夜勤であることを承知でぼやいた。
「私はあんな男を迎えに行くんじゃない。車を引き取りに行かなければならないだけだ」
誰も居ない部屋での一人ごとは、自分自身に向かってのいい訳だったのかもしれない。
「……、私は悪くないぞ……」
そんな言葉を、何度繰り返しても、胸にひたひたと満ちてくるいやな予感はふりはらえなかったが。