庇護本能・6

 

 

さっきまでの楽しい気分が急降下してく。

 東方司令部の頃から馴染みの、親切な少尉。その人が運転中、いきなり右手を、後部座席の俺に向けて上げて。

「中指、爪、長いだろ」

 脈絡もなく俺に見せた時はなんだろうと思った。見るとそこには、関節がごつい、殴られたら痛そうな指が並んでた。軍人らしく短く揃えられた爪のうち、確かに中指だけが長くて、妙に違和感があった。無造作にパチパチ切られた感じのほかと比べて、それは不精して伸びてるんじゃなかった。爪先は丸く、清潔そうに整えてある。

「セックスん時使うんだ、この指」

 いきなりそんな話題をふられて戸惑う。俺はまだ、そういうのを面白がれるほど長生きしてない。ふぅん、って返事したのは社交辞令だった。でもそんな話はしたくないって意志は、伝わった筈なのに。

「ちょっと見、痛そうだろ?でも悦ぶんだぜ。ちょっとマゾ入ってるから。あてるとピクってして、挿れよーとすっと、イヤイヤって縋りつくんだ。それが可愛くってさ」

「……恋人?」

「俺には」

「ふぅん。いいね」

「大将、女居ないのか?」

「うん。そういう人は、いない」

 仲がいい幼なじみは居る。でもお互いまだ、そんな気分じゃない。俺には違う目的があって、今はまだそれどころじゃない。

「挿れられんの怖がってきゅって竦むから、ナカにはいンのけっこう手間どるんだ。でもいっぺん入ると、きれぇな声で鳴く」

「あのさ、少尉。俺まだチェリーだからさ」

「粘膜薄くって、柔らかいから、たかが爪でも相当こわいらしい。掠めるみたいに擦ると、なんでも言うこときくからって泣き出す」

「そういう刺激系の話しは、遠慮してーんだけど」

「その右手」

 機械鎧の右手のことを言われて、俺はとっさにバックミラーを見た。運転してる少尉も俺を見てて、俺たちは鏡の中で斬り合う。本当に本気で得物を、突きつけあった実感があった。それぐらい、少尉の目は真剣でほんの少しも笑っちゃいなかった。

「腕枕には、固すぎるだろうな」

「……喧嘩売ってんの?」

「売りつけてきたのはそっちだ」

「覚えがないんだけど」

「南の戦地で遊んだろ?」

 言われてまた、意味が咄嗟には分からない。

「遊んだ相手、俺の恋人だ」

「……」

 ちょっと、待て。

 南の戦地は俺の初陣だった。初めての従軍、初めての戦争、そして初めての殺人。そして、初めてじゃないこともあった。

 自分以外の暖かさと眠るのは初めてじゃなかった。母さんとも、アルフォンスとも寝てた。大昔の話だ。母さんの記憶は遠く、アルは体温のない鎧の体になって長い。

 初めてだったかもしれない。家族以外と、はじめて身体を寄せ合って眠った。凄く暖かくて、初めてなのに懐かしくて切なかった。眠った大佐の肩に顔を、押し付けてみたのも切なかった。何が切ないのか、セツナイってどんな意味なのか、も、よく分からなかったけど。

 顔を近づけて息をしてるうちにヘンな気持ちになった。どういうコトかはもちろん知ってたし、自慰ぐらいしてた。けど。

 あの時は違った。自慰、ン時は自分の中にドロトロが溜まって、吐き出さないとイラつくから出すけど、いつも後味が悪かった。あん時は違った。間近に、ホントに、睫毛が触りそーなくらい近くに大佐の顔があった。目を閉じてた。唇が少し開いてた。こんなに近くで見たことなかったから知らなかった。肌がきれいだった。触ったことなかったから知らなかった。すごく、きれいだった。

 熱が沸いたのは馴染みの場所からじゃなかった。胸が痛くて、喉の置くが熱かった。息を吐いたけど熱は消えなくて、俺は毛布の中で身じろいだ。離れたくない。でも離れないと、バレちまう。

 寒かった。本当に離れたくなかった。ダメだって頭で思いながら体は寄っていった。母さんやアルの体がどんな風だったか、俺はもう、よく覚えてない。

 大佐の体は、意外と細かった。腰周りなんか特に。見た目より随分。そんな風に感じたのは俺がでかくなったせいだろう。初対面の時、この人は俺を責めた。人体錬成の禁を犯して、アルフェンスまで犠牲にしてしまった俺を、この人は真っ直ぐに責めた。

 あの時の印象と、触った幹事は随分違ってる。五年、たったからだ、きっと、変わったのはこの人じゃなくて俺自身。この人を細いと思う分、俺はでかくなってる。

 そおっと、身体を撫でていく。規則正しい寝息を繰り返しながら大佐は眠ってた。前線基地だから軍服は着たまま、襟と前だけ、ちょっとだけ緩めてある。ためらいながら、その隙間に指を入れようとした、瞬間。

「……ッ」

 指は止められた。大佐に掴まれて。掴まれたのは指だけじゃなかった。頭ごと、肩を胸に、抱きこむようにされて。

 ごめんなさいの、言葉も出なかった。

 驚いて動けない俺を大佐は、暫く押さえたままじっとしてた。咄嗟に止めたはいいもののこれからどうしようか考えてる、そんな感じだった。そう真剣に怒ってる雰囲気はなかった。

「……、あの……、たい……」

 さ、とは続けられなかった。

「ひ……ッ」

 毛布の中で大佐の右手は俺の手を離した。そのまま、その手は俺の、膨らんだ、前を撫でて。

「ちょ、たい……、メロ……、ごめ……ッ」

 逃げようとした。ホントにしたんだ、罰だと思ったから。でも大佐の手は優しかった。撫でてくれてる右手も、俺の後ろ頭に触ってる左手も。宥めるみたいに優しく髪を梳かれて、俺は大佐が怒って、イヤガラセで俺に触ってるんじゃないってことを、知った。

「た……、い、さ……」

 大佐は優しかった。優しく俺の、ことを慰めてくれた。途中から俺は、自分から大佐にしがみついてた。肩に額を押し当てて左手で背中に縋って喘いだ。だって本当に気持ちよかったんだ。あったかくって、いい匂いがした。その人がやさしくしてくれてる快感に、俺はその時、喉まで溺れきってた。

 大佐は大人だった。優しかったけど手馴れてた。気持ちよすぎて苦しくなる頃、大佐の手には夕食の使い捨て紙ナプキンがあった。缶詰のパンとシチューに添えられてたやつだ。ベッドの上で食べて床に棄てたそれを、大佐がいつ拾ったのかは分からない。わからないくらい、俺は夢中だった。

 俺に終わりを促すみたいに、大佐の指は俺を絞る。俺は抵抗した。終わりたくなかった。気持ちよかったから。大佐は一瞬だけ困ってた。顔は見えなかったし、声どころか息さえ聞こえなかったけど俺には分かった。甘えるみたいに、俺はがむしゃらに顔を大佐の、肩口に押し付けた。

 大佐は眠りたかったのかもしれない。いい加減、ガキは付き合っていられないと思ったのかも、しれない。

 押し付けた耳元を。

 そっと、唇を押し付けられて、舐められて。

 俺は、弾けた。そりゃもう即座にだ。

 自分でもおかしいぐらいだった。

 おかしかったのに大佐は笑わなかった。始末まで、してくれて、カプ金がベッドの外に棄てられる。前線の仮設ベッドにくずかごなんかなくて、それは明日、窓の外に投げ棄てなきゃならない。

「……、大佐」

 俺はもう、どうしていいか、何を言えばいいのか。

「あんたは?」

 分からなかった。なのに勝手に口がそう動いてた。なに言ってんだよと自分を締め上げたくなる反面、自分の台詞にすごく興奮した。そうだよ、あんたは?俺にあんたのこと、させてよ。

 大佐は答えてくれなかった。言葉では。くしゃって髪をかき回されて、もう一度、胸に抱きこまれる。眠れって言ってんの?

 触ってみたかった。けど、逆らうには暖かすぎて、俺は大人しくしてた。ずれを毛布を大佐が拾い上げる。もっと近くに行きたくて俺は姿勢を探った、瞬間。

「……、あ」

 ベアリングが軋むかすかな音。

「ごめ……」

 ずっと気をつけてた。機械鎧の片手片脚が大佐に触らないように。だってやっぱり気持ちがいいモンじゃないと思うから。ふだんはともかく、眠る時には、冷たくて硬いし。

 大佐は驚いてた。俺は足を引いた。しゅんとして、そのままちぃさくなってた。大佐は追ってきた。俺の足を。

「……、ちょ……、え……?」

 反射的に逃げた、俺の腰に大佐の手がかかる。引き寄せられる。かなり強引に。機械鎧の脚が金属音をたてて、俺にはそれが、いたたまれない、響きだったけど。

「大佐……、冷たいよ……?」

 脚が、絡められた。

 大佐の脚が、俺のを挟むみたいに。機械鎧の義足の方だった。義足でも神経は通ってる。触れる大佐の、脚があったかい。熱が移ると、なんか俺の方のまで、生身が蘇る気がする。

「……、たいさ……」

 腕も抱いてくれた。右手の義手の方を。申し訳なかった。だって本当に冷たいんだ。今は冬だし、この部屋には暖房がないから特に。室温よりはるかに、俺の手足の体感温度は低いだろう。

「眠れ」

 短く、言われた。その夜に大佐が俺に聞かせた声は結局、その一言だけ、だった。でも。

 忘れられない夜になった。抱いてくれた手足に熱が宿って、ほんとに、生身が、戻ってきたみたいで切なくて嬉しかった。大佐はさぞ冷たかっただろう。けど俺は、物凄くあったかくて。

 幸せ、だった。

 初めての戦場の、一番強烈な記憶はそれ。

セックスじゃなかった。イタズラ、って呼ぶにもかわい過ぎる。俺がナンか一方的に宥められて、情けなくないでもない。でも忘れられなくて、無茶苦茶キョーレツに気持ちよかったのは。

手で絞られたことじゃない。その後の疑似体験。なくした、懐かしい、あったかなものが蘇っていく快感。

朝は大佐が割きに目覚めた。紙ナプキンはもう、何処にも落ちてなかった。大佐は普通に挨拶してくれた。俺は顔を上げられなかった。俯いた視界に手が見えた。大佐の手を見た途端に夕べのことが生々しくて、俺はますます、顔を上げれなくなった。

その日の昼に後続部隊が到着して、物資も届いてメシがマトモになって、コーヒーが飲めて、大佐とは離された。

 ちょっと残念、だった。

 戦いはそれからニ週間くらい続いたけど、鉄道が復旧して人数が増えた後はわりと楽だった。停戦交渉が後方で行われて、偉い奴らが折り合った条件で俺たちは牙を納めた。闘犬の狗みたいだって本当に思った。大佐は急がしそうで、そして、遠かった。

 セントラルへの帰還は大佐と別だった。残念で淋しかった。ゆれる汽車の中でずっと、大佐のことばっかり考えてた。迎えに来てたアルが戦場を体験した俺を気遣ってくれたけど、俺が体験したのはそれだけじゃなかった。

 戦場での功績と引き換えに、勲章と賞金が出るから待機していろと言われて宿で待った。待っていたのは叙勲じゃなくて大佐の帰還だった。勲章もらいに総督府に行って帰りに寄った。歓迎してくれた。一緒に話して、お茶を飲めて嬉しかった。シリアスな相談も少しはあったけど。

「……、ずいぶん、これでも短くなったんだぜ」

 生身の右手を、俺に見せ付けるみたいに掲げたまま、少尉は車を走らせる。左手だけの運転でも、少しも危なっかしくはない。

「無事に帰って来てくれって願かけて三週間、いっぺんも切らなかったからな。もーちょっとで字ぃ書くのにも不自由するとこだった。帰ってきたから挿れさせてくれ、って」

「……ハボック少尉」

「嫌がんの押さえつけたら怖がって泣き出してさ」

「……、聞きたくねぇよ、そんなこと」

 スキに、なったのはエロいことされたからじゃない。貰った快感は、その後が大きかった。

「がくがく震えてたから可哀想になって、指咥えて爪、噛み切ってくれたら短くしてもいいって言ってな」

「聞きたくねぇって言ってるだろッ」

 運転席のシートを蹴りつける。

 途端に車は急に曲がった。片足上げた不安定な姿勢で俺は振り回される。車は狭い路地に入った。バタンって乱暴に少尉が下りて、バタンと後部座席のドアを乱暴に開ける。

「……、蹴りつけたいのは俺の方なんだぜ、大将」

 声が低い。真っ直ぐ見据えられる。

「お前が戦地で遊んでたの俺のオンナなんだよ。意味は分かるな?」

 分かるさ。さっきから散々に聞かされりゃイヤでも。

「戦争中の遊びだったってコトで、あの人とはオトシマエついてる。そっちにとって違うってンなら、まず俺に話を通せ」

 威嚇される。びんびんな敵意で。

 ……この人は。

 ……、すごくいい人、だ。

 傷の男の時、俺と男の距離があいた瞬間、ざーっと駆けてきて俺と奴とのあいだに入って庇ってくれた。アームストロング少佐が時間稼いでる間に中尉にライフルを渡して、胸元のホルスターから拳銃を取り出して、この人は、俺を庇って、くれた。

 気さくで楽しい、いい人だ。でも今は違う。そんな甘えが許される顔じゃない。男の顔で俺を威嚇する。俺をもう、子ども扱いしてない。

 雄同士の、鳥肌たつような、シビアーな、緊張。

「俺のオンナで童貞棄てようなんざ、考えるんじゃねぇぞ」

 多分。

 本気でやったら俺が勝つ。でも多分、肝心の本気さで俺は負ける。何処にも隙がなかった。俺の出方次第じゃマジで何でもやりそうな、完全に戦闘準備に入った顔を、してる。

 俺はこの人に、完全に『敵』認識されてる。

「なんの用だか知らないが、予定なんざ組まさねぇよ。乗り回したいんなら、まず俺と喧嘩だ」

「……、違う」

 ちょっとだけビビリ入った自分が口惜しくて。

「そういう汚い用事じゃねぇよ」

 精一杯の減らず口を叩いてみた、けれど。

「舌っ足らずな甘え声でじゃれかかってたのは誰だよ。野郎がガキのフリすんのはオンナに寄ってく時だ。男はガキなんざ転がすだけだからな」

 雄同士の決闘に慣れない、経験値の差異は歴然で。

「用があんならさっさと済ませろ。済ませて、出て行け。俺のオンナに近づくな」

「オンナおんなってうるせぇよ」

「耳障りなのはその前だろ」

「うっせぇ」

 挑発されて、待たれてる事は分かってた。狭いシートの上で馬乗りみたいな姿勢で自分に勝ち目がないことも。でも黙ってられなかった。俺が肘を間和するを待ってから、予備動作抜きの一撃。頭の芯が、ブレた。

「泥水舐める覚悟がないなら近づくな。あの人が傷つく」

 うめく俺に同情の気配もみせずに、少尉は運転に戻る。脳震盪起こしたかもしれない。吐き気がした。でも意地で耐えた。

 泥水、って、ナンだ。

 大佐やさしくて暖かかったんだぜ。それだけで惚れちゃいけないのかよ。