宝来・1

 

 

 極北の地では、熊の胆・毛皮の次に貴重な。

「塗るから、目ぇ閉じろ」

 ヒグマのあぶらが、その薬局には常備されている。

 冬のヒグマの皮下脂肪をゆっくり湯煎して抽出したあぶらは純白、匂いもない。タッパーに容れて冷蔵庫に置いておけば半永久的に品質を保ち続ける。皮膚関係のトラブル、切り傷擦り傷といった外傷のほか、火傷、あかぎれ、とび火はいうに及ばず、口内炎や痔にも効能を発揮する。食べても平気なモノだから口の中にも粘膜にも塗って、何の問題もない。

それは非売品。でも坂の上の薬局の店主は強面の容姿とは裏腹に女子供には優しかった。酔った客に頭から熱湯をかけられたホステスが店のマネージャーに連れられて深夜、駆け込んできても嫌な顔一つみせずに処置をしてやるほど。

まだ春は浅く北国の夜は冷える。寝床から出てきてくれた店主は白の肌襦袢の上に正絹の長襦袢を着ている。鶸色に染めた鱗の地紋が浮いているもので、まだ生地もバリッとしていて、寝巻きにするにはもったいない品だ。

 ひく、ひっく、ホステスは泣き続けている。そのホステスの肩に掛けられたのは店主が奥から引っ掛けてきた羽織。こちらも染め返しではなく、白地を最初から藍下の黒で染め上げた贅沢なものだった。

「可愛そうに。火傷って痛いですよね」

 店主の『妹』も起きてきて戸外から雪をビニールに詰めて、赤く腫れた肌を冷やしてやる。

「これくらいなら大丈夫だ。あとは残んねーからそー泣くな。痛み止め出してやるから、飲む前にゼリー食え」

 二十歳になるかならないか、という歳若いホステスに店主は本当に優しかった。愛想笑いひとつしないくせに親身、というギャップが女心にはウケる。クマのあぶらを塗り終わって、胃を荒らさないようゼリー栄養食品を飲み込ませ、白湯を汲んでやり鎮痛剤を飲ませる。

「あ……、りがとうござ、います……」

 痛みに泣きじゃくっていたホステスがようやく落ち着き、礼の言葉を口にした。泣き止んだことにほっとしたらしい店主はようやく、袂から煙草を取り出し火を点ける。

「二・三日、化粧しないで朝昼晩、塗りつけとけ」

 フィルムの空ケースに詰めたあぶらを店主はくれた。代金を、とマネージゃーは言ったが、売り物じゃねぇからいいと答えて受け取らなかった。ソレを販売しだしたら買い手ばかりで在庫がすぐになくなってしまう。急患や悪性の出来物に悩まされる子供に、基本的には薬局の中で塗ってやる貴重品。

「おやすみ。明日になっても痛かったら、また来い」

 二人を送り出して薬局の戸を閉める。おやすみなさい、と言って山崎は一階の店舗の奥、風呂場の手前にある四畳半の私室へ引き上げた。二枚目はあくびをこらえながら二階への階段を上る。否、登ろうとした。

「……なにしてンだ?」

 踊り場で立ち止まる。暗い階段の一番上には、まだ寒いのに寝巻きを片肌脱いだ若者が座って。

「声聞いてやした」

 若者の目が据わっている。二階の寝室に布団を敷いてさぁ仲良くしよう、とした時の急患。店のくぐり戸を開けたのは一階で眠っている山崎だが、マネージゃーの助けを求める声と女の子の悲鳴を聞いて店主も階下へ降りた。臨戦態勢に近かった若者もさすがにそれは止めなかった。が、待ち遠しくて、たまらなかったから、せめて。

「三分遅かったらマス掻いてやしたぜ」

 下種な言葉を口にして挑発する年下の情人を。

「やってみせろよ」

 年上の『情婦』が、どんな気持ちで眺めているか本人は知らない。若くて可愛くて、綺麗で活きがよくて、大人の男の骨格に近づいてきた肩に内心で目を細めていることを。

「いいよ。オカズにするから、脱いで」

 知らない。

「奥でな」

 狭くて急な階段の真ん中にドンと座り込んだ青年の、艶々な茶髪に店主は手を伸ばす。見た目より柔らかいそれは従順に指に絡みつく。

「……」

 触られて機嫌を直した青年が立ち上がる。頭に載せられた手を掴んで、優しい手付きで奥の寝室へ引いた。エスコートするように。

「……オマエ」

 絡めた指先から愛情が伝わってくる。なのに、二枚目の店主は形のいい眉を寄せる。

「すげえ冷えてっぞ。つめた……」

 い、と言おうとした瞬間、パッと指を離される。素晴らしい反射神経だった。え、っと驚いた店主が若者を見る。目が合う。頭髪より薄い色の、蜂蜜のような目が怯えたような、怖がるような、怒られる子供のような、そんな気弱さを瞳孔いっぱいに湛えていた。

「いや、文句言ってんじゃなくってな」

 確かにこの若者の、冷たい指先が昔は苦手だったけど。

「風邪ひくんじゃって心配しただけだ」

 ふりほどかれた手を自分から伸ばして繋ぐ。いい歳をした男同士でなにバカなことしてんだか、という気もしたが、懐いてきた犬を間違えて叩いてしまったような、罪悪感が勝った。

「……」

 若者は大人しく握られたが、表情の強張りはとけない。俯いて握られた自分の指を見ている。その手を店主が今度は引いて、既に布団の敷かれた奥の、寝室へ。

「……、って、……」

 襖を開けた瞬間に腕を引かれ、そのまま天地が入れ替わった。繋いだ手を中心に、柔道の内股に近い姿勢で布団の上に投げ出されたのだという事は、覆い被さられた後で理解した。背中が当る寸前に胸を引かれたので、そんなに激しく叩きつけられた訳ではなかったが、それでも息は詰まる。

「ちょ、待てって、服……ッ」

 衣装道楽の気がある店主は襦袢が皺になるのを嫌がって暴れたが、今度は同じく柔道の、袈裟固めに似た姿勢で押さえ込まれてしまう。わき腹に重心をかけられ、首を右腕で挟まれ右腕を脇で挟まれて、じたばた、足掻いたところで腹から上には力が入らず、跳ね返せなかった。

「おいッ」

「明日、寝込みたくなきゃ、思い通りにさせな」

 静かな声で耳元に、告げられた言葉は明らかな恫喝。ムッとして、腹は立ったが、逆らわないでおいた。押さえ込まれた首筋を這う舌が尋常ではない熱を帯びていて。

「……そーご」

 逆らうと怖いことになりそう。

「なに」

「乱暴、すんなよ?」

 自由な左手で帯を解きながら言った。若者はさぁね、という雰囲気で居たが、オンナが自分から裾を割って、膝を立てた狭間を一瞥するなり表情を変える。

「あんた……」

 湯上りで、寝床に入る寸前だった。

「……、痛いこたぁ、しねぇよ」

 オンナは下着をつけていない。愛し合うつもりだったから。それを見るなり若者の目つきも口調も和んだ。

「あんたが腹に乗せてる限り、俺ぁワンだぜ。知ってるだろぉ?」

 押さえ込んだ情婦の上から若者は一旦退いて、オンナが襦袢を脱ぐ間を与えた。旗襦袢は脱がせずもう一度、覆い被さったが、今度は肘を敷布について体重をかけない優しいやり方。

「ん……」

 頬を寄せられる。目を伏せていたオンナが応じて顔を傾げる。唇が重なる。隙間を舐められ望みどおり開いた。舌が入ってくる。びく、っと全身でオンナは反応した。本当に熱い。

「……」

 若者が喉の奥で笑う。目を細めているのが見なくても分かった。自分の反応を悦んでいる。分かっていても、オンナはどう仕様もない。ヤワな粘膜は熱伝導率が高い。どえしようも、ない。

「……、しゃぶって、いい?」

 ひらいた肌襦袢の裾の片方を、わざわざ狭間の上に戻して、若者の指先が膨らみを揉む。冷たい指先で直に触れないのは愛情。でもけっこう容赦ない力で。オンナは反射的に肩を捻って逃れようとするが、若者は顎でそれを押さえつけた。

「……、ッ、あ……」

「いい?」

「イ……ッ」

「いい、ね?」

「いゃ……、ひ……ッ」

 このオンナがその奉仕をされるのが苦手で、嫌っていることを、知っているくせに情夫は強引かつ素早い。起き上がりオンナの腰を肌襦袢ごしに押さえて、腰骨の内側を指先でえぐるようにして、ビクッとさせておいて一息に喉まで。

「……、ァ……ッ」

 飲み込まれてしまえば、もう。

「……、ヤメ……」

 なきごえ、を、上げることしか出来なくなる。

「や……、メ……。ッ、あ……」

 オンナの声を聞きながらオトコは目を細め、熱心に舌を使う。頬が窪むほど吸って、絡めて唇で絞るように出し入れ。膝の間に入り込まれたオンナは足を閉じることが出来ない。それでも手を伸ばし男の頭を押しやろうとするが、逆らおうとした罰に深々と飲み込まれて、ごくりとわざと、喉を動かされて。

「……、や……、ぁ」

 指先から力が抜けてしまう。男のクチの中は焼き殺されそうに熱い。その上、喉仏の骨がゴリッとアタって、オンナをヨがらせ、苦しめる。

「うぁ、ア、ぅ……、ヴ……」

 泣きが入るのはけっこう早い。

「ご……、そ、ご……」

 セックスの時だけは。

「たの……、むか、ら……」

 まだ髪を掴んでいたオンナの指先がオトコの後ろ頭を、引き剥がすためでなく機嫌をとるように撫でる。優しくされるとオトコは弱かった。渋々、という表情で美味そうに舐めしゃぶっていたノを口の中から出す。ほっとしたのオンナは息をつき、そして。

「……マス掻いて見せてくれンの?」

 自分の掌で包みこむ。限界が近かった。

「サービスいいんじゃねぇ?ついでにこっち向いてよ。俺のこと見ながらイって?」

 痴れたことを言いながら男はカラダを伸ばしてオンナの顎に手を掛ける。肩で息をしながら熱に耐えていたオンナが薄く、目を開く。長い睫の隙間から、てらりと濡れてまるで金属のように、光る瞳が映したのは、ひどく嬉しそうな若いオトコ。