よく晴れた冬の朝。気温は低いが風がないせいで、日向はけっこう暖かい。煙の上がる藁葺き小屋の戸口で、鹿の毛皮を肩にかけ板戸にもたれながら煙管で煙草を吸っていた美形は。
「……」
風呂上がりの二枚目に向かって口角を上げた。ほんのかすかな仕草だったが、それで朝の挨拶とふかほこな姿に対する感想を済ませる。唇の角度ひとつで世界を支配しそうなカリスマ性は根雪に包まれた山奥でも見事に健在。
「おぅ」
二枚目も短く答え、ついでに美形の横に並んで袂から煙草を取り出し、咥えて火を点ける。
朝っぱらから小屋の中で煙草を吸うと桂あたりに怒られるのだろうと思った。自分は客なので何も言われないかもしれないけれど、その待遇に甘えるのは本意ではなかった。
並んでみると朝日に照らされた壁が温まっており、顔のあたりは庇で陰になってまぶしくもない絶好の蛍場。屋内で吸わせてもらえず外に追い出された喫煙者が煙草を吸う場所のことを二枚目の地元ではそんな風に呼ぶ。
「刻み煙草」
「ん?」
「手に入んねぇか」
紫煙とともに囁くような声で尋ねられる。美形が愛用の煙管に詰めて吸っているのは二枚目が持ってきた紙巻煙草の中身をほぐしたもの。煙管用の、髪の毛のように細く加工された刻み煙草とは燃え方も味も違う。
「いいぜ、送ってやる。外国産になるけどな」
港の氷が溶けて船が入りだした函館では、国内産よりも海を隔てた露西亜産の物資が手に入りやすい。
「……」
隻眼の美形は礼を言わなかった。言葉にしては一言も。けれど目じりが嬉しそうに和む。光が差したように明るくなった表情には何でもしてやりたくなるような気持ちになる魅力があって、なるほどなあと改めて、二枚に色々なことを納得させる。
コレに惚れこんだ鬼兵隊たちの狂信的な強さと頑固さの理由。理屈でないから恐ろしくカタい。宗教的とさえいえる。そんな組織なのに高杉という主神に捨てられて、さぞや江戸では仲間たちが周章狼狽しているのだろう。
「まだ帰らないのか?」
刻み煙草を自分に頼む以上はここへの滞在を続けるつもりだと、二枚目は解釈してそう尋ねる。
「オレはな」
真っ直ぐな問いかけに美形はあっさりと答える。頭脳派・策謀家と称されるにしては駆け引きのない、率直過ぎる会話。
「もう大丈夫なのか?」
この美形は昨年の秋、何度も暗殺されかかった桂小太郎を誘拐してこの北へやって来た。地位も名誉も勝利者としての利権も、作り上げた組織さえあっさりと捨てて、かつて政敵として敵対したこともある桂を庇った。
「うちの連中がベタつきすることになってる」
「鬼退治を夜叉に任せるってか」
強硬な過激派として知られた鬼兵隊が警護につくというのなら、手を出そうという者は少ないだろう。代わりに鬼兵隊はかつての同士から裏切り者と罵られることになる。
ニィ、と、美形は煙を吐き出しながら笑う。凶相だがゾクリとするような凄みのある微笑み。裏切りという語句はこのカリスマにとって特別な響きを持つ。そう罵られることを望んでいるような振る舞いをすることが以前からあった。かつて自分が受けた裏切りの代償を世間に払わせているようなところが。
けれど突然、まるで遊びに飽きた子供のように、美形はふっとその笑みをかき消して。
「煙草なら袂だ」
煙管を唇から離し、隣に立つ二枚目の着流しの懐へ顔を寄せる。そうしてくくっと、今度は喉の奥で笑う。
「どのへんが、ヤツの気に入ったのかと思ってな」
「んー?」
「夜叉ってぇならホンモノを一人知ってる」
「あぁ……」
白髪頭の万事屋が昔そう呼ばれていたことは二枚目も知らないではない。出会ったときには既に引退後だったから実感は少ないけれど、実力は確かに、そんな呼称が似合わないでもない。
「オレが知ってる銀時はオンナにでかい顔されんのを、笑って許すヤツじゃなかった」
昔の話を懐かしそうに美形は口にする。
「……」
顔だけでなく態度全般、横暴の限りを尽くしている自覚のある二枚目は黙り込む。
「冷たいところがある奴だった。馴染みの女にも外では笑いかけさせもしなかった。ふたまたなんざかけられた日にゃ目もくれないで、突き飛ばして終わりだ」
「若いうちは、みんなそんな風だろ」
女という生き物に馴染まないうちは必要以上に露悪的な態度をとってしまうことがよくある。身内に美女がずらりと揃ったこの二枚目は、ヘイヘイと頭を低くすることに慣れていて、そのせいでひどくもてるのだが。
「そういうんじゃねぇ。あいつは親父に鍛えられすぎてアタマのドッカがおかしくなってンだ」
自分のオトコに関する、自分が知らない頃の話を聞かされる。昨夜、寝ていなければ、妬けたかもしれない。
「闘犬みたいな、ところがあった」
それは、確かに。
「今でも、だろ」
特殊な目的の為に心身を矯正することが訓練ならば武士も土佐犬も過酷なそれを受けている。訓練に耐えられなければ生き延びられないというくらいの厳しさの中で、心の何処かが麻痺してしまうのはありがちな出来事。
白髪頭の男にもその気配はある。本人が自覚していて隠そうなくそうとしているけれど、ひやりとするほど怖いところが、やっぱり消しきれず残っている。その部分が過去の戦場で夜叉と呼ばれたのだろう。
「そうだな。てっきり腑抜けやがったと、思っていたら意外にしぶとい。まぁでも、オレが今、興味があんのはヤツのことじゃねぇ」
「あぁー?」
懐に懐かれながら微動だにせず、二枚目は煙草を吸い続ける。煙が流れていく先には佐々木異三郎が、おもてになる事だと感心した様子で二人を眺めている。
「アイツの牙をどーやって引き抜いた?」
「オレは抜いてねぇ」
「しらばっくれンなよ。夕べのヤツの態度にゃ驚いたぜ。よっぽどお気に召してンだろ?」
「妬くなよ。絡むな」
「そんなんじゃねぇよ」
「ビミョーにそんなんだろ」
決め付けて笑う二枚目の目尻の艶は美形のカリスマに負けていない。
「アイツはてめぇを自分のガキみたいだって言ってたぜ」
「ジョーダンでも寒いな」
「桂大臣と一緒に育てたような時期があって、それで今でも、どうしても憎めないって、よ」
「はっ」
「嘘ってわけでもないんだろ。それ聞いてオレは納得したぜ。今のこの状況は、ろくでなしの親父と札付きの放蕩息子が、実家まもってくれてた母親の危機に揃って青ざめて、一時休戦して協力し合ってンだ」
「ああ、なるほど」
思わず、という様子で声を出した佐々木をぎろりと、高杉が睨む。けれど否定はしなかった。確かに二人で桂をハメて、政争のただ中からこんな僻地へ自分ごと隔離した。いっそ健気なほどの愛情。
「アイツがオレに甘い顔しないでもないのはオレが玄人じゃねぇからだ」
二枚目の台詞に、高杉はやや納得の表情を浮かべる。確かに以前の白夜叉の『馴染み』はプロの売春婦ばかりだった。家同士で決まった許婚は居たが、そっちとは何もないうちに可哀想なことになった。
「オマエラの仲を邪魔しやしねぇから妬くな」
二枚目の台詞に高杉が何かを言い返そうとした、その時。
「土方さん、なか入ってください。湯冷めしますよ」
小屋の戸があいて三角布で頭を包んだ山崎が声を掛ける。おぅ、と答えて二枚目は煙草を消し小屋の中へ。近藤勲の、よく眠れたかとか何とかの声がして、そして。
「ナニしてんの、オマエ」
がらり、開いた戸から出てきたのは白髪頭の男。
「……」
見りゃ分かるだろ煙草吸ってんだテメェこそナニしに出て来た、と、視線だけで高杉は答える。
「ナンか、中で、始まったからさ」
部外者は遠慮して場を外したらしい。ふん、と高杉は鼻の先で笑う。逃げ出して来たのかヘタレめ、という様子で。
「うるせぇ、ほっとけ」
視線と表情だけで会話が成立する関係を佐々木は黙ったまま、じっと眺めている。
「もらってやるぜ」
ふーっと最後の紫煙を寒気に吐き出して、高杉は瞳を伏せた。
「気に入った。貰ってやる」
「なに言ってんだよ、やんねーよ」
「幕府に返さずに、オレのところに置いてていいんだな?」
「いいけど、お前んとこのに手ぇ出させんなよ。特にあの、たちわるそうでカラダがいいアレに、絶対触るなって言っとけ」
「言えってんならいってもいいが、アイツにそんなことを言うのは美味いらしいぞって教えてやるようなモンだぜ?」
「鶴の一声きかせとけってんだ。オマエが殿様のご猟場荒らしたとき、オレとヅラが何回、助けにいってやったか忘れたか?」
「わすれた」
明るい朝日の下で交わされる悪い会話を、佐々木は微妙な表情で聞いている。
「……」
聞かせていいのか、と、また高杉が視線で万事屋に尋ねる。
「どうせアイツは、もう全部分かってる」
苦い表情で万事屋は自棄気味に答えた。
「最初に全部、一瞬で気づきやがった。なのに黙って、ここに居やがンのは、ゴリ庇う為だ」
自分の『ボス』である近藤勲の身代わりになるつもり。その愛情と献身がにくくて、万事屋の表情は苦々しい。
「時々、マジに、ハメてやろーかと思うぜ」
「売るなら買うぞ」
「ひとに渡すかよ」
「手持ちするつもりなら全然マジじゃねぇ。アレをホンキでハメんならオレに売るのが一番、色々面白れぇ」
心の甘さを指摘されて。
「オマエ昔っから変わんねぇヤなガキだな」
万事屋は悪童の頃の高杉を叱る口調になる。
「図星さして絶句させていい気になるんじゃねぇ。憎まれて足元すくわれっぞ」
「ああいうのを、ヤんのはどんな気分だ?」
親身な忠告を全く聞く気のない高杉が尋ねる。真摯に問われたからつい、真面目に答えようとして口を開きかけた万事屋は。
「……言わねぇよ」
途中で気づいて開いた口を閉じる。
「オマエにろくでもねえことばっか教えるって、ヅラに何回怒られたか知れねぇ」
語尾にガタリと、戸の開く音が重なって。
「オレがどうした?」
万事屋よりも察しの遅かった桂が小屋から出てくる。無意識に顔を近づけあって話していた二人を見るなり形のいい眉を寄せ、露骨に嫌そうな表情。
「また何か、性質の悪いことをたくらんでいるな?」
決め付けられて高杉は否定せず笑う。
「ンだぁヅラぁー、命の恩人にそれはねぇだろ」
「お前たちが助けようとしてくれた目的は疑っていない」
去年の秋、有無をいわさず拉致され誘拐されて、こんな僻地へ連れてこられた桂は誘拐の実行犯と首謀者を睨み付ける。新政府の公邸へ、珍しく『遊びに』来た万事屋にたかられるまま料亭の個室で飲み交わし酔いつぶれ、目を覚ましたら海に浮かんだ船の上。
「だが手段を許した訳ではない。それは覚えておけ」
船旅には政敵である筈の高杉が政務も組織も悪巧みも放り出して同行という、とっさには現実であることが信じられない事態だった。
「てめぇみてぇな頑固モンにクチでナニ言ったってムダだろ。手間ぁ省いただけだ」
悪かったとは全く思っていない万事屋が決めつけたところでまた、小屋の戸が開く。
「どうも、お気遣いいただきまして、申し訳ありません」
柔和な笑顔で出てきたのは山崎。右手の桶にはクマザサの葉が敷かれ付近が掛けられて、中身は握り飯らしい。左手に提げた手鍋からは蓋の下から味噌汁の匂い。
「ちょっと時間がかかりそうでして。旦那の離れで、食事にしようと思います」
「そーしてよジミー君。腹減った」
「だな。食ったら風呂に入りに行こうぜ」
「お言葉に甘えよう」
歩き出す一行の最後について移動する佐々木がすっと、山崎退に近づいて。
「お持ちしましょう」
重い鍋に手を伸ばす。どーもー、と、あまり感謝している様子でもなく山崎は鍋を持ってもらう。
「あなたは」
と、鍋を運びながら佐々木が声を掛けたのは万事屋に向かって。
「中に行かなくてよいのですか?」
尋ねられた万事屋はギロリと佐々木を睨む。かなり本気の憎悪が篭った眼光は悔しさの裏返し。
心のどこかにおかしなところがあって、弱ったオンナに頼ってもらえない気質であることを本人が一番、悔しく情けなく思っているのだった。