鹿は三頭、罠にかかっていた。

「持ち帰れないので、雌の二頭は逃がした」

 近藤勲が担いできたのは血と臓物を抜いても四十キロほどはある若い雄。成長しきれば軽く百キロは超えるから、これは去年の秋に生まれた、まだ一歳にも満たない個体だ。

「脂がのってて、こいつは美味いぞぉー」

 桂は鹿を担いでは居なかったが、血の匂いに引かれてヒグマが起きることを警戒して刀を手に周囲を警戒しつつ帰路で見つけて引き抜いたユリ根を合羽の袂から幾つも出す。近藤勲が鹿をどさりと母屋の土間におろす。鹿は目を閉じていて、喉を切られて血抜きをされた鹿から血は流れなかった。

「ひいっ!ナンマンダブ、なんまんだぶー」

 竈で炊いた米を握り飯にしていた山崎は鹿の死体を見るなり手を合わせ、念仏を唱える。

「はは、山崎は優しいな。鹿も成仏出来るだろう」

 近藤勲がにこにこと笑う。

「この都会人め」

 囲炉裏に炭を熾して湯を沸かし、焼酎を割りながら黒髪の二枚目は山崎を叱咤する。江戸の郊外で生まれ育った二枚は山での狩りに慣れていて、それは中国山地を擁する長州出身の桂や高杉も同様。近藤の生家は関東平野で山地とは無縁だが、それでも獲った鴨や兎の血抜きをして羽を毟ったことくらいは日常的にあった。

 捕獲した動物を『食肉』にする作業をしたことがなかったのは大坂の妓楼育ちの山崎だけである。

「なんとでも言ってくださいー。オレしやっぱり、こーゆーの、かわいそうにって思っちまいますよ。うぅっ」

「そーかよ。じゃーてめぇ、食わなくていいぜ」

 雪道を山襞の向こうまで往復した二人に、熱い酒を茶碗で渡しながら二枚目が憎まれ口を叩く。

「それとこれとは別ですー」

 情けない顔をしながらも流しから柳刃の包丁を手にして、山崎は立ち上がる。四肢を広げられた鹿はまず、土間で皮を丁寧に剥がれた。そうして首を切り落とせばかなり「肉」に近くなる。

「えーと、えーと。ここがヒレで、こっちがロースで。シンタマに、ランイチと内モモは熟成しなくても美味しいかな。あ、局長、そのスネを棄てないでください、ダシに使います」

 ヒーヒー言いながらも切り分ける手つきは手馴れたもの。ざくざくと腱を上手に切断してキロ単位のブロック肉にしていく。肩肉が4キロ、ロースが2キロ、ヒレが数百グラム、内モモが3キロに外モモが4キロ、バラが3キロにすね肉やその他が3キロほどに、手際よく解体された。

「肩と外モモは油紙に包んで熟成して、明日、食べることにしましょう。土方さん、刺身はダメです。野生動物ですよ」

 美味そうなヒレの色艶に見惚れていた内心を見透かされて二枚目は不満そうな表情。

「かたじけない。ああ、美味い焼酎だ。香りがいい」

 茶碗を行儀よく受け取った桂が中のお湯割りに口をつけ目元を緩める。南の島で産する黒糖焼酎は最近の二枚目のお気に入り。サトウキビから作る酒だが甘みは殆どない。香りは穏やかで温まれば馥郁とみちてくるあたりブランデーに似ている。現地では庶民的な酒だが、この北国では超がつく高級酒。英吉利経由で無理をして沖田が手に入れたものだ。

「本当だ美味い。とても温まる」

「ところで、はるは?」

 土間で鹿肉をスライスする山崎と、炉で炭を熾す二枚目。竹串に肉を刺していく白髪頭の万事屋に、部屋の隅に端座する佐々木異三郎。一人が足りないことに桂が気づき、問いかけを発する。

「そこだ。先に一杯やって寝てやがる」

 言われてみれば万屋の膝の前には醤油色にてかてかと光る鴨のロースト。炉に吊って半燻製のように炙られた皮は食欲をそそる色合い。そして万屋が竹串の先で示す部屋の隅には毛皮が何枚も重ねられている。足を拭って板の間にあがった桂が鹿皮や熊皮を取り除くと、その下で隻眼の美形は眠っていた。身体を丸くして、くぅくぅと安らかに。

「行儀が悪いぞ、起きろ、はる。これから皆で夕食だ、お前もちゃんと手伝え」

 桂が叱咤する。肩を掴んで揺すぶられ高杉はうっすら目を開いた。内側には酔いが廻っている。

「おい……、はるっ」

 ずるり、と、婀娜な動きは起き上がったのではなく桂の膝に頭を預けただけ。濡れた目が再び閉じられて、すーっと深い息を残して、また眠りの中へ。

「飲ませすぎだ、銀時」

「オレかよ」

「お前以外の誰が居る」

「そいつ」

 と、万事屋が串肉を炉に並べながら顎先で示した先は、謹厳そうな正座を崩さない佐々木。

「お相手をさせていただきました」

 と、佐々木はたいそう、桂に丁寧な挨拶をする。

「有難いが、明日からは潰さない程度にしてくれ」

 桂の態度は佐々木に刺々しい。『息子』の悪友、酔狂なところが似通った悪いトモダチだと思っている。それでも一緒に居ると『息子』が楽しそうだから付き合いを止めろとも言い切れない甘い『母親』のようなところがある。

 その桂の膝に頭を預け、無防備に眠る高杉に、その場の全員がしばらく見惚れた。維新戦争で敵も味方も震撼させ悪夢の別名と称された美しくも禍々しいその目を閉じていると本当に若い。

「総悟と、いくつ違うんだ?」

 二枚目が思わず尋ねるほど。

「坊やっていくつだっけ?」

「二十二だ」

「こいつが三つ四つ上だぜ」

 とすると長州戦争の頃はまだほんの少年。生家が名門だったせいで初陣の時から指揮官で、そのまま血と修羅の中を駆け抜けてきた異形の祟り神。

「こうしていると、何もかも夢だった気がする」

 しみじみとした口調で桂が呟く。鹿肉の脂が炭火に炙られて串を刺した穴から流れ出す。

「色々と、思いがけないことばかり、起きた」

 田舎の城下町に生まれて育った。平穏な時代ならそこで静かに年老いただろう。激動の次第に揉まれるうちに思いがけない立場になってしまった。可愛がって手をかけて愛しあった筈の相手と袂を分かつ痛みも経験した。さらばと別れた筈の相手が今、目の前で眠っている、この今こそが、嘘のような気がする。

「奇跡のような冬だった」

 眠る高杉の前髪を梳くフリをして撫でる桂の感慨が空間を浸していく。雪に閉ざされ閉じ込められて一冬、外界の流れと隔てられた水晶玉の中で過ごした。

「海の氷はずいぶん沖に流れていた。航路は二・三日中にひらくだろう」

 その時はやがて終わる。山の上から海原を眺めて、流氷の向こうに終了が立っているのを見た。

「おれは江戸に帰る。これはまた勝手なことをするのだろう。お前はどうする、銀時」

「さぁねぇ、どーしよーかねぇー」

 韜晦したというより流れ者だと自身を諦めているような声で白髪頭の万事屋は言った。思想にも仲間にも絶望して人生を一度棄てたことのある男の、熱をなくして擦れた気配がふっと漂う。気になる目つきでその男は、今でない時を眺めている。

「まぁ、とにかくご飯を、まず食べましょう。高杉さんは飲みながら鴨を半羽、腹に入れてられますから大丈夫ですよ」

 食卓を仕切る山崎が鹿肉の串にガリーック胡椒を振る。脂と混ざった大蒜の匂いはその場に満ちた感慨を駆逐する。動物の解体には弱いが現実というものと一番、したたかに組みあっているのは食事と生活を細々と仕切る山崎かもしれない。

「船が来たら、お前も江戸に戻るのか、トシ?」

 鹿肉にかぶりつき、酒を煽りながら近藤勲はあっけからんと旧友に尋ねる。

「一遍はもどって様子見て来なきゃならねえだろーな」

 攘夷派の、否、鬼兵隊の船が来れば『同盟』の人質として江戸へ同行させられるだろう二枚目は、事態をそんな風に言った。

「そっちがうまく動き出すよーなら連絡する。あんたそしたらココ引き上げて函館行って、総悟の奴に喝入れてやってくれ」

「はは。トシは厳しいな。総悟はよくやっているじゃないか」

「えー、トシちゃんは優しいよねぇ、総悟君にはもの凄くー。銀さん妬いちゃうくらいー」

 万事屋の厭味を全員が黙殺、聞き流す。黙々と肉と飯と酒を口に運びながら、佐々木だけがちらりと、昔なじみの二枚目へ視線を流した。

 

 

 

 食べて飲んで、ざっと片付けて、二枚目と万事屋は離れに引き上げる。途中で目覚めた高杉を連れて桂も別棟へ行った。佐々木と山崎は近藤とともに母屋で眠っている。

「っ、てぇ」

 戸を閉めて、とぼそを落として寝床に押し倒されて、枕でない床に頭をぶつけた二枚目が文句を言ったが本気ではない。仰向けにされた下腹に膝で跨った姿勢のまま、さっさと服を脱ぐ男の強引さは嫌いではない。

「一緒に、行く」

 引き据えた相手を見下ろしながら、男は気持ちを固めた声を出した。

「あー?」

「江戸までついてってやる」

「いらねぇよ。オマエ、鬼兵隊は色々やべぇんじゃねぇか?」

「オマエ一人で行かせられっかよ。どいつ引っ張り込むか分かったもんじゃねぇ」

 性悪女のように言われても二枚目は怒らない。面白そうに、目尻で笑いながら、

「ご期待にそって、若いカリスマ狙い撃ってみるかな」

 口にした台詞ははっきりと挑発。二枚目の着物の襟に手をかけた男の動きがぴたりと止まったほどの。

「見目は桂の方が好みだが、あっちはコマしてみたい系だ」

 わざと怒らせようとしている。分かっている。分かっているが尚、頭にのぼっていく血を、男はどうしようもなかった。

「……オマエ」

 突然の喧嘩腰に、ナニを考えているのかと問うまでもなく。

「妬いてんのが、てめぇだけだと思うなよ」

 自分の前で、自分の男が、昔の仲間に優しい目をしてみせたのが気に入らないのだ、と。

「ちゃんとしねぇと、アッチに行くぜ?」

 笑うオンナは、世界一の度胸。