暴風雪は夜半に収まった。低気圧が去った代わりに空気は恐ろしいほど冷えて、夜明け前の気温は氷点下十度近いだろう。

「さみ、さみぃ、さみーよ、ちょっと、おいぃー」

 山襞に位置する集落の夜明けは遅い。東の空がうっすら明るくなってから夜明けまでの薄暮が何時間もある。数日の雨は積雪の表面を溶かしたが、そのまま凍結して滑りやすいブラックアイスバーン状態。カンジキを履いてさえ滑り落ちそうになる山道を、夜明け前からよじ登って温泉に入っているのは真撰組きっての風呂好きなもと副長。

「まだですかコノヤロー、オマエちょっとは待ってる俺に気ぃ使いやがれ。女の子みたいに長湯なんだからもーッ」

 防寒の為に毛皮を何枚も重ねて着込んで尚、ガクガク震えながら二枚目の入浴に付き添い、冬眠あけのヒグマを警戒しているのは白髪頭の万事屋。愛用の木刀だけでなく、右手に手斧を持って指が冷えないよう脇の下に挟んでいる。

かなり本気で周囲を警戒しているのは、暴風雪で冬眠から目覚めたとおぼしくヒグマの大きな足跡を途中でみかけたから。集落の幾つかの棟を伺うように、足跡は重なったまま凍りついていた。冬戻った山には植物の芽吹きもなく沢を漁ることも出来ない。冬眠から目覚めたばかりの獣には奥山へ鹿を追いに行く体力はないだろう。ヒグマが生き延びるには集落を襲うしかない。

「はーやく、あがってー、みんなにー、気をつけろって、触れてまわろーぜぇ、なぁー」

 万事屋は二枚目の真面目さと責任感に訴える。形のいい鼻先で黒髪の二枚目は男の台詞を笑い飛ばす。いい湯加減の湯船で悠々と手足を伸ばす。何日も屋内に閉じ込められて、することもないまま汗まみれのセックスを繰り返していた。カラダとセックスは気に入っていた相手をほしいままに貪った結果の、甘い痺れと疲労を洗い流さなければ、夜があけそうにない。

「あーもーこれだから、いーオンナはイヤなんだよー。ヤった後でオトコが逆らえないの分かってやがんのが無茶苦茶にくらしいんですけどー、チクショウ」

 万事屋の悪口雑言を二枚目は聞き流す。江戸の頃から長年の付き合いで、悪罵のふりをした『おごちそうさま』だと分かっているから。この温泉も二枚目が誘ったのではない。近藤勲が起居する母屋からは煙が出ていた。山崎は起きて竈に釜を掛けているのだ。きりがいいところでお供させる気でそっと寝床から起きたら、男も目覚めて、自分から付いて来た。

まだ未練がある、名残惜しい、離れがたい、といった様子で。その正直な態度はオンナにとって、愉快でないこともない。

「それぐらいしたってバチは当たんねぇだろ」

ゆっくり、湯の中で二枚目は姿勢を変えた。湯船の縁に肘をけ湯面から肩を出す。しなやかに筋肉のノった、すらりと伸びた腕がただ動いているだけ妙にセクシーだ。苫で葺かれた簡単な屋根で湯気が結露し、雫が落ちる音と男が生唾を飲む音とが、妙に大きく聞こえた。

「こっちは散々、てめぇに啼かされたんだ。えげつなさに磨きがかかったんじゃねぇか」

 二枚目の台詞も、クレームのふりをした『おごちそうさま』。腹の底まで堪能した満足を正直に告げている。

「ツラに似合わない色悪だよなぁ、テメェ」

「……あ」

 アンタに言われるほどじゃねぇよと男は言い返そうとした。けれど途中で顔がにやけてしまった。ため息のふりをして今更の照れを隠そうとしたが、隠せていないのは自分で分かっていた。

「ああ、もー、なぁ。セックス褒められて嬉しいなんで幾つだよオレは」

「そりゃ、幾つになったってオトコの沽券だろ」

 性悪のオンナにさらりととどめをさされる。寒いと文句を言う口さえ閉じて、男は二枚目が思う存分、温まるのを待ってやった。体の芯まで温もって肌を拭い、上から下まで新しい下着を身に着けて、足袋まで仕立て下ろしのハセコが固い真っ白のものを履いて、服も防寒重視の厚手の綿入りパンツにセーターではなく膝丈の半襦袢に正絹の着流し、紬の羽織という粋な姿。

「……オタク、さぁ」

 キメた格好に男が何かを言いかける。嵐が流氷を沖へ流せば本土からの船が来ることを分かっている二枚目が、人質になる覚悟の正装だと思った。そんなに覚悟を固めなくたってオレがついてっから大丈夫だと、言わでもの台詞が口からこぼれそうになった。

 らしくない感傷を、可哀想という気分を、そしてそれが近藤勲の為であるという胸を焦がす嫉妬をごくり、また飲み込んで。

「相変わらず洒落者だねぇ」

 艶やかさを褒め上げる戯言にしてしまう。実際、腰高のスタイルのよさが引き立つ婀娜な姿だった。

「何処に居たって一番格好いいぜ、トシチャン」

 歌舞伎町きってのホストクラブの店長からナンバーワンになれる素質だと評されたこともある二枚目。愛想はないが礼儀正しくて、べたべたしないが女子供に本当は優しい。真撰組きってのモテ男にはモテるだけの理由がきちんとある。静かな気合と覚悟のよさが、二親から貰った顔立ちの良さを更に磨き上げて、咥えた煙草に火を点ける目元は、なんともいえない凄みを纏っている。

「銀さん今、マジで見惚れました。ほれぼれー」

 白旗を揚げることに男は戸惑いがない。自分のオンナを褒めるのは一種の快感で、それは自惚れの愉悦。

「オレだって、いまさら」

「腹減ったな」

 山襞の中腹にある沢からは樹木に遮られて集落は見えない。けれど薄暮の空に一筋の煙が立ち上っている。人の住む場所を、暖かな食卓を連想させる煙が。

「こんな上玉と他人になりたかないよ」

「ぐずぐずすんな、行くぜ」

「オタクの背中から、オレ剥がれねぇから」

「ヒモ宣言かよ。てめぇ抱えるほどの甲斐性ねぇぞ俺ぁ」

「だねぇ、九ちゃんちのコに養育費も払ってないもんねぇー」

「ほっとけ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷え込んだ朝だが、それでも明るくなってくる刺すような寒気も和らぐ。数日を屋内に閉じ込められた隊士たちは新鮮な空気を求めて外へ出てくる。そして広場にはぐつぐつと、芋や野菜が大鍋で煮えていた。

「ううっ、ナンマンダブ、なんまんだぶー」

 数日前と同じ涙目で、山崎は大きなまな板を屋外へ持ち出し、筵の上で一抱えほどの肉を切り分ける。肉は本当に大きい。誇張ではなく西瓜ほどもある。なにせ小山ような大きさの、200キロはありそうなヒグマからたった今、とれたばかりの、アバラつきの背肉。

「せっかくの金毛なのに、なんで頭を切り落とすんですかー」

 生々しい『食肉処理』に泣き言を言いつつ、珍しい色の毛皮が剥製としての価値をなくしてしまうことは責める。

「手が勝手に動いた。すまない」

 刀の血を枯れ草で拭いつつ答えたのは桂。急所の鼻面を本能的に狙った結果は、頭蓋骨ごとの見事な切断。近距離からの拝み打ちで頭を縦にほぼ半分に、切り落とした技量はただごとではない。

「ヅラぁ、諦めろ。拭いたって刃こぼれはなおらねぇよ」

 広間の片隅に座り込んで刀を弄っている桂の背後から、隻眼の美形が声を掛ける。こちらはマサカリを右手に持ち、その刃もクマの血で真っ赤に染まっている。

 飢えたヒグマは二人ではなくたくさんの『獲物』が居る集落を襲ったらしい。そうして見事に返り討ちにされた。

「江戸に帰ってから脇差に研ぎなおすしかねぇだろ」

 風呂上りの二枚目が桂の手元を覗き込む。刀の中ほどが刃こぼれして欠けている。それが旧君主からの拝領品と知っている万事屋はアチャーという顔をした。

「諦めろぉ、ズラぁ。しょーがねぇだろ、刀は消耗品だぁー」

 日本刀は鋭いけれど薄い。骨に当てれば刃こぼれするし、生身の敵を三人も切れば脂が巻いて切れ味が鈍る。昔、江戸城の控えのまで同僚たちの嫌がらせに耐えかねて『乱心』、同役たちを切りまくった旗本が居たが、それも即死で仕留めきれたのは三人まで、以後は打撃で重傷を負わせただけだった。

「……」

 二枚目が煙草を唇から外す。ふーっと紫煙を吐き出した。その仕草でにやけそうな口元を隠す。けれど。

「はい、土方さん、どうぞ。すごい笑顔ですね」

 剥製に出来ないヒグマの毛皮から、どうせ使わない爪を引き抜いて上司に渡す山崎にはバレてしまう。親ばか丸出しの微笑を。沖田総悟は、同じようにヒグマの頭蓋骨を真横に切り落としても、刀の刃に擦り傷ひとつ付けない。

「クマの肉って初めて食うかも。美味い?」

「秋に食ったのはけっこういけたぞ!でも今日のはどうかな、ちょっと痩せているな」

「美味くても不味くても栄養です。腹いっぱい食いましょう」

「そうだな、山崎の言うとおりだ。感謝していただこう」

 アバラ肉は塩をふられて焚き火で炙られる。背骨の内側、ヒレ肉はぶつ切で味噌味の鍋に入れられる。鍋には小麦粉を練った団子も投入され、肉は違うが、豚汁のような見た目。

「あんまりクセないんだねー」

「赤身ですからね」

「食べられないことはないね。おなかすいてるし」

「スポンジみたいだな」

「武士が食べ物に不足を言ってはいかん」

「戦場では蛇もイタチも食べましたな」

 佐々木も椀につがれた熊汁を啜る。脂の乗りは悪いが味噌の風味と暖かさはご馳走で、文句を言った高杉もアバラ肉まで残さずに食べた。

 そして。

「また本日はご立派なご装束で」

 粋な着物姿に、いま気が付いたように褒める。

「江戸の若殿様のようですな」

 みなが寝起きの、顔もろくに洗わないでいる中、真撰組もと副長の湯上り姿は清らかに冴えて見える。佐々木の言葉を二枚目は聞き流し、そして。

「そろそろ、沖に見えるんじゃねぇか?」

 温泉があるのとは反対側の稜線を見ながら言う。風が収まった夜半に八戸港を出航した船が襟裳をまわって根室の沖に現れる頃ではないか、と。

「かもな」

 戊辰戦争きっての剛腕、鬼兵隊という最強部隊を率いた隻眼のカリスマは他人事のように言った。

「行こうぜ、出迎えに」

 陰りなく笑う二枚目を、白髪頭の万事屋は痛々しく眺めた。

 

 

 

 

 

 眺めたの、だが。

『近藤さーん、こんどーさーん』

 甲板で子供のように右手を振っているのは沖田総悟。左手には拡声器が握られて、音声はやや割れているがよく通る若い声が浦々に響きわたる。

『お迎えに来やしたぜー、お勤めご苦労さんでさぁー』

 港の灯台に立つ近藤勲が手にした双眼鏡からは悪魔のように天真爛漫な笑顔が見える。そして、その隣には。

「佐々木殿、どうぞ」

 双眼鏡を譲られるまでもなく、その立ち方で、佐々木には分かっていた。

「どうも」

 けれども一応、確認のためにレンズを覗き込む。小柄で、華奢に見える姿はいつまでも少女のよう。

「信じらんねぇ、愚図さだぜ」

 空気が澄んでいる。きらきら、太陽の光が波に反射して輝く。眩しいほど明るい。

「エリートさんは動きがおせぇ。幕臣は赦免になったってのに閉じ込められてんのを、よくまぁ何年も、放ったらかしにしてやがったもんだぜ」