楽だなぁ、と。

 ぼんや考えながら、うっすら明るくなってきた夜明けの部屋で、白髪頭の男が茶釜で沸かした湯を手桶に移し、布を浸して絞り上げ体を拭くのを、眺めながら思った。

 起こしてやらなくても自分で起きて、小言をいわなくても身支度をする『相手』はきちんと独立した生き物。

飼っているのではないから責任も義務もない。構ってやらなくても自分で生きていく。なんて手間がかからなくて楽なのだろう。

 楽だけれど物足りなくて寂しい。いっそ、つまらない。

 そんなことを思いつつ暖かな褥から腕を伸ばし、枕もとの煙草とライターを手探りでさがす。

「オハヨ」

 振り向いた男は手早く着物を着込んで煙草を咥え、吸いつけて口元に差し出してくれる。

「コーヒーないんだ。ごめんね」

 侘びの言葉とともに白湯が茶碗に注がれて灰皿の隣に据えられた。茶釜からひしゃくで湯を掬う手つきは妙に上品で、育ちは悪くもないことにあらためて気がつく。

「……ゆうべはごちそーさまでした」

 なんていう、たわけた口きく顔はいやらしげで、性質が悪いけれど。

「マジ美味かった。坊やずいぶんジョーズになったみたいで、可愛がられてんじゃん」

 嫌味だと思った。だからフン、と鼻先で笑い飛ばす。そうしたらぎゅっと肩を抱かれて、そして。

「銀さんの気持ちは複雑です。オタクが雑に痛めつけられてたら、それはそれで、すんげー心配でかわいそーなんだけど、あんまり艶々してられんのも、なんか切ない。……妬ける」

 どうやらマジな話だったらしい。そう気づいても、なんとも言いようがなくて、指に挟んだ煙草を灰皿に置いて、ぎゅっと抱きしめてくる男を寝床に転がったまま、ただ抱き返した。

「ああもー、オレ面倒くさい男になっちまうかも。マジ嫉妬しちまいそー、コノヤロー」

 夜着ごしに触れる掌が熱い。こいつのこの熱を好きだ。掴みどころのない亡羊としたこの男がほんの時々見せる、焼き殺されそうな情熱と激情。

「オレぁなぁ、面倒くせーことはもー、しないって決めてたんだよ。ナンでいまさら、こんな歳になって、青臭いキモチになんなきゃならねーんだ責任とりやがれチクショウ」

 吐き捨てるように苦しそうな台詞は、夕べのオレの告白への返事だと思った。いまさら他人にはなりたくないからてめぇと寝ているんだと、晒した本心への返答。

「……」

 返してやれる言葉はもうなくて、だまってじっと、男に抱かれてみる。愛しさはオレの中にもある。それはもう、言葉にしなくても伝わってるだろう。

 やがて。

 ゆらり、男は、腕をといて立ち上がった。

「まだ早いから寝てろよ。オレぁ今朝、飯炊き当番だから行く」

 と、白髪頭の万事屋が言う意味を理解するのに煙を吐く時間が必要だった、そうしてああ、ここには電気ガスもないのだと思い出す。竈の薪で米を炊くのはけっこう手間がかかるから、なるべくまとめて一日分の量を朝、炊いてしまうのだろう。

「オマエは客だから寝てろ。ヅラがなぁ、すっげーうるせーんだ、そーゆーコト」

 教育者の素質があるというか口うるさい母親のようなというか、口うるさい傾向が確かにある。けれどその細かさが欠点より長所、世話好きという範疇に入りがちなのは顔がいいからだ。あのツラに構われるのは悪い気がしないから。

「オマエ、悪ぃこと考えてる顔してるぜ?」

 灰皿を手元に据えてくれた男に言われてクスクス笑い出す。そして。

「温泉は?」

 尋ねる。

「オマエが聞き逃すわきゃないと思ってたぜ」

 手甲を巻きながら男は苦笑。

「ったく、はるのヤツ、口が軽ぃんだよ」

「どこにあるんだ?」

「山ン中。冬は樋が埋まって入れなくなるんだけど、風呂好きのフクチョーさんが来るってんで真撰組の皆さんが、何日もかけて掘り出して源泉掘り出してたぜ。って訳で、聞かなかったことにしてやってくれよ」

 せっかく仕込んだサプライズを無にしてないでやれと、気配りを見せる男に向かって。

「風呂入りてぇ」

 言った台詞は我ながら呻くようだった。故郷でも江戸でも函館でも、毎日、できれば朝晩、膝を伸ばせる湯船にたっぷりの湯を張って、肩までつかって茹だるのが習慣になってる。

「ゼータク言うなって。ここは外地だぜ」

「聞かなきゃ我慢出来たんだ」

 戦場では風呂になんかろくに入れず、泥だらけ汗まみれになってた。それでも戦場だったから不満には思わなかった。ここも同じようなものだと思ってりゃ平気だが、山の温泉、なんて単語を聞いては我慢の糸も切れる。

「茶釜に湯は沸いてっから、それで我慢してろよ。んじゃ、オレぁ行くぜ。メシが出来たら起こしに来るからよ」

 言いながら男はブーツに滑り止めのスバイクを装着してたたきに降りる。狭い土間を横切って木戸の支え棒を外した、その途端。

「おはようございます、土方さん。と、旦那」

 木戸は外から引かれて開いた。そうしてその向こう側で、マフラーに顎を埋めながらニコニコしてんのはオレの可愛い奴。

「お起きになりませんか土方さん。あなたが来られるって聞いて、山の奥からみんなで雪の中から源泉を掘り出したそうです。川沿いの湯船がいま、いい湯加減ですよ」

 手ぬぐいと石鹸を入れた手桶を下げて朝日を背に受けて、逆光の中に立つ山崎に、寝床からにんまり笑いかける。

 万事屋がチッと舌打ちするのにも自信満々に笑った。古女房を兼ねた懐刀を心の底から、自慢した。

 

 

 

 

 

 

 

 源泉の温度は100度近く、しかも相当の酸性湯。ぼこぼこと煮えたつ湯が更に高温の蒸気とともに湧き出して地を這い川に流れ落ちる。ものみな凍りつく真冬でも源泉は枯れず川は凍らない。が、圧倒的な雪量に覆い尽くされ、その下でひそかに流れを形作っている。

 春先のザラメ状になった根雪を崩し、源泉を掘り出すことは厄介な仕事だっただろう。しかし掘り起こしてその流れを竹の樋に受けてしまえば、あとは湯の熱が全てを解決する。大人の男が三人は入れる木作りの浴槽がなぜ、川のほとりに据えられているのかというと、熱すぎる源泉に加水して温度を下げるため。

「……生き返るぜ」

 深い風呂桶の中で手足を伸ばし、頭を横板に預けて殆どうっとり、陶然として二枚目が呟く。伏せた目の、長いまつげの先端で湯気が雫になってただでさえ艶な目じりをいっそうつやめかせる。

 湯を導く関係上、風呂桶は地面に四分の三を埋め込まれている。早朝から源泉が貯められて、加水ではなく自然にさめたところへ体を沈めると全身の筋肉から凝りが溶け出しそう。風呂桶から外された樋は小屋のわきへと湯を流し続けている。湯がさめすぎたら樋を動かして源泉を注げばいい、自然の追い炊き機能つきという贅沢さだった。

 目隠しというより風や雨を防ぐ為の簡単な小屋は屋根がクマ笹でふかれていて、つい数日前に出来上がったものだ。天気のいい朝、ほんの少しの風にクマ笹が揺れてさわさわ、音をたてるのも楽しい。

「あなたが喜んでくれればみんな嬉しがりますよ」

 手桶で川の水を汲み、川上へ行っていた山崎が戻ってくる。容器ごと源泉の蒸気にさらされた水はいい具合に温まっている。

「頭もうちょっと、こっちに傾けてください」

 裾をはしょって紐で袖をからげ、湯に手を漬けて指先を暖めながら山崎が言う、意味を二枚目はきちんと理解した。髪を洗ってくれるつもりなのだ。さらつやの黒髪が痛まないように、酸性の温泉ではなく源泉が流れ込む手前の真水で。手が切れそうな冷たい川の水を汲んで。

「おう」

 愛情の奉仕を二枚目は悠々と受けた。靴を脱いで真っ赤になった爪先が可哀想だとかは思わないことにした。これは自分の押しかけ女房。苦労承知と自分で言っている。本人が決めた覚悟にとやかく口を出すことはない。

「痒いところは?」

「がしがし洗え」

「いたむからイヤです」

 かわりに婀娜な二枚目は生活の殆どを山崎退という相手に委ねている。世話女房は世話をするのが楽しくて嬉しい。肘が濡れるのも構わずにさらさらの黒髪を泡で包む。

「ながしますよ」

「おぅ」

 湯が貴重だからシャンプーは一度だけ。山崎は泡を洗い流した黒髪に掌に広げた椿油を塗りつける。徒歩での行程でが分かっていたから荷造りはシビアだったが、ふだん使っているシャンプーと椿油だけは小さな容器に移し変えて持ってきた。

 それから顔を伏せてきて、仰向いた二枚目とくちづけ。温まってきた二枚目は肩を風呂桶から出して応じてやった。珍しく深く求められて、喉を鳴らすほど舌を絡めあう。

「脱げ」

 と、二枚目が言ったのは、セックスをしようと誘ったのではない。お互いに色気はあるけれど雰囲気だけで満足しているところがあって、一緒に暮らしているのに数ヶ月どころか年単位のセクスレスでも平気。そんな関係も、ある。

「冷えてるぞ、オマエ」

「あなたの後で入らせていただきます。クマは冬眠してると思うけど、一応」

 警護しているつもりらしい。その義務感を無にも出来ずに、しいて一緒に風呂に入ろうとは言わなかったが。

「じゃあせめて足湯しろ、ほら」

「え、あ、うわっ」

 風呂桶の板に腰を掛けさせ素足を湯の中へ漬けさせようと膝を掴む。とっさにバランスをとれなかった山崎が二枚目の裸の肩に縋る。そんな場面は、見ようによっては、ずいぶん露骨に『いちゃついて』いるように見えたかもしれない。

「こほん」

 雪かきによって通行の確保された山道を、徒歩で10分ほど登ってきた、もと大身の旗本は咳払い。

「おくつろぎのところ失礼いたします」

 たいへん静かに、そう声をかけられて。

「まったくです。江戸の方とは思えない無粋さです」

 返事をしたのが二枚目ではなく山崎というのは、たいへんに相手を見下した行為だ。

「申し訳ありません。近藤勲殿が、味噌汁の出汁をとって欲しいとご希望です」

「……」

「……」

 その名前を出されては拒むことも出来ない。仕方なく、渋々、山崎は風呂桶に突っ込んでいた足を引いて立ち上がる。二枚目が手を伸ばして湯の中から濡れた素足を拭ってやる。

「風邪ひくなよ」

「はい。土方さんも温まってからあがってくださいね」

 地面に這うように屈んで、わざと唇を寄せてくる山崎に二枚目はあわせてやった。いかにも慣れた風情で口の端を舐めあう。立ち上がり、麓へ向かって歩き出した山崎に、佐々木はついて行こうとしたのだが。

「土方さんの警護をお願いします」

 そんなことも分からないのかよ馬鹿、という、たいへん分かりやすい軽蔑の表情とともに振り向かれ冷笑を受ける。唯々諾々、という様子で小腰を屈めて、佐々木は山崎の指示どおり、麓と山と湯小屋がみえる位置に立つ。

 二枚目は何も気にせず悠々と湯を楽しんだ、手ぬぐいを使い芯から温まって、用意されていた服に着替えて靴を履き、待たせたなとも言わずに佐々木の前を通って麓へと戻る。

 黙って佐々木はついてきた。けれど途中で、我慢できなくなったらしい。

「あなたは誰を愛しておられるのですか?」

 背後から真面目な口調で、そうで尋ねられて。

「どうして誰かに決めなきゃならねぇんだ?」

 二枚目は、実に真面目に、その質問に答えた。