崩壊

 

 くちづけを許して以来、弟は。
 キスなら好きにしていいと思ったらしい。
 「ッ、ン」 
 それとも思ってふりをして、こっちから唇を重ねた弱みに最大限、つけこんでいるのか。
 「……イヤ」 
 左手でシャツの胸元、右手でスラックスの前を掴んで。 
 服の内側を侵略されないことで防御は手一杯。 
 言葉は既に、何の意味もなさない。 
 弟に聞く耳がないから。
 「啓介、イヤだって」 
 羞恥に身体をよじれば必要以上の力でもとへ戻されて。 
 罰を与えるようにきつく噛み付く。服の上から。 
 肩に、背中に、素足の足首に。 
 広げた膝の内側に。
 「啓介ッ」
 「うるせぇ」
 「放せ、もう」 
 返事の代わりに与えられたのは激痛。痛みと刺激に、布の内側で、それでも形を変え始めた、最大の弱みに。
 「ヒ……ッ」
 顎をすりつけるようにして歯をたてられて、咄嗟には声も出ない。息を呑むだけ。背中をそらして逃れようとするが、腰をだきこまれた姿勢でのその反応は、前を差し出す仕草にも見えた。
 布が濡れる。弟の唾液と自分が滲ませた体液で。それがもう、いたたまれないほどの羞恥。
 「っ、ウ……」
 抵抗どころではなく嗚咽を噛み締める。啓介は歯を外し舌で舐める。
 布の上から。優しい仕草だが誠意はない。泣かせたので仕方なく宥めているのがみえみえの白々しさ。
 「いい加減なれろよ、あんた」
 雄の苛つきを隠さない声。
 「じきに本番ヤるんだぜ。こんなもんじゃないって分かってるだろ?」
 「……、し、ない」
 「あぁ、なんだってッ!」 
 威嚇するような大声。咄嗟に身体が竦む。いつもならそんなことはない。けれども、今は。 
 抵抗しようのない弱みを掴まれて。 
 この弟が、怖い。高校入学前から荒れていた弟。暴力的な仕草と威嚇の声で相手を脅すのが堂に入った、男。 
 スラックスの裾を掴まれる。脱がされると、咄嗟に思った。それは違った。でも衝撃は、それ以上だった。
 「啓介ッ」 
 悲痛な悲鳴にも男の手は躊躇を見せない。裾の縫い目に歯を立てて綻びをつくり、あとは一気に、柔らかな布を引き裂く。
 「嫌だ、イヤ、い……」 
 皮膚が引き裂かれた気がした。内側を、狭間まで。 
 顔をそむけて手足を引き寄せる。裂かれた右足は膝を掴まれて、できなかったけど。声も出ないでいる俺に、
 「ウソ。ちょっと、頭きただけ」 
 囁き耳元に口付ける。
 「こっち向いて」
 哀願に近い声音に、俺はますます顔をそむけた。
 この男のやり方はもう分かってる。狡猾で残酷。手の中で獲物の断末魔を愉しむように、竦ませては宥め、宥めてはまた切り裂く。
 「こっち向いて。身体の力抜いて。いつもみたいでいいから」 
 いつもみたいって、それは。 
 俺には一番辛いこと。 
 布越しに擦りあわされて、零れる。滴る液を絡めた指で相手を、慰める。
 「してくれよ。な?」 
 優しい声。その優しさがもう一度、豹変するのが怖くて言うことをきく。
 「苛められてるよーな顔するなって。可哀想になるだろ」 
 嘘つき。なんとも思っていないくせに。
 「俺がどうしてここで引くと思う?」 
 愉しみを長引かせたいから。脅えさせて、遊ぶのが好きだから。
 「あんたを愛してるからだよ」 
 嘘つき。お前は、珍しいだけ。
 「あんたが生娘だから。無理やりやって嫌われたくないんだ。わかれよ」 
 今時めずらしい、俺の怖がり方が面白いだけ。生娘は何人知ってても、みんなお前を受け入れるつもりの相手だったから、セックスが怖い俺を半端に弄るのが新鮮なだけ。
 「あんたが、大事なんだ」 
 嘘つき。 
 『生娘』でも経験が少なくても、俺も男だ。男のウソは、分かる。
 「今度はいつだよ。今週中で」
 答えなければ今ここで、貫かれる。
 「……明後日」
 「何時」
 「十一時」
 「時間守れよ。ベッドに入って待ってろ」 
 頷く。
 「お休み」 
 身体より神経の疲労でぐったりした俺にキスをくれて、自分の部屋に帰る背中。 
 暗い部屋の中で、俺は枕を抱いて後悔。 
 あの時に、キスしたのは啓介を好きだったから。それは確かだ。でも。
 でも。
 
 翌日、俺は大学へ行く前に父親が経営する病院へ寄った。多忙な父に用があるときは、そうするのが子供の頃からの習慣。
 通学が辛くなったと、俺は父親に話した。まだ一年で、本当は、それほどじゃなかったけれど。
 父親は頷き、だから最初に言っただろうと、すぐに手配をしてくれた。出入りの不動産会社に電話を掛け、五分後にはおりかえし、大学の駅近くの物件があると知らせた。それで文句はなかったが、
 「明後日から、研修があるんです。出来れば、近くに泊まりたいんですが、ウィークリーマンションでも」
 「ダメだ。治安が悪い。ホテルにしろ」
 「はい」 
 父親の承諾を取って、明後日といわずその日から、俺はホテルに住み込んだ。アメリカンエクスプレスのゴールド、父親の家族会員カードを俺は与えられていて、金銭で出来ることなら大抵の願いはかなう。
 愛想のないホテルのシーツの上で、俺は入学当初、自宅通学に決めた理由を、苦い気持ちで思い出す。
 心配だったのだ、弟が。中学の頃から荒れ始め、高校に入ってからはもう、両親さえ匙を投げた感じで放り出した、あいつが。 
 約束の日、約束の時間ちょうどに携帯が鳴った。帰らない俺をそれでも、ギリギリまで信じて待っていたのかと思うとやっぱり、いとおしく思えた。けれど。
 「……はい」
 『俺が電話掛ける奴で、はいって出るのはあんただけだよ』
 「俺も、名乗らないのは、お前だけだ」
 『今、どこ。いい訳があるなら聞くけど』
 「ごめん」
 『それは遅刻を謝ってるの、それとも』
 「お前とは、もう寝ない」
 「……」 
 受話器ごしの沈黙は、怒り、腹立たしさ、舌打ち、憎悪。 驚きや混乱はない。予想はしていたらしい。 
 「ごめん。お前を好きだったけど」
 『……』
 「あわないみたいだ、お前とは」
 『あんたお坊ちゃんだもんな』 
 せせら笑う声音は少し、壊れた感じだった。
 『大人しすぎるぜ、十九にもなって。勉強ばっかしてるからそうなるんだ』 
 否定の言葉を飲み込む。言いたいだけ、言われようと思った。
 『お行儀よくセックスなんか、やってられるかよ』 
 それから暫く、罵りは続いて。それでも俺が何も言わないでいると、
 『……帰って来いよ。今からすぐ帰ってきたら、許してやるよ』
 「啓介」
 『どうしてもあんたが嫌なら、今夜は手、繋いで寝るだけでいいよ』 
 家族にキツイ口しかきかなくなった啓介にしては、柔らかな。たぶん、精一杯の、願いを。 聞いてやれないことが哀しかった。
 「ごめんな。お前を好きだけど」 
 『けどは余計』
 「お前とは、もう、ダメだ」 
 俺は充分、もう傷ついた。セックスの本番には確かにたどり着いていないが、それ以上に、気持ちが。 萎縮して萎えてしまっている。これで啓介を優しく含めるはずがない。
 『俺を放り出すのかよ。親父やお袋みたいに。俺のことまるで、居ないみたいに扱うつもりかよ』
 「ごめん」
 『しかも電話で。直接、断りもしないで』
 「ごめん」 
 だって、直に会ったりしたら、もう。 
 お前は俺を許さないだろう?
 「ごめんな」 
 最後に言って電話を切る。大切にしてきた弟との、これが別離。辛かった。苦しかった。けどそれも、当然という気がした。血の繋がった弟に押すの欲情を含んだ視線を向けられて、それを厭だと思わなかった時点で俺は、既に弟を無くしていたのだ。 
 ロック解除の音とともに、ドアが開いたのは。 
 それから五秒もたたないうちだった。 
 びくっと振り向く俺の、視界に写ったのは。
 「……どう、して」 
 弟は、見せ付けるようにカードキーを振って見せる。
 「どうしてもアニキに相談したい事があるって親父に泣きついて」
 「啓介」
 「こいつ今度はナニやらかしたんだろって、親父を不安がらせんのなんか簡単」
 「けい、」
 「あんたが離れたがってることぐらい、俺が気づいてないと思ってた?最初は優しく抱き返してたあんたの腕が背中にまわらなくなって、しまいにゃ顔を隠すようになってさ」
 「……」
 「回数かさねりゃ、普通は慣れるんだよ。なのにあんたんはどんどん固くなって」
 「お前が、ひどい事ばかり、するから」
 「ひどかねぇよ。当たり前だろ、あれくらい。ひでぇ事は今からすんだから」 
 「言っただろう。もうお前とは」
 「うん。聞いた」 
 ゆっくりと弟は近づく。脅える目をする俺をまるで、獲物を狙うように見据えながら。
 「だからレイプだ。何の遠慮もいらねぇな」 
 腕が伸びてくる。蛇のように素早く。抵抗した。でも叶わなかった。喧嘩も情事も、明らかに場数が違っている。
 「安心しろよ。俺、生娘ひらくの慣れてるから」
 脅しでも嘲笑でもない、真面目な顔で、啓介は告げる。
 「お上品なあんたにゃ想像もつかないだろうけど、勉強も部活もしない学生がすることってったらセックスと喧嘩だけだから。俺は生娘、十人以上抱いたよ。数えてないけど」
 そんなこと。聞かなくっても、知ってる。タバコもセックスも、多分この弟は、俺より先に覚えた。しかも性質の悪い覚え方をしてる。抱きしめる相手をいたぶるやり方はマトモじゃない。悪い遊びをしってる感じだった。
 「あぁ、でも、レイプって初めてだ。あんただけは、そういう風にしたくなかったんだけど」 
 その台詞だけ、少しだけ、悲しそうだった。 
 
 これがセックスだというのなら。 
 前回までのは、確かに優しいペッティングだった。 
 あくまでも、比較してだけど。 
 脱ぎかけたシャツで後ろ手に縛られた腕。 
 唇に詰め込まれたシーツの端。 
 割り込まれた膝は閉じることも出来なくて。 
 最初はそれでも愛撫してくれたけど、反応の悪さに飽きてすぐ放り出された。 
 肉を軋ませて、粘膜を千切って挿しこまれる楔。 
 ローション一応、用意してるけど。でも使いたくない、俺嫌いなんだよ、ゴムとか油とか。そんな勝手な台詞に反論することさえできずに。ただ、力ずくで。……犯される。
 「スゲ、柔らかい。なぁ、……、分かる?」
 問いかけには答えない。答えられない。それを承知で、耳元になすりつけられる言葉。
 「狭くて、痛いくらい。でもイイよ。あんたなら、なんでも」
 喉奥まで粗い布を詰められて、返事どころか呼吸さえうまく繋げない。
 痛みは既に、知覚の全てを覆い尽くしている。かすかに啓介の声だけ、意識に滑り込む。
 涙が流れるのを恥じる気力さえなかった。だって、他に厭だと伝えられる手立てがなかったから。仰向けの姿勢で、涙は流れて耳もとにたどり着く。暖かな液体はその頃には冷えて、啓介の頬も冷やしていく。
 「泣くなよ」 
 それは、つまり。 
 意思を持つなって言うことなのか。人形みたいにお前に揺すられるだけで?
 「泣かないで、くれよ」 
 膝裏を抱えられる。無茶なくらいに割られて、裂かれて、抉られて。 
 うめき声も出せない。 
 身体の傷が、そのまま心も裂いていくみたいだった。 
 レイプしているこの男を……、好き、だったから。
 「キモチ、いい」 
 突き上げられて身体ごとずり上がる。引き戻されて、また突き上げられる。これ以上はないと思った苦痛にも先がある。終わりは、来ない。
 主観的には永遠に近い責め苦の後でようやく、啓介は俺の中で弾け。傷に染み込む熱にまた泣かされながら、俺はようやく、口のつめものをとられた。
 「これでもう、あんた俺んだよ」 
 そんな訳ないだろ、と。 
 答えなかったのは、顎がだるくてそれどころじゃなかったせいもある。 
 含まされたままの楔が怖くて、声を出せなかったのでも。 
 でも一番の理由は、答えたくなかったから。 
 この男と、会話なんかしたくなかった。 
 言葉も声も、愛撫も、痛みも。 
 無視して拒むことが俺の今、出来る最大の抗議。 
 そんな気持ちを分かっているのかいないのか。
 「ヨクなかったんだな、全然」 
 無理やり強いておいて、当たり前なのに残念そうに、呟く。俺の背中を抱きながら。
 「俺ホントに生娘開くの得意だったんだぜ。熟れてるのは皮剥いてやって、熟れてないのはちゃんと実らせてから。泣かせたり痛がらせたりしたこと一回もねぇよ。最初じゃむりなのも居たけど、ちゃんど二度目三度目って重ねてやってさ」
 聞きたくない、そんなこと。お前が抱いてきた女のことなんて。
 「なのに何であんただけうまくいかねーの。実るまで待つつもりだったのに、どーして逃げたんだよ」
 抱いてきた女と俺を、比べるな。
 「好きなヒトだけ、どーして?」
 「……離れろ」 
 それ以上、戯言を聞きたくなくって、告げる。
 「忘れてやるから離れろ。出て行け」
 「なに、寝言いってるのさ」
 「顔も見たくないんだ。消えろ」
 「冗談。生娘抱いた男には義務があるだろ。気持ちよさ、教えてやるまでは離せねぇよ」 
 くんっ、と。 
 奥深くで、それを動かされる。
 「……イヤ、だッ」 
 痛い。痛い。痛い。
  耐え切れない、くらい。
 「イタイ……」 
 こぼした、弱音を。
 「うん」 
 残念そうに男は拾い上げる。
 「まぁ、しょーがないさ。処女は」 
 さっきといってることが違う。
 「ゆっくり教えてやるよ。あんたは俺に、慣れなきゃいけないから」
 「……イヤ。啓介も、離せ。お前と、は、あわな」
 「身体の相性が悪いからサヨナラって」
 「ヒッ、いや。……、イタイ、そこ、キズ…」
 「言えないヒトとだけあわないなんて、すげぇ、皮肉」
 でも諦めないから。優しいふりをした声で、怖い言葉を告げられる。
 「言ったろ、あんたが、よがるまで止めないって」
 
 夜明け前。
 ウソを、ついた。
 「ン……」 
 演技で漏らす、甘い声。
 「……イ、ィ」 
 ウソだった。 
 痛いだけだった。 
 少しも、好くなんか、なかった。
 「ホント?」
 「あ、ぁ」
 「よかった」 
 ほっとして、背後から腰を引き寄せて激しく抜き差しして。 
 俺の中にどろりとした蜜を放つ。 
 弛緩して意識を失っていく俺を、今度は放置してくれた。
 殴られたり抉られたり、握りこまれたりしなかった。 
 安堵と絶望の中で、
 『ウソツキ』 
 絶望に近い呟きを聞く。 
 
 そうだ。ウソだよ。 
 当たり前だろう。 
 無理やりされてイイわけなんか、ない。 
 これはレイプなんだから。 
 俺がお前に感じたり、するわけがない。 
 ……そんなわけが、ないんだ。