蓬莱・10

 

 

 日暮れ前。

 曹司の前の濡れ縁を、右往左往、する青年の姿。

 長身で肩幅もあって堂々たる押し出しだが、仔細に眺めれば目尻の優しさと、長身にありがちなやや丸い背中に気づくだろう。実際、青年は丸かった。体型ではなく、心の深みの、イチバン芯の、奥が。

 だから、声をかけきれないまま、中から何か言ってくれないかと、期待しながら縁を行き来する。

 それでもダメで母屋に戻る。そんな事を何度か繰り返しているうちに。

「まぁだ、拗ねてやがんのか、あいつぁ」

 須藤との戦から、ほんの三日。数では劣る激戦を戦い抜き、勝負なしにもちこんだ激しさなど、今は欠片も見えない穏やかさで青年に声をかけたのは藤原の当主。

 前帯の楽な着物を着て、懐手した悠々たる態度。それさえ威厳の証のように思えて青年には憧れの対象として映る。もっともそれは、贔屓のひきたおし、というもの。

 三日前、指揮船の舳板を踏みしめて半日、矢がせ降ろうが火船が髪を焼こうが微動もしなかった当主の姿を、知らないものが見たらそれは、冴えない中年の、ただ少しだけ、立ち居に隙のない男に過ぎない。

「あ、はい。……まだ」

 青年はかくかく、頷きながら返事をする。自身、九州箱崎の地を治める池谷氏の分家の跡とりでありながら、藤原文他の海戦の腕にほれ込み、俺を仕込んでくださいと従僕同然に瀬戸の地までついて来た。

「いい加減にしろって言っといてくれや。仕事が、山積みだって、な。頼んだぜ」

 勝手に頼んで当主はさっさと、他所へ行く。残された池谷は暫し呆然としていたが、やがて覚悟をきめて、

「拓海、入っていいか」

 尋ねる声と一緒に、格子を跳ね上げてしまったのはわざとではない。緊張のあまり、勢いがつきすぎたのだ。承知の返事をされる前に押し入ることになってしまって、池谷はひどく慌てた。奥へ続く襖を開けないままの部屋は薄暗く、その中央で、藤原拓海は白の小袖一枚の姿で手足を伸ばし、床に直接、大の字になって転がっている。表情は見えないが、それは拗ねているとか、落ち込んでいる、とかいう雰囲気ではなかった。

 瞳が薄闇の中で光っている。

 差し込む陽を跳ね返して、炯炯と。

 少年、と呼んでもまで似合いそうな、未完成の肢体にはしかし、強靭な雄に特有の張りを感じさせる。

 暫く、池谷は立ち尽くしていたが。

「お……、親父さん、怒って、おられない、ぞ……?」

 自分だったらまず気になるだろう、ことを口にしてみる。

「むしろいい判断だった、って。左大臣の娘婿、射殺していたら、こんな調停は入らなかっただろうから、って」

 いつもの、ことだ。

 地方の戦乱を、狙って中央の権力は干渉を始める。

 時にはけしかけ、時には宥め、一方に加担してみたり逆に乗り換えたり。

「さぁ、元気を出せよ。親父さんと一緒に用意をして、一緒に、行こう」

 三日前、戦闘が、高橋勢の混乱で勝負なし、で終わった直後、戦場の敵味方双方へやって来た賓客。

藤原党への勅使が示した調停の内容は、瀬戸内の領地から、九州・豊前への国替え。それは勿論、国替えだけではない。

 長年、中央政権にはむかい続けている、薩摩・隼人の二国を打ち平らげ、成功の暁には二国をもろともに領するがいいとの沙汰を受けて。

 三秒、考えて藤原の当主は調停案を了承した。瀬戸内の交易権を須藤と高橋に、譲ることは口惜しかったが、ここで戦いに固執して勢力を削がれた挙句に朝敵とされ、敵に討伐の名目を与えることも馬鹿馬鹿しかったし、それに。

 代替の、地がとても、とてつもなく魅惑的だった、から。

「さぁ、ほら。侍女に着替えを持ってこさせるから」

「池谷さん」

 年上の相手に少年は敬語を使う。侍女を呼びに行きかけていた男は、慌てて戻って来る。

「なな、なにか、な……?」

 歳は幾つも下だが、海戦指揮でも船上の弓の者としても、桁違いに上を越されている青年はどぎまぎ、しながら尋ね返す。

「俺、そんなんで、射なかった、んじゃないん、ですよ」

 一言、一言をはっきり区切りながら。

「そうか。でも、それは、悪いことじゃないと思うぜ。高橋啓介をに怪我、させることになるもんな。一年とはいえ、一つ屋根の下で暮した相手だし」

「違い、ます。……あの人」

 高橋のもと若当主を庇って立った、美形。

「初恋の、人だった、んです。……俺の」

 一目ぼれに近い、ろくに話した事もない相手だったけれど。

 それでも好きに、なることはある。特に心が無防備な若いうちは。

「行きたくねぇ……」

 ごろん、と拓海は床に転がる。駄々をこねるように。

「離れたく、ねぇよ……」

 訴えられて池谷は困っていたが、

「会いに来ればいいじゃないか」

 ようやく言葉を思いつき、口にした。

「海は繋がっているんだ。会いに来ればいい。拓海には、馴れた航路だろう?」

 拓海は返事をしなかった。

 しかし、やがてゆっくり、起き上がる。

 その気になった、のかもしれなかった。

 

 

 同じ頃。

 高橋の屋敷では、須藤京一が苦い酒を飲んでいる。

 文字通り、死ぬほど、それは苦い。打ち身の薬である菱の葉の黒焼きを溶かされた、真っ黒な酒だった。

「でぇじょーぶかよ、京一ぃ」

 声をかけながら、しかし清二は二合入りの徳利を傾げる。苦いからイヤだとも言えずに京一は、半分以上、自棄でぐい呑みを突き出す。

 痣だらけ、火傷だらけ、傷だらけ、だった。

 本陣指揮を一時放棄してまで、前線に出向いて       高橋の若を、救い出した時につけられた傷だ。

 真っ黒な酒を二合、呑み終えて京一は座敷の中央であぐらを掻く。

「い、痛ぇのか?もっと、飲むか?」

「いらん」

「でも、顔、おかしいぜ」

 不機嫌そうだ、ということを言っている。

「勅使の調停が面白くねぇのかよ?」

「当たり前だ」

 瀬戸内を制覇して、やがては九州南半分の攻略を、と、それは京一が、実は腹の中に仕舞っていた、夢。

 九州南岸の、向こうには南方貿易が、ある。

 トカラ列島を経て那覇、その向こうにまで、続く豊かな、明るい海が。

 現在は、中国大陸の商人を通してもたらされる、香木や香辛料、薬草に宝石。

 それを直接、南方との貿易で得ることが出来れば……。

「滅ぼされ、ちまうぜ?」

 自身の思考に沈んでいた京一は、清二が何を言ったのか咄嗟に理解できなかった。

「そこまででかく、なんのを都がむざむざ、見過ごすわきゃねぇよ。今度はこっちが朝敵扱いだ。京一だって、都を信じてるわけじゃぁ、ねぇだろう?」

 須藤京一は、清二をまじまじと見詰める。

 不意打ち、された表情を隠しきれずに。

「そりゃそうと、……あれ、どうする?」

 清二は酒器を片付けながら別のことを言い出す。

「高橋の連中、浮き足立ってるぜ」

 とても、ひどく。

 

 

 

 

 口は、きかなかった。

 二人とも。

 ただ、よりそって、過ごす。

 体温がとても、嬉しくて懐かしい。

 庇うように、抱き締める。

 動けない相手を。

 以前も一度、こんな時はあった。

 二人で、須藤の手に捕らえられた、時。

 あの時は二人きりの甘さを感じるどころではなかった。

 命の危険があったし、敵地のただ中だったし。

 愛しい相手は、死線をさまよって、いたし。

 でも、今は。

 安らかに目を閉じる。

 抱き締めた、髪に顔を埋めるように。