悲しい遺伝子
5時を過ぎて入り口が閉鎖された第3駐車場のある西門から、学生用の駐車場に向かうために道を渡ろうとした涼介は、道向かいに停められた、地味なくせに目立つフォレストグリーンの車輛に足を止めた。
クライスラーのジープ・ラングラー。サファリでもあればこれほど似合う車はないだろうが、コンクリートの建物がひしめく大学の脇では、ソフトトップのオフロード車はやや浮いた存在であった。
ステアリングに凭れてぼんやり煙草を吸っている男は、まだ若かった。タンクトップから伸びる腕は無駄なく引き締まり、軽く日に焼けているのが健康的であった。端正なと言うにはやや野性的な横顔は、それでも鼻梁の高さや顎のラインの整いかたが一般人離れしていて、見る者を惹きつけるには充分であったろう。鋭さの中に垣間見える若々しいやんちゃさには、ある種の人懐こささえ感じさせる。
少し前までは、かわいい弟だったのだ。
涼介は軽く目を伏せ、それから毅然とした態度で、まるでこれからサバンナにでも繰り出すかのような男に歩み寄った。
涼介に気付いた男の顔が、きゅっと引き締まる。野生動物のような相貌にさらに鋭さが増し、涼介は彼の機嫌がすこぶる悪いことを知る。
「こんなところでどうした、啓介」
涼介は、気付かぬふりで弟の名を呼んだ。
「乗れよ」
それに対して男は短く言っただけだった。
涼介は微かに息を吐き、男の命令に従った。
国道17号を西へ。そのまま高崎の家に戻るとはとうてい思えなかった。行き先は容易に想像ついた。軽井沢の別荘だ。家ではさすがにできない過ぎた遊びをしようとするとき、啓介はきまってそこを使った。
「ホイールバランス、みてもらったんだな」
ひと月前、やはり拉致同然に大学から連れ去られ、怪しげな玩具を一晩中使われたときの帰り道、ぐずぐずに壊れてしまいそうな下肢を抱え、それでも微妙な車の不具合に気付き、万が一にも事故に繋がることがないようにと、啓介に忠告したのだった。
涼介が車に夢中になっていることにいつも強い不快感を示し、初めての車選びについても涼介の意見を聞くことなく、むしろ反発するかのごとく涼介の嗜好からも向かおうとしている方向からもまったく正反対ともいえるオフロード車を、ほとんど衝動的に通りすがりの中古店で購入してきた啓介だ。「車なんかただの足だ。走りゃなんでもいい」が口癖で、いまだ自分の車に愛着のかけらも感じていないようだったから、涼介の言葉に耳を貸すとは思えなかったのだが、啓介は素直に従ったらしい。
「………」
啓介は口をへの字に結んだまま、一切しゃべろうとしなかった。
涼介は会話を諦め、目を閉じた。どうせ今夜は眠れないのだろうから、少しでも身体を休ませておこうと思った。
マシンカットのフィンランドログは、丸太小屋のような重厚さはないものの、すっきりした中に木のぬくもりがあって、涼介も気に入っていた。啓介に、いかがわしい使われ方をするまでは。
連絡しなくとも2週に一度は掃除の手が入っているだけあって、目立つほこりはなかった。ベッドも真白いシーツがピンと張られて、これからそれを散々汚すのかと思うと、涼介は酷くうんざりした気分になった。
排泄は許されたが入浴の許可は出ず、涼介は実験の試薬の匂いが僅かに染み付いた身体を、壁と同じパイン材のベッドに横たえた。
「逃げないよ」
縛られるのがわかって一応言ってみたが、「知ってるよ」という一言で片付けられた。あまり跡がつかなければいいと思いながら、両手を宮の端の飾りに、左右広げて繋がれた。
「オレが、何怒ってるかわかる?」
ベッドに仰向けに磔にされて。馬乗りになった啓介に問われ。涼介は首を傾げた。
「お前はいつだって怒っているだろ、オレに」
自分のやることなすこと、弟が気に入らないことを涼介は知っている。涼介が、啓介以外の世界を持つことが気に入らないことを。
「AID」
啓介は、涼介ですら習ったばかりの略語を口にした。
「アンタの机に説明書があった。読ませてもらったぜ」
涼介は、くっと眉を引き絞って啓介を睨みつけた。
「人の持ち物を勝手にあさるなと何度言ったらわかる」
「うるせえよ。なんであんなものアンタが持ってんだよ」
「授業で使ったんだ。決まっているだろ」
「嘘つけ。だったらなんで、あんなに厳重に封筒に入れて隠しておくんだよ。まさかアンタ、本気で登録しようってんじゃねぇよな」
「………」
「オレにオンナにされて。とうてい自分のガキ持てるような、マトモな未来なんかねぇからって悲観してんの?」
詰問に答えず、涼介はひたすら啓介を睨みあげた。すると啓介は、泣いているような顔で冷笑した。
「確かに、オレ、絶対アンタにガキなんかこさえさせねーから。アンタがもし女孕ますことでもあったら、女と腹のガキ殺してオレも死ぬ」
狂気じみた本気を滲ませながら、啓介は言った。
「だからって、アンタのその優秀な遺伝子、どこの誰かわかんねー女にくれてやることはねぇだろ」
AID―――非配偶者間人工授精。男性因子の不妊症のうち、特に無精子症や精子死滅症などで絶対的に妊娠が不可能な場合にのみ許される、夫以外の精子を使った人工授精。倫理的にも法的にも多分に問題を含みながら、それでも子どもが欲しい夫婦にとっては、最後の命綱となる治療法だ。
精子提供者は、当然匿名でなくてはならない。生まれてきた子どもは、あくまでもAIDを選択した夫婦の子どもなのだから。誰の遺伝子が使用されたのか、親も子供も決して知ることはない。
だからこそ、精子提供者には厳しい審査が課せられる。健康であるのは当然のこと、感染症や性病、癌遺伝子等の検査を経て、生まれてくる子どもの将来の不安をできる限り取り除く。
肉体的な健全だけではない。精神的な安定も重要だった。特に、提供者側のために。
いくら生まれた子どもに対する義務も権利も何ら生じないとはいえ、自分の遺伝子を受け継ぐ存在がどこかにいるということを将来にわたり冷静かつ客観的に受けとめていられるだけの強い精神力がなければ、提供者は務まらない。ヒトの命は、それだけ重いものだから。
必要とされるのは、心身ともに健全で、受精の可能性の高い若い精子の持ち主で、AIDに対する正しい知識と理解があり、自分の行った行為は医学的に必要であったのだという強い信念を生涯貫き通せるであろう人材。
だから精子提供者は、医学部の学生から選ばれる。
「マトモな方法じゃガキが作れねぇからって、そういう方法とるわけ。そこまでしてタネ残したいのアンタ」
啓介はせせら笑った。
「タネ残したいってのは、オスの本能だもんな。オレのもん咥えこまされて、いいように揺すられてさ、それでもまだアンタはオスのつもりだもんな。いつだって、オレの息の根を止めてやろうって、オレの喉笛に食らいつくことばっか考えてるもんな」
強暴な嵐を含んだ啓介の、嘲笑いは最後には悲鳴のようになった。
「アンタはオレのもんだ。アンタの体液ひとつ、オレは誰かにくれてやるつもりはねぇ。そのくらいなら、一滴残らず搾り取ってやる!」
それから唸るような低い声で言った。
「そのかわり、オレを全部アンタにやるよ。オレのタネは、全部アンタの中に入れてやる」
オレ、ついでに色々ベンキョーしたんだぜ。
裂くように服をはぎながら、興奮の中に氷を含んだ声で啓介は言った。
「男用の不妊治療に、前立腺刺激するのがあんだってな。そしたらネットでいいもん見つけた」
啓介は涼介の目の前に、奇妙な形の器具を掲げて見せた。
アメリカ製の、前立腺マッサージ器だという。
「お医者さんごっこ、しようぜ」
言って啓介は、英語表記の説明書の図を片手に、神妙な顔でそれを涼介の身体に使用した。
つまり―――体内に埋め込んだ。
「このままさ、10分待たなきゃいけねーんだって。その間、オレに奉仕してくれる?」
偽りの甘えを含んだ声で強請られ、ぞっとするような異物感に苛まれながら、口淫を強制された。
頬張らせられすぎて顎が痛くなったころ、変化はおこった。
身体の内側に微かに生じた埋もれ火のような感覚は知らないものではなく、涼介はひくりと背筋を震わせた。
「来た?」
突然の震えに気がついた啓介が、探るように問うてくる。答えはしなかったが隠せるわけもなく、身勝手に口内から出ていった男が遠慮のない視線を下肢に絡みつかせるのを拒むこともできなかった。
「効いてきたわけだ」
冷静に観察する口調は、嘲られるより屈辱だった。涼介は両手を拘束されている不自由な格好で、視線から少しでも逃れようと腰を横にひねった。そのとたんだった。
「―――!」
まるでマッチを擦ったような、いきなり発火したかのような刺激が走り、涼介は全身を硬直させた。
「ひょっとして、ポイントってやつに当たった?」
今度こそ、涼介は答えられなかった。身体の動きに合わせたかのように、奥深くで動いた異物が敏感な性腺を圧迫するように擦り上げたのだ。内腿の筋に過度の緊張が走り、膝が震えた。
「な、どんな感じ?」
びくんびくんと身体を撥ねさせる涼介を面白がるかのように、啓介は言った。
「気持ちいい? よくねーわけねぇよな。勃たせるための道具だもんな」
興奮しながら、それでもやはり冷たさを感じさせる声だった。
「触ってもねぇのに、ほら。アンタ治療しがいのある患者だな」
言われなくてもわかった。全身の腺が収縮している気がする。ホルモンが過剰に分泌され、唾液までもが溢れてくるようだった。
「足、動かした方がいいかな」
身体を硬直させて過ぎた刺激に耐えている涼介の、脹脛を掴んで啓介は、運動後の整理体操のように揺すりだした。
「やめ……!」
制止の声は途中で喉に詰まった。中で動いた器具によってもたらされた痺れの激しさに、涼介は自分があえなく達してしまったのを感じた。
大きく肩で息をつく。惨めな気持ちはあったが、生殖器よりさらに根本的な部分を攻められてはどうにも抗いようがなかった。
「なに終わったみたいな顔してんの」
覗きこまれて、鼻で笑われる。
「まだまだこれからだよ。だってまだアンタ、イってねえし」
言われて初めて涼介は、射精による急激な熱の低下がいつまでたっても自分の身体に起こらないことに気づいた。
「そういう道具なんだって、これ。イッてないのにイった気になれんの。だからいつまでも絶頂感が続くんだってさ。すげえもん使うな、医者って」
その言葉を裏付けるかのように、弛緩していたはずの体内が急激に収縮するのを涼介は感じた。
「さ、治療続けようか」
事務的にすら聞こえる、啓介の声がそれに追い討ちをかけた。
「ふ………くぅ……ん……」
だらしなく開いた口からは、止めようもない声と唾液がひっきりなしに漏れて。
「は…あッ……あ」
みさかいのない下肢は、いつまでもたらたらと涙を流し続けて。
男の快感は射精がすめばそこで終わるものだと思っていた。だが強引に内側から昂められ続けている身体は、底無しのようにひたすら快楽を追って、膨張と弛緩を繰り返す。すでに長時間にわたる緊張で疲弊しきった全身は、動くことすらままならぬのに刺激だけは敏感に拾い集めて、身体の一部に痛いほど血を集める。
「けい……け……!」
名前を呼んで、どうしたいのかもわからない。止めてほしいのか、もっと強い刺激がほしいのか。縋りたいのか拒否したいのか。
擦られて腫れた性腺は、己の意思の届かぬ場所で暴走を繰り返し、気の遠くなるような長い絶頂感ばかりを追い続ける。
搾り尽くすと言った、あれは嘘であったかのように。
一度も熱を吐き出すことを許されず、それでも何度も昇りつめさせられ、叩き落とされて。瀕死の身体は、無理やり覚醒させられて、また深い淵へと突き飛ばされる。
最後には汗か涙か自分でもわからぬ雫に頬を濡らして終わりを乞うた。満足したのか啓介は、あっさり先に進んだ。長いこと含まされ続け、すでに異物と認識することさえできないほど血肉と溶けてしまったかのような器具が引き抜かれ、代わりに質量とも比べ物にならないものが押し込まれた。それでも噤むことができないほど開かされた身体は、そのまま肉を飲みこんで、深く深く受け入れた。
「ん……く…ァ…」
錯覚だと分かっていても、啓介が動くたび痛みより働かされ続けた快楽を探る神経の方が過敏に反応し、涼介は自ら腰を振った。
「いいの?」
返事の代わりに、太腿を男の身体に絡みつかせる。
「オレも。すげぇいいよアンタの中」
うっとりしたような声で言われ、そのまま右の胸の実を齧られて、たまらず啼いて髪を振り乱す。
「きちきちで乾いたアンタもいいけど。こんなに柔らかく熟れて、すげえ、奥まで吸い込まれそう」
そんな言葉を吹き込まれながら。
何度も突き上げられ、引きずり出され、剥き出しの神経を抉る肉に狂ったように踊らされて。
「アンタの中に、出すよ」
ようやく。
「オレの手の中でイって、アニキ」
今日でいちばん優しい囁きとともに、啓介は涼介の前に手を伸ばした。
すぐ洗ってやりたいけど。
でもダメ。今日は罰。このまましばらくオレのを飲んだままでいて。
そう言って啓介は、一人でバスルームへと向かった。
行為の途中で解かれたはずの戒めは、またきつく結びなおされてしまい、涼介は再びベッドに繋がれた。
たとえ戒めがなくとも、寝返りすらうてるかどうか、今の涼介にはあやしかった。
器具で涼介をのたうちまわらせた分、啓介自身はおあずけを食っていたのだ。その分を取り返そうとするかのように、啓介はひたすら涼介を貪り続けた。溢れんばかりに注ぎ込まれ、同時に搾り取られて。身体中がからからに干からびているようなのに、腹だけは啓介の出したものでいっぱいだった。
このまま孕めたら、どんなに楽かと涼介は思う。
自分の遺伝子などどうでもよい。AIDに用いられるのが健全な精子だというなら、己のものほど不適切なものはない。
あんな最悪の男に、執着してしまう最悪の遺伝子だから。
精子提供に興味があったのは事実だ。だが、それは啓介が言うように、己の種を残したかったからではない。
今もっとも涼介が恐れていることを、啓介は知っているだろうか。
それは、啓介を失うこと。
別れることではない。そんな覚悟ならとうにできている。こんな歪んだ関係が、いつまでも続くことの方が間違っている。
恐いのは、啓介という存在が、自分より先にこの世から消えてしまうことだ。
だから。残したかったのは、啓介の種だ。
提供用の精子は自分で採取するのだから。もし啓介のそれを、己のものと偽り通すことができるなら。
万が一、不慮の事故などで啓介を失うことがあったとしても、啓介の遺伝子を持つ人間がどこかに存在すると思うだけで、きっと自分は生きていける。
実行しようと、思ったわけではなかったが。
そんな考えを持った時点で、自分は充分医師の卵失格だと涼介は思う。
「お前の方が、よっぽど医者に向いてるかもな」
意外に繊細に医療器具を扱った弟の手を思い出し、涼介は悲しい笑みを漏らして瞼を閉じた。