いつか、あなたをなくす日が

 

 啓介が制服を脱いで一月。涼介が自分のチームをたちあげる日も近い日々。

金曜の夜は明け方まで走りこんで、土曜は昼過ぎまで眠る。それが高橋家の兄弟の習慣になった。兄弟の習慣は家全体の習慣でもあって、家政婦の出勤時刻にも影響を及ぼす。彼らの眠りを妨げないために、通いの家政婦は土曜日は休日。

昼の一時に起きてきた弟は、

「おはよう」

リビングで昨日の夕刊と今日の朝刊に目を通す兄の姿を見る。近づいてキスした。金曜日の夜は……、しない。代わりに土曜は昼間から抱いていい。それがいつのまにか、彼らの習慣になった。

唇を重ねながら、兄の手から新聞を取り上げる。兄はかすかに笑ってそれを手放す。情熱的なディープキスから、本格的なセックスへ気分が移行していく、途中で。

優しい音楽がリビングに満ちる。来客を知らせるベルの音。起き上がろうとする涼介の首筋にくちづけながら、

「ほっとけよ……」

既に盛り上がり掠れた声で弟は囁く。

「出前だ」

「え」

「昼飯だよ。腹が減っただろ?」

言われてみれば、確かに。けれど。

「メシよりあんたが食いたい」

「食ってからでも俺は逃げないぜ」

くすくす笑いながら起き上がる涼介。門扉のロックを解除する。それをもう一度とめるには弟は健康な若人だった。とても空腹だったのだ。

近所の仕出屋から届けられた和食料理は、二の膳つきの豪華なもの。ファミレスのランチなら十回近く食べれる値段。別に自分が支払うわけではなかったが、贅沢なもんだと膳と、兄の顔を見比べる。

「二人前って、持って来て貰いにくいじゃないか」

つい単価の高いものを頼んでしまう言い訳のように兄は呟き、清ましの蓋を取った。しっかりものの長男は家政婦の休みと両親の不在が重なったとき、いつもこうして啓介に食事をさせていた。

「どっかに食いに行っても良かったのに」

「昼間はなるべく、外に出たくないんだ」

「アニキってヘン」

啓介の正直なコメントに涼介は苦笑をもらした。気は強い。愛想はやや悪いけど礼儀正しさでフォローできる程度。なのに時々この人は人目を避けたがる。見られることにうんざりしているのか。

学校と峠と自宅。涼介の行動範囲は要約すればそれだけ。社交性という意味では啓介の方がよほど優れている。

「そんなんで医者んなって、やってけんの?」

家の外での行動をともにするようになって初めて、気づいた兄の性癖に啓介は危惧を抱く。

「分からないけど、仕事になったら平気じゃないかな。……多分」

学校が病院に変わるだけ。ふぅんと啓介は興味なさそうに頷き、壁面に掛けられたTVの電源をいれ箸を取る。刺身から先に手をつけていたとき、ニュース番組が地方と切り替わった。

 

本日、高崎市内国道……で、事故があり、死者一名、重軽傷者六名の大惨事となりました。

 

聞きなれた地名と事故のニュースに二人は箸を止めた。そして。

 

亡くなった配管工の三村和彦さんは二十歳、友人の田上美恵子さんと横浜へ向かう途中、中央線をこえてきた居眠り運転のダンプをよけきれず事故に至った模様……。

 

涼介は眉を寄せた。聞き覚えのある名前だった。啓介は目を見開いてTV画面を凝視。そこへ、鳴り響く電話の音。

「はい、高橋。……、はい。少々お待ちください」

啓介に受話器を渡した涼介は、

「あぁ、見た。……いや、全然。うん。……そーだな」

啓介の声を背中に聞きながら二階へ。啓介の部屋に入り啓介の携帯を手にする。乱雑な部屋だったが、音をたよりに携帯はすぐに見つかった。もったままで階下へ降り、弟にそれを差出す。弟はうつろに受け取って、

「……俺」

応える間にも、家の電話が、また鳴り出した。

 

早い時刻の事故だったから警察から遺体が返ってくるのも早くて、その日のうちに通夜が営まれる。制服を脱いだばかりの啓介には喪服の用意がなくて、仕方なく、涼介のを着て出かけていった。

帰ってきたのは夜更け。眠らずに、涼介は待っていた。

「お帰り。遅かったな」

「うん。ダチと一緒に、現場に花、置いて来たから」

「連れの女性は無事だったって?」

「ん。車のそっちがぶつかんないように、先輩が庇ったんじゃないかって」

彼女はほんの軽症で、通夜にも姿を見せていた。泣きじゃくる細い背中が弔問客の憐れを誘った。遺影は女たらしで知られた先輩らしいハンサムさで、どこか人を食ったように笑っていた。そんな笑い方をしていてもいやみじゃないのは目が優しかったからだと改めて、気づいた。

「食事、できるか?」

「いい。眠るよ」

疲れた、と呟いて階段を上がっていく弟の背中が頼りなく見えて、涼介は細く息を吐く。二回の涼介の部屋がノックされたのはそれから一時間もたたないうちだった。どうぞとも言わずに涼介は机から立ち上がりドアを開ける。

「ごめん。……邪魔した?」

「少しも。どうせ暇つぶしだ」

「こっちで寝ていい?」

「もちろん」

肩を抱くようにしてベッドに連れて行く。子供の頃によくそうしてやったみたいに。子供の頃と違うのはこっちの腕を掴む掌の大きさと力。そして同じようにベッドに、引き込まれるということ。

キスをしながら、自分でシャツのボタンを外していった。悲しみに痛めつけられた弟に、こんなことでしか慰めてやれないから。でも、こんなことでも慰めてやれてよかったとも思う。

弟の掌が胸を背中を、脚の内側を撫でる。唇に含まれて、逆らわず嬌声を上げた。身体が妙に昂ぶって感じやすい。頭の芯が痺れたようになっているのは何故だろう。死んだという男の名前が確か……、この弟を一時とはいえ奪ってくれた女の騒ぎの時に、聞いた名前だからか。

「アニキ」

「ん……?」

「死ぬなよ」

「馬鹿……」

「馬鹿じゃネェよ。あんたは死なないで」

殆ど泣き出しそうな声。肩に手を掛けて促すと、弟は素直にずり上がってくる。抱き締めてキスを繰り返す、安心させるように。安心すために。

「俺さ……、あんましダチ、居ねぇんだ」

弟の告白に、

「俺もだ」

即座に答える。男だからな、仕方ない。周囲の雄は手下か敵。その中でダチと呼び合える適性を互いに持ち合う関係はつくりにくい。俺には多分、友人は史浩だけ。……須藤京一はもう少し、かなり微妙な位置に居る。

「先輩、アタマ良くってさ。俺、よく、説教されてたよ。でもナンか腹たたなかった。アニキと少し、似てたし」

「俺と?何処が」

「よく分かんねーけど、容赦なくって優しかったから」

「泣くなよ。俺が居るだろ」

歳若い死は、衝撃が大きい。知り合いなら尚更。友人なら一層。

「俺がもっと、そいつの分まで優しくしてやるから、泣くな」

「……ウン」

「万一死んでも、ずっと居てやるよ、そばに。お前を守っててやる」

返事はしばらくなくって、やがて。

「アニキって、いっつもそうだよな」

不平というか、不満そうな声。

「守ってやるとか優しくしてやるとか、俺にしてやることばっかり、言う」

「そう……、かな」

「そだよ」

「嫌か?じゃ、どうさせたいんだ?」

分からないと弟は呟き、ただ。

「脚、ひらいて」

今して欲しい、ことを口にする。言われるままに膝を緩めた。

「もっと」

言うとおりに、した。

「捨てられるって……」

「え」

「俺が絶対、本命に捨てられるって言ったんだ、先輩」

「……捨てられたのか?」

「寝ぼけんなよ。こっち無茶苦茶、ブルー入ってんのに。あんたにだよ」

「俺がお前を?まさか」

馬鹿なことを言っていないで。はやく来いよと、耳元で囁く。

「俺に欠陥があるってさ。他人の痛みが分からないやつだって、言われた」

「そんなもの分かる奴なんか居やしない」

確信をこめて弟の、耳元に断言する。

「自分の痛さも麻痺させなきゃ生きていけないくらいなんだ。他人の痛みまで分かってて、人生やってける筈がない」

「……でもさ」

「好きな相手の痛みなら、たまに自分より痛いとき、あるけどな」

「……たまに?」

「そう。……今」

「あんたは優しいよ」

「お前にだけだ。イタイから、早く」

傷口を埋めてと囁く。苦笑いの気配とともに貫かれる。快楽よりも満足が深い、衝撃。

「ん。クハ……、ン」

「……好き」

細い声の告白にほくそ笑む。

 

他人の不幸をダシにして抱き合う背徳の蜜が、……甘い。