その、はじまり

 

 

 与えられた時間は一年。その間にこのガキを一人前にしなきゃならない。

 はっきり言って俺は焦ったし必死だった。ヒスを起す階数が増えた自覚もあった。総悟がそんな俺にうんざりしてんのも気づいたが、嫌がられても呪われても一年間はベタづきで仕込むつもりだった。

 二十四時間ほとんどそばに置いた。休日は与えなかった。ストレスが溜まってるのは分かってたが半分はわざとだった。加圧で蝶番を跳ね飛ばして、一皮剥けて欲しかった。喧嘩したいのとは違うが似てるところもある。歳より遥かにしっかりしてると内心じゃ思ってるが、足りなかった。

 一つの組織を引っ張っていく為の、大事な何かがこいつには足りない。それは独立心とかいうものかもしれない。足りない原因は俺と近藤さんだ。ガキの頃から可愛がって、甘やかしてきた。

 親離れして欲しい、っていうのは総悟に失礼かもしれない。でもそれが本音だった。俺を嫌いとか死ねとか言いつつ心の底では頼ってる、キモチを変えて欲しかった。お前は俺を通り越して行かなきゃならねぇんだよ。近藤さんの跡取りなんだから。

 その日も朝から城内を引っ張りまわして、関係各所に顔売って屯所に帰り、夜には名刺を整理させた。名前と役職を頭に叩き込もうとしてるところで、総悟がキレて、畳に紙片を投げ出した。

「もーパス。疲れた」

 気持ちは分からないでもない。体力的にはなんてことない一日だが、慣れない敬語や振る舞いをすることに疲れ果てていた。目の下に疲労が濃い。でも俺は許さなかった。拾え、揃えろ、読み上げろ。静からそんな風に言った。

「やってらんねーよ。チクショウ」

 名刺の上にごろんと転がる、ガキをその時、俺はひどく、可愛らしく思った。猫が読んでる新聞の上に座り込むのとよく似たパフォーマンス。構え、撫でろと言われてる気がする。でも。

「……オイ」

 畳に転がった総悟の喉をつま先で、踏んだ。

「なにフサケてんだ、ヒジカタァ?」

 ガキでもこれは武門の男子。足蹴にされた屈辱に青筋をたてる。

「いつまでテメェ、甘えたガキのつもりだ?」

 怒りの余り身動き出来ない総悟を見下ろしながら俺は言った。マジで喧嘩したらもう敵わないだろう。俺は負ける。負けて地べたに這わされて、そしたらこいつにも分かるだろう、なんて考えながら。もうお前を誰も庇っても守ってもやれない。お前は一番で、自分がしっかりするしかないんだ、ってことを。

「あんたこの前から、俺を怒らせようとしてたけど」

 見下ろす総悟のぱっちりアーモンド形の目が澄んでくる。咄嗟の怒りから考え深い表情へ。こいつは決してバカじゃない。普段、頭を使わないだけで。

「今日ははっきり挑発するんだな。覚えのわりぃガキに芸、仕込むのもう飽きた?喧嘩別れして、さっさと出て行きてぇの?」

出ていきゃしねぇよ。来年までは。お前をきっちり、アタマ張れる男に仕込むまでは。ただ。

「自覚、しろ」

何を、って顔で俺を、ガキが見上げてくる。

「お前はもう、俺より強い」

 真っ直ぐに言うと、ガキは目を細めた。嬉しそうにじゃなかった。そうやって事実から目を反らして、いつまでも俺と近藤さんと三人で仲良く、なんてのは無理なんだ諦めろ。

 お前にはもう風切羽が生えた。初列から三列まで綺麗な形で見事に生え揃った。お前が鷹でさえない鳳凰の雛だってことは最初から分かってた。俺たちは幼生のお前と出会って大事に育ててきた。天才の周囲ってのはそんなもんだ。神様から預かった才能を宝物みたいに抱いて守ってきた。

 幸せで楽しかったのは俺たちも同じだ。でもずっとあのまんまで、いられる訳がないのは分かりきってたこと。お前は巣立って遠くに行かなきゃならない。現実的には最初に近藤さんが、来年は俺が、お前に地位を明け渡すために出て行くが。

「ひとりで、たて」

 俺がそう言った意味を総悟は正確に理解した。顔をくしゃくしゃにして、泣きはしなかったが辛そうに眉を寄せた。悲しむな。分かってたことだ。俺は少し寂しいが、そのうち慣れるだろう。

「……分かりやした」

 総悟が答える。分かったというよりこいつも分かってた筈。ただ受け入れきれなくて足掻いていたに過ぎない。

「喧嘩して、俺が勝ったら、聞いてほしいことが、ありやす」

 喉を踏んでいたつま先に触れられる。触り方がそういえばおかしかった。嫌そうに振り払うんじゃなくてそっと、なんてぇか、女の何処かを扱うみたいに、どこをどう掴めばいいのかこれくらい力を入れても大丈夫かなと戸惑いながら、外して畳に戻して腹筋だけで起き上がった。

「なんでも聞いてやるぜ」

「うん。……ききたくないっても聞かせるけど」

「道場行くか?」

「試合じゃねーんだから、ここで十分だろィ」

 いやでも、喧嘩、するンなら表に出た方がよくねぇか。建具だの机だのあると余計な怪我を、とか、そんなことを考えてた時点で俺の負けは決まった。最初から決まっていたかもしれない。戦闘態勢に入るのが俺は明らかに遅かった。自分から喧嘩するぞ宣言しておいて。

「そ……、が……、ッ」

 何をどうされたのか咄嗟には分からなかった。後々思い出してみてもよく分からなかった。総悟の身体は俺の予想を超えて動く。速度角度ともに。気がついた時には両腕を背中に捩じ上げられて、うつ伏せにツラを畳に押し付けられて、完全な降伏、俘虜の姿勢だった。踏んだ仇を十分にとられた。

「なんで笑ってんの?」

 嬉しいからだ。お前が強くって。

「笑うなよ。人を追い詰めといて」

 俺もそこそこ、それなりにいい線いってる。そんな俺を子ども扱いで捩じ伏せる、お前の強さに満足してんだよ。

「ひでぇ人だよアンタは。……分かってたけど」

 総悟のため息が後ろ髪に当った。いいけど、そろそろいい加減、放せ。負けを認めながら俺が言うと、妙な真似をされた。後ろ髪を噛まれた。

「おい?」

「バカなのも、自覚が足りねぇのも、ナンにも分かって、ねぇのも、アンタの方、なんだ」

「総悟?」

「……優しくしやがって……」

 呻かれる。なんだ、分かってるじゃねぇか。俺は優しいよオマエにはすごく。いい時期だとは分かってたけどどうしても心配で、一年、俺だけは残してくれって松平のオヤッサンに哀訴した。俺の出世が遅れるのなんかはどーでもいいんだよ。オマエに比べりゃ、先は知れてるから。

「近藤さん居なくなって、あんたもう、垣根なくなったのに」

「おい?」

「さわり、やがって……ッ」

 なにを言っているか今度は分からなかった。喉をつま先で踏んだこと言ってんのか、勝ったのにまだ怒ってんのか。それにしちゃ口調が、口惜しがってんのとはちょっと、違ってた。

「もう……」

 畳に這わされた俺に総悟の顔は見えなかった。でも声だけで十分に分かった。何がどんなかは分からないが、ヤバイってことは分かった。

「……、ひ、じかた……、さん」

 後ろ髪じゃなく今度はうなじを噛まれる。ちょ、っと、待て。まさか、でも、もしかしたら、でもまさか。いやでも。

「あんたが、わりぃンだよ……ッ」

 でも、まさか。