けっこう長く謹慎処分を食らっていた副長が隊を出て行く日。

「迎えの車、橋を渡ったって、もーすぐ着くのに、土方さんはまだか?」

「局長に挨拶に行ってる」

「見送りに出ないのかな局長。あの人にしちゃ珍しいなぁ」

「やっぱ土方さん引っこ抜かれるの反対なんじゃないか?」

「えー、でも不始末で除隊されそーなのを遊撃隊の佐々木さまが拾ったって聞いたぜ?」

 その『私行上の憚り』が何だったのかは公表されないまま出発の日を迎えていた。

 洗い清められた正門は大きく開かれ、門柱までピカピカに磨きこまれている。真撰組副長の土方は、今日づけで幕府遊撃隊へ籍を移す。その背後の事情を隊士たちには知らない。が、出世であることはみな分かっていた。将軍様の御座近く、江戸城内の警護を担当するエリート部隊だ。

「出向じゃなくて行きっぱなしなのかなぁ。ちょっと、寂しいよなぁ」

「えー、まさか。そのうち帰ってくるんじゃね?フクチョー居なくなったらウチも困るし」

「沖田さんの暴走を止めてくれる人が居なくなるしなぁ」

 隊士たちは門内に居並んで、小声で私語を交わしながら旅立つ人が現れるのを待った。やがて迎えの車が遠くに見えると門番から合図があって、私語をやめ姿勢を整える。

 やがて奥から現れた真撰組「もと」副長は、既に隊服ではなく、珍しいスーツ姿。久しぶりの様子は少しやつれて見えたけれど、美男っぷりは相変わらずで。

 先導は山崎。門前に横づけされた黒光りする高級車のドアを、出立のために開けた。

 乗り込む前に振り向いて、土方十四郎は屯所の玄関と、そこに居並ぶ隊士たちを見た。その時どんな表情をしていたかは逆光だったら、隊士たちにはよく見えなかった。

 懐かしそうな、切ない寂しい、その顔を見たのは山崎だけだった。

「いってらっしぇえませぇー」

「らっしぇーませー」

「ませぇー」

 野太い声の重なり響きわたる中で。

「お元気で。いずれ参上します」

 小さな声で山崎は囁き、後部座席のドアを閉める。

 高級車は静かに、腰高で艶な副長を運び去る。

 見えなくなっても随分長い時間、山崎はそれを見送っていたが。

「山崎さん、どうされました?」

 若い隊士に尋ねられ、なんでもないよと笑って、なんでもないふりをしながら隊内へ戻る。

 本当は追って行きたかった。取り戻したかった。

 その人がここから居なくなるなんて嘘だと心の中で呟く。どうしても信じられなかった。

 

 

 

 

 

 

 主人が居ない屋敷の奥、夜半。

「ナニやってんだ、お前」

 物音と気配に気づいて起きてきた二枚目は寝巻き代わりの襦袢に羽織を引っ掛けた姿だ。懐かしいなりに、振り向いた男は思わず笑った。骨が軋むほど、痛みで声も出ないほど、左腕を捩じ上げた青年を膝の下に敷きながら。

 右手は、肩を外されているらしい。だらんと、不自然な形に床に投げ出されている。

 それを見て二枚目は嫌な表情。軽蔑と嫌悪の混じった目線にも怯む様子を見せず、白髪頭の男は逆に見せ付けるように、若者の腕を背後に捩じ上げた手に力をこめる。

「……ッ」

 青年は悲鳴を上げなかった。せめてもの意地だった。

「そんなガキ虐めて楽しいか?」

「楽しいからやってんじゃないよ。撃ちかかってこられたら迎え撃つのが武士の流儀でしょ?」

「勝負決まった後で嬲るのは武士らしくねぇな」

「トシが止めろって言うならよすけどさ」

 素直に、男は捩じ伏せていた若者を離す。若者は右手をだらりとたらしたまま、それでも健気に跳ね起きて『賊』を睨む。

「いっぺん降参したクセに生意気なんだもん、そいつ」

「夜中忍び込む賊を見つけけりゃフツーは撃ちかかるだろ。大丈夫か、見せてみろ」

 場所は厨房から表へと続く廊下。呼吸の荒い若者に近づいて外された肩をはめてやろうと近づく二枚目を。

「まさかアンタの用心棒じゃないよな?」

 行かせず男は、目の前を通り過ぎようとする腕を掴んだ。

「まさか、だよな、こんなガキ。たらしこんで守って貰おうとか、そんな馬鹿な真似はしてないよな?」

 二枚目は静かに男を見た。男の顔は笑っている。

「ナンかご直参の若手じゃエースらしいけど、こんなお坊ちゃん準備運動にもなりゃしねぇ。まだトシが自分で待ち伏せしてる方がマシだ。……ナニじっと見て……、これか?」

 二枚目の視線を受けて、男は自分の目尻の傷を、あいた片手で撫でる。

「沖田クンにやられたよ。そこのお坊ちゃんと違って太刀風、さすがに鋭かった。一瞬ゾクっとしたさ。夜中の裏通りで。……アンタが嘆くと思ったから指は折らなかった」

「離せ。ちょっとでいい」

「肩はめてやんのは朝になってからにしてよ。はめたらまた撃ちかかって来そうだぜ坊ちゃん」

「離してくれ」

 丁寧に言われて男は手を離した。お願いされて叶えたというより、下手に出られるのが辛そうで、苦い表情を浮かべる。構わず二枚目は若者に近づき、屈んで肩に手をかけ関節をはめてやる。

 道場には荒稽古がつきもの、肩の脱臼は珍しいことではない。突きを入れられたり転がされたりが日常だから、剣術使いなら応急手当は心得ている。

「明日一応、医者行って診てもらえよ」

 肩はすとんと嵌ったがまだ痛そうで、呼吸のたびに顔をしかめるのを見た二枚目が心配そうに告げる。前にやったのと同じ場所を押さえているのが気になった。

「おやすみ」

 優しくさえ聞こえる静かさで二枚目は言って、そのまま奥の、自分の部屋へ引き上げる。

「返事はどーなの?トシちゃん?」

 後ろからついて歩きながら白髪頭の男は問い詰めた。

「あんなガキをたらしこんだワケ、アンタ」

「寄るのか?」

 自室の前までスタスタ歩き、ドアの取っ手にてを かけた姿勢で二枚目は振り向く。

「寄るよ」

「ヤんのか」

「……また泣く?」

 尋ねる男は顔を伏せて、この男にしては珍しく気弱そうに見えた。

「イヤだとは今も思ってるが」

 鍵をかけていなかったドアを押して、内側へ開く。

「なぁ、トシ」

「抵抗しないからさっと済ませてくれ」

「なんでこの前、あんなに嫌がった?」

 返事をしないまま部屋に入った二枚目を追って男も室内へ。私設秘書、にしてはわりといい部屋を貰っている。日当たりのいい八畳ほどの洋間。奥には狭いが和室もあって、そっちに布団が敷いてあった。枕もとの刀かけには見覚えのある和泉兼定。

 一緒に住んでいた『家』で、けっこう仲良く、睦まじく暮らしていたのに。

「なあってば、返事しろよオイ」

 ドアの鍵を掛けていた男は洋間の椅子に羽織を脱いで、さっさと寝床に戻る背中に早足で追いつく。しらっとしている肩に手をかけ強引に振り向かせ、すぐに手を離した。

 痛そうな顔をされたからだ。そんなに強く掴んだ訳でもないのに。

「……ごめん」

思わず謝る。痛そうなのが演技とは思えなかった。目もとが青白い。

「俺が悪かったって、ほんと心から思ってる。軽率だったし、それでアンタに迷惑かけて、ゴリさんにまで……、一生かけて償う」

「なにを、どうやって」

 毛布を捲って寝床に横になりながら二枚目は、責めるというほどの熱意もなく尋ねた。

「お前がなにしたって近藤さんの指は戻らねぇよ。一生かけて償うのは俺だ。お前は背負いきれないくせに格好つけんじゃねぇ。さっさと自己破産して、キエロ」

「トシ」

「呼び捨てにすんじゃねぇ。もうお前とは他人だ」

「別れない」

「消えてくれ」

 寝床に重なってカラダを伸ばしながら、薄情な唇は感情をこめずにそんなことを言う。

「この世からじゃなくていい。俺の目の前からだけで」

「できない。来るよ。オンナは結局さぁ、抱いてくれる男しか見ないじゃない」

「……イヤだな」

 抵抗しないと言ったとおり、手首でさえ抗わず大人しくシーツに伏せながら襦袢の肩を剥かれ、珍しい詠嘆調で。

 男は言葉を返さなかった。口で何を言ったって無駄なことだと、思っているのが強い指先から肌に沁みる。白髪頭ごしに天井を眺めながら、喉を舐められてぞくりとした。カラダは反応する。長い付き合いだ。

 抱けばオンナは思い通りになると思っているこの男に、言葉でナニを言ってもムダなのは分かっていたからそれ以上、二枚目も口をきかない。オンナは組み敷けば従うと思っている、この男の信念は間違ってはいない。でも。

 それは隙間がない頃の話だ。

 素肌からの熱を愛情に変換して潤えたのは。

「……ッ」

 態度ほど余裕のないらしい男の乱雑な前戯も、硬い爪がヤワな内側に引っかかったことも、昔なら自分を欲しいからだという自惚れで、可愛いと思えたかもしれない。

「ゴメン」

 頬を摺り寄せて、それでオンナの機嫌をとった気になっているあさはかさも。

「まだ残ってるな、違うオトコのクセ。でも前よりゃマシだ、だいぶ。ちゃんと通って、もとに戻してやるヨ」

 ちがう。

 隙間があいてしまった原因は、そんなことではない。

「しがみつかないの?」

 脚を拡げられて熱を押し当てられて、つながれる寸前に声がかかる。肩を竦めてぎゅっと目を閉じていた様子は痛みを怖れているように、見えたのかもしれない。

 しがみついていいよ、と言わなかったのは男の、かすかな遠慮、気弱さだったのかもしれない。

「こわがるな、よ。すぐ慣れる。思い出せるって」

 シーツを握り締めていた手指が男に掴まれて、ほら、という風に背へ導かれる。その動きで落ちた腰をもう一度、腕に抱きなおして繋がる角度を探りながら、目尻を舐めることで慰めているつもりの男の、髪をそっと撫でた。

 ん?

 という、優しい顔で、男が目を合わせに来る。機嫌をとるように全身を擦り付けられてオンナは少しだけ笑った。笑ったことにオトコはますます優しくなって、ジョイント寸前の熱に耐えながらオンナの耳たぶを舐めてやる。

 優しい台詞を、なにか探して、言おうと欲情に赤く霞みかけた意識で必死に、言葉を探し出すよりも前に。

「お前は俺より桂を好きなんだよ」

 オンナが先に、致死量の毒を吐いた。