重代の旗本、若手武官のパリパリ、将来の大老候補と目されるエリート、しかし自室で夜中には大きな羽根枕を抱えて無心に眠りを貪る館の主人の安眠は破られる。音量を抑えた枕もとの電話が、内線からの音程で鳴った。

「……」

 時刻を確認する。午前四時二十七分。それからそっと受話器を取って、でも先に声は出さない。賊が探りをいれているという万一の場合を考えて。

十歳を越えたばかりで武芸を志し、天稟に恵まれ師匠に恵まれ努力は報われて二十歳になるやならずで幕臣きっての小太刀の使い手と言われるようになった。

ただ、そんな生活に優しい育ちの妻は馴染まず、亭主の投獄・謹慎をきっかけに実家に帰ってしまった。そのまま何年も別居中。顔もはっきりは思い出せない。

それを寂しいと思うほど繊細ではない。が、両親のなくなった屋敷が広すぎることはあった。

『キーボックスの暗証番号は?』

 聞こえてきたのは無愛想だがリズムのある声。

『病院行く。車使わせろ』

「だれにものを言っているのかね、君は」

『秘書に美人局しかけやがったロクデナシに』

「……具合が悪いのか」

 欠伸をしながらベッドから起き上がる。夜分の火事や襲撃に備え、小袖と細帯で眠っているので、上着を羽織れば外出の用意は整う。

「どこに居る」

『キーボックスの前』

「すぐ、行く」

 病院に連れて行ってやるつもりでそう答えた。ただの秘書ならそんな真似はしないが、電話の相手にはなんとなく柔らかく出てしまう。

 以前遊んだことがあるから。それもある。けれどそんな何年も前の事情より、単に好みという理由の方が大きい。普段は極力、表に出さないよう自制しているが時々は本心がこぼれる。幕府遊撃隊・指揮官の佐々木四三郎という男の本性は、好き嫌いが激しい。のろいヤツは大嫌いで、返事が遅い部下には嫌悪を通り越した憎悪を抱いてしまう織田信長タイプ。

 返事も聞かずに受話器を置き、細帯に脇差だけを突っこんで部屋を出た。地下駐車場へ向う廊下に常夜灯は点っている。が、わざと明かりの下に皿を置いて足元は暗くしてある。明かりの位置は一定なのに途中、何度も床板に段差が作られ踏み込んだ賊がけつまづくよう仕掛けられた、武家屋敷らしい造り。

 駐車場には人影が二つ。一人は床にうずくまり、一人はその肩に手をかけてしっかりしろ、と言っているように見えた。

 屋敷の主人は片手を脇差の鞘にかけたまま眉を寄せる。うずくまっているのは甥っ子で、その横でこちらへ挑発的な視線を投げてきたのは黒髪の秘書。具合が悪いのはこの美形ではなかったらしい。

「どうした、八介」

 尋ねるが返事はない。声を出す余裕がないのではなさそうだから、答えたくないのだろう。

「本道(内科)か、外科か」

「外科だ」

「ふむ」

 病なら自分も付き添うつもりだった主人だが、怪我と聞いて構わないことにした。カクカクシカジカの事情で無法な暴力を受けたと正式に届けがない限り、多少の喧嘩傷は見てみないフリをすることにしている。

「わたしは今日、夕方から出仕で泊まりだ。八介の代わりに君が供を勤めたまえ」

「願い下げだ。……立てるか?」

 主人がキーボックスから取り出した車の鍵を受け取って、黒髪の美形はうずくまる男に、親身に声をかけた。

「掴まれ、ほら」

 支えてやって歩かせる。よろめく男を後部座席のシートに導いて、運転席に廻った。

「ストライキはいい加減にしたまえ。待遇に不満があるなら改善しよう」

 この秘書は久しぶりに口を利いた。最近は使用人の住む一角から出てもこなかっった。屋敷は広く、主人の居住区と使用人たちの住まいははっきりと別れている。武家の習慣で主人は使用人の部屋には踏み込まない。執事や甥を通して何度か出勤は促したが、体調が悪いと言い張られ、それっきり。

 今、駐車場のオレンジがかった明かりの下で見る横顔は、やつれたかもしれないが病的な感じは無い。

「登城のたびにさよ姫から君はどうしたのかと尋ねられる。お姫様に毎回、人殺しを見るような目で見据えられるのはたまったものではない」

「ろくでなしには違いないじゃねぇか」

 主人に向って言葉を返す、口調も弾力があって力強い。

「わたしはこれから寝なおすが十時には起きる。病院から戻ったら部屋に来たまえ」

 私用人の部屋には行けなくとも自室に呼び出す権利はある。当然のそれを行使して、屋敷の主人は駐車場から出て行った。返事をしなかった二枚目は構わず、車のエンジンをかける。振動のないようそっと、アクセルを踏み込んだ。

「なぁ、おい。落ち込むなよ?」

 夜明け前の、しんと静まった街を車で進みながら。

「あいつがおかしいんだ」

 情人だったこともある男の腕の冴えを、誇るでもなくシンプルに表現。実戦度胸がすさまじくて、血煙の修羅場を何度もくぐったもと真撰組副長をして尚、規格外だと称さしめる白髪頭の凶侍。

「お前けっこういいセンいってるぜ。幕臣のお坊ちゃんにしとくのは惜しいくらいだ。こんなことで落ち込んで、素質を鈍らせるなよ」

 若者が負けてがっくりしていると励ましてしまう癖は管理職だったから。腕を磨く過程で負けは大切な経験だが、自分自身に落胆して萎縮してしまうこともないではない。

「あんまり落ち込むな」

 帰り際の白髪頭の男をもう一度、襲撃して撃退された、だけならまだしも、同じ場所に撃ち込まれた。

起きてきた優しいところもあるオンナが外れた肩を嵌めてくれようとしたが捻っていて、素人の手には負えなかった。手加減なしだな、と呟いた口調は『こんなガキ相手に』という感じで男を責めていたが、つまり往路は手加減されていたのだと、若者を更にがっくりと落ち込ませた。

「元気出せ」

かなり真摯に、何度も慰めてやるほど。

 反抗的ではない沈黙が暫く続いて、車は救急病院に近づく。

 なぁ、と、正直さに可愛げがなくもなく若者は、自分の肩を押さえつつ、そっと声を出した。

「オレ弱い?」

「少し脆い」

「あんた俺より強いの?」

「強いところもあるかもな。じじいだから」

「弟子入りするから、鍛えてくれよ」

「師範免状をもってない」

 つまらない切り返しだった。若者は口元だけで笑う。運転している黒髪の男にも雰囲気で伝わった。

「なんであんたみたいな人が、あんなのとつるんでたのさ」

「ワルさが似てたんだろ」

 その台詞を、その時は聞き流した。

 

 受付を済ませ整骨医に肩をはめてもらい、数日は激しい運動をしないよう注意され、痛み止めと解熱剤を処方される。

 若者が診療を済ませるのを、待合室で大人しく、付き添いの色男は待っていた。そして。

「悪ぃ、サキ行っててくれ」

 若者に車のキーを投げる。

「煙草買ってくる」

 

 それきり帰ってこなかった。