夕食の片づけを終えて山崎は出て行き。

「行ってきやぁーす」

 八時になって、沖田も出て行った。隊の屯所は完全二十四時間体制。夜勤の勤務は午後九時からで、それに一時間の引継ぎがあって、何もなければ午後十時、中番の勤務は終了する。

 二時間と少しの間を、ぼんやりテレビを見ながら待った。ここには山崎と沖田が殆ど入り浸りで、こんな風に一人になることは珍しい。

 テレビの画面を目は追いながら、意識は別のことを思う。ひの屋敷にもともと住んでいた、囲われていた女はどうなっただろう。女の趣味がいいとは言いがたい真撰組局長が口説いたにしてはまともな、優しい性質の女だった。優しいとはいえ玄人だったから、外囲いの妾になる以上は茶屋の女将が間に入っていたはずで、暇を出される手切れ金も多分仕切って、無一文で追い出されたわけではないだろうが。

 女が近藤の子供を産みたがっている、という話もちらっと聞いた。落籍してくれた近藤を本当に好きだったんだろう。なのに追い出されて可哀想だ。この『うち』を失った女のことが気になってならない。自分も似たようなものだ。

 この屋敷が多分、悪い。妾宅なんて何所も似たり寄ったりで、昔もう少し遠くに借りていた家を思い出す。庭に小さいが枝振りのいい松があるところと、背の高い板塀が庭を囲って道から敷地内への視線を遮っているところもそっくり。家賃はそこそこしたが、真撰組副長の懐が痛むほどではなかった。

特殊国家公務員としての給与は一般行員でいえば課長並み、それに危険手当の深夜勤手当の時間外手当だのが本給と殆ど同額ついて、使い切れない金額は銀行に累積していた。本人の生活は屯所に住み込みだから食費も光熱費も要らず、煙草代と休日の小遣いさえあれば十分で、それは手取り給与の、ほんの二割ですむ。

一定額になったら実家と姉の婚家へ同額ずつ自動で振り込む手続きをしていて、しかし両方とも結構豊かな家だから処理に困り、二家合同で『バラガキ預金』として丸々、積み立てられている。若い頃ちょっとグレて迷惑をかけた時期があって、その恩返しにせめてもの仕送りをしてみても所詮、身内の中で末っ子は永遠に末っ子扱いだ。

 アニキたちアネキたちは自分を可愛がりたいのだ、と。

 分かっているからさして不満もなく、お前の名前で田を買った土地を買った、という知らせを受け取るたびに礼状を書いた。撫でたがる年長に身内に可愛がらせてやるのも一つの優しさで、拒めば愛情を裏切ってしまう。

 似たようなもの、だったかもしれない。

 あの男と暮らしていた『休息所』の経費は家賃だけでなく、出入り業者の払いも何もかも、口座引き落としで自分がもっていた。電話一本で持ってこさせる食べ物も酒も、全て。それを恩に着せたことは多分、なかった。なかったと思う。でも、分からない。

 自分につもりがなかったとしても、相手が嫌な感じに受け取ることはある。言葉も、態度も。

 あの家が好きだった。座敷や縁側によくねそべっている男が可愛かった。全部崩れてもうなくなった。

 

「ゆく河の流れは……」

絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみにうかぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

 幼い頃に教養として暗唱させられた名文のさわりを口に出してみる。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくの如し。

 なにがどう悪かったのかは、まだよく分からない。

 全部剥かれて体だけになった後で抱きしめられたのが、死にたいほど辛かった自分の心理も、よく分からない。

 ろくに煙も吸い込まないうちに、気が付ければ煙草の火がフィルターを焼きそうになっていて、慌てて灰皿で消した。そこへ鳴り響くチャイムの音。玄関のオートロックが指紋照合で開いた合図だ。

「おか、えり」

 まだ少し緊張しながら玄関から居間への曲がった廊下の奥で、妾宅に戻ってきた相手を出迎える。玄関には出ない。人目につかないようにしている。

「ただいま」

 制服のままやって来た真撰組の局長は普通に答えた。答えながら上着を脱ぐ。なんとなく習慣で両手を出す。その手にばさっと上着は投げられたが。

「起きて待ってなくてもいいぞ、トシ」

 上着をハンガーにかける背中に、普通に声を掛けられる。気の利いた返事をしようとして出来ないで居るうちに、山崎が持ってきた羅紗の包みに気づかれて。

「刀か?ちゃんと掛けとけよ」

「あぁ、うん」

 さっさと私服に着替えた真撰組局長はコタツに入って、灰皿の中に気づいて。

「煙草こんなに短く吸うな。カラダに悪い」

 眉を寄せて、言うのはそんなこと。あぁ、とそれにもぎこちなく答え、どうしていいか分からずにぼんやり立っていると。

「入れ」

 コタツ布団を捲られて、テレビを挟んだ対面に滑り込む。

「番組変えていいか」

 テレビの中では美しい女たちが司会の質問に面白おかしく答えるバラエティー番組が始まっている。

「あぁ」

 黒髪の二枚目が頷くのを待って、家主はリモコンに手を伸ばし報道番組に切り替える。今日の出来事、国際関係、そんなものの最後に、最近えらく美しくなってきた将軍のお妹君、さよ姫の病院慰問のニュースがちらっと流れた。

「佐々木様に、今日会ってきた」

 おすましした姫様の美しさに思わず笑った、もと真撰組きっての美形の、横顔が強張る。

「さよ姫に虐められておられるそうだ」

 そう言う真撰組局長の口調が穏やかだったから、おそるおそる、テレビから視線を向けなおして顔色を伺う。口調どおり、穏やかに笑っている。

「姫様にはいつかお礼を申し上げに行かなければならないな」

「……あぁ」

 いつかが、とても、来るとは思えなかったけれど。顔を上げて世間を歩ける日が来るとは思えない。ましてや江戸城に出仕して姫君に拝謁できること、など。

「佐々木様は嘆いておられた。もともこもなくした、と」

「……?」

「悔いておられる。気が向いたら許してやれ」

「あのオッサン、そんなタマじゃないぜ?」

「そうか。後悔が嘘には、俺には見えなかったが。伊庭殿は謹慎一ヶ月と平隊士へ降格だ。これは不品行に対する遊撃隊内部での処罰で、被害者からの訴えがあれば法的に更に追訴されるそうだ」

 真撰組から幕府遊撃隊へ出向、見習い勤務中だった相手へのわいせつ行為。

「どうする?」

「あんなガキ訴えてどうこうしようって気はない」

「俺は?」

 さらっと尋ねられて。

「あ……、んたは……」

 動揺しながら、それでも答えた。

「……取調べだったし」

「誰をどうすれば元気になる、トシ」

 尋ねられて震える。そんなことを聞いてもらえる価値はもう自分にはない。

「言われるほど弱ってねぇよ」

「お前が居ないと何をしていてもつまらん」

「あん、たが、隣に、置いてくれるんなら、ずっと居るぜ、俺は」

「万事屋の首を獲ってくる気はないか」

「……俺が?」

「それで全部、なかったことに出来るんじゃないかと俺は思うが、お前はどうだ?」

「……ムリだよ」

「首が?事態が?」

「どっちも。全部。あんたの、指も」

「それはもう気にするな」

「むり……、言わないで、くれよ……」

 俯く。

「トシ」

 見下ろす位置から俯いた頭を、男の無骨な指が撫でる。そのままその場に、子供の相手をするようにしゃがんで。

「お前をずっと好きだった。お前を殺さなきゃならないと思った。言い訳にもならないが」

「……いまさらそんなの、聞かせるな」

「キスしていいか?」

 尋ねられ、返事の代わりに、自分から唇を寄せた。

 弱ったところで優しくする男のことを、ずるいと思いながら。