蹂躙・9


 将軍家ご令妹・そよ姫は。

「珍しい格好をなさっておいでですね」

 目がいい。そうして優しげな容貌に似合わぬお転婆だ。江戸城を抜け出して市井へ遊びに行ったこともあるくらい。城外の病院に入院した友人を見舞いに行って、そのまま院内で外来の混雑に紛れてお供の武士たちを巻いた。頭もいいが度胸もある。

「いつもの制服はどうされたのですか?」

 睫の長い、濡れたような瞳は光り方が強い。形のいい唇はきゅっと締まって、意思の強さを、もっとはっきり言えばこのお転婆の強情さを、見るものに知らしめる。

「職を変えたので」

 以前の制服は着ていない、と、濡れ縁に座っている姫に、庭に立ったまま答えた二枚目の男はもと真撰組副長。

 江戸城内のいわゆる表御殿、役所や公舎の集まった一角と将軍とその家族が暮らす奥御殿を区切る長い渡り廊下、この一角はそよ姫の『社会勉強』の場所だ。表御殿に出仕する偉いサンたちのお供の中庭の詰め所が見える。渡り廊下からお姫様は詰め所を眺め、その中から面白そうな相手を呼び出して話を聞く。話の内容は日常生活や市井の流行の気軽な話題が多い。深窓の姫君らしくない習慣だが、妹に甘い将軍の口添えもあって、その『勉強』は続けられている。

「前の方がお似合いでした」

 市井に紛れ込んだのを連れ戻されて以来、この男はそよ姫のお気に入りだ。真撰組局長の供をして城へ来るとよく、呼び出され話し相手を務めていた。お転婆をその後でしつこくは責めず、たった一人の『友人』のことを時々、話してくれる親切さが好きだった。暫く姿を見なかったが、久しぶりに会えた。

 今日の服装は地味なスーツ姿。ナントカというブランドの服ではないが、シャツの手首がぴったりのところを見ると仕立て物だろう。

「そのネクタイはちょっと素敵だけど。恋人からの贈り物?」

 絹だが染物ではなく、ごわごわした色糸を織り込んだ紬の張りのある質感がパリッとしていい感じ。

「いや。姉の紬を仕立て直した、リサイクルです」

 そんなネクタイが十数本、この男の洋服ダンスにはぶら下っている。男物の献上帯を仕立て直したものもあれば新品もあった。まともなスーツを着たことがない弟を心配した姉と義兄が心配して送ってきてくれた物だ。

「そうなの。とにかく、お元気そうで何よりです。随分こられなかったから、何かあったのかと心配していました」

「どうも」

「前のじぃやも突然居なくなってしまった。滅茶苦茶な罪状で流罪になる途中、惨殺されたと何年もたってから知ったの。あなたもそうかと思って心配しました」

「おかげさまで」

「そうね。命一つ無事なら、あとは後からどうにでもなるものね」

「……」

 何かが起こったことを察しているらしいお姫様に、目尻の翳りが艶な二枚目は薄く笑い返す。

「こんな時わたしのお友達なら、困った時は力になるよって言えるのに、わたしは何も出来ないの。前のじぃやの時と同じ。口惜しいです」

「いま、こうやってお話し頂いているだけで十分ですよ」

 渡り廊下には偉いさんが三々五々の姿を見せている。彼らにこの男がそよ姫の『お気に入り』ということをアピールするのはムダなことではない。気の強いお姫様は未だに、配流先への『護送』を担当したもと大名が出仕すると声をかけるのだ。じぃやは元気にしていますか、と。

 もと大名は答える。亡くなりました。まぁ、なぜ。病死です。もう何度も繰り返された言葉。このお姫様はそうすることで、その大名を糾弾しているのだ。あなたが殺したんでしょう、と。

「今は何をしていらっしゃるのですか?」

「私設秘書と護衛を兼ねて、人に仕えています」

「何方に?」

「佐々木四三郎さまです。遊撃隊の隊長の」

「あぁ、お父様のお気に入りだった方ね」

 その口調には棘があった。好意的とは言いがたい声音。しかし、思いなおしたように、表情を改めて。

「私からよろしくと、佐々木殿にお伝え下さい。……それであなたに、何かいいことがあるわけでもないけれど」

 お話をありがとう、と、裾を払って立ち上がる姫を庭から、男は頭を深々と下げて見送った。

 そして。

「顔のいい男は得だな、土方君」

 渡り廊下の端から姫様が立ち去るのを待っていた、遊撃隊隊長が現れる。

「姫様と何を話していた。私の悪口でも言っていたかね。……なにを笑っている」

「あんたみたいな強面でも気の強い女は鬼門なのかと思って」

「御用は済んだ。今日はもう屋敷へ戻る」

「了解しました。……もしもし、車を下馬口まで頼む」

 秘書らしく待機させていた公用車を呼びながら、主人の斜め後ろについて歩いていく。主人はお供の秘書が気になるらしい。振り向きながら、また話しかけた。

「で、何を話していたね?」

「あんたの悪口を」

「その他には?」

「ネクタイのことなんかを」

「確かにそれは趣味がいい。わたしも一本欲しいくらいだ。他には?」

「姫様の、前のじぃやのことなんかを」

「右京大夫殿か。あれは気の毒なことだった」

「その顔色じゃ、あんた一枚噛んでたな」

「姫様の母方祖父上の側近で、たいへん仕事熱心方だったが」

「なんで殺されたんだ?」

「開国主義者だったからだよ」

「……」

 それだけで、命を取られた時代から、ほんの十年しか経っていない。乱世の『時代』は過酷に流れ去り、人々はそれに適応した生き方を強いられる。

「今日は少し疲れた。屋敷へ戻ったら眠る。御用の電話以外は繋がないでくれ」

「分かりました」

 車は静かに下馬先へ横付けされ、偉い男は後部座席に乗り込んだ。秘書の色男は助手席へ。そうして主人と同じ屋敷へ戻る。色男の部屋は屋敷の一角にあり、その部屋の壁に、この男の洋服ダンスも置かれている。

「おやすみ」

 言って奥へ入っていく、男は馴れれば、悪い相手ではなかった。仕事熱心で今日もほぼ三十時間、一昼夜を越えて連続勤務についていたのに、屋敷に戻るまでは車の中でもしゃんとしていた。が、屋敷では、左手で歯を磨きながら右手で頬のヒゲを剃ろうとして怪我をするお茶目さもあった。

 

 初めて、否、『秘書としては』はじめてこの屋敷へやって来た時。

『前の時に言ったか言ってないか覚えていないのだが、女はこの屋敷内には居ない。通いの家政婦を除いては。うちの家政は幕府の失業対策事業に指定されているから、交代でやって来る。何か注文があれば、連絡版に書いておけばいい』

 奥方とはもう十年、別居中だと、屋敷の主人は話した。

『わたしも男だから、あまり最初に約束をすると、後から嘘つきと責められることになるが、突然ベッドにお邪魔することはしない。……安心したまえというのも少し奇妙な感じだが』

 その言い方には愛嬌があった。強面の偉い男が、照れていることを隠しながら目をそらして喋る、可愛らしさを美形の新任秘書は噛み締めて、少し笑った。本当に久しぶりに。

『部屋には鍵をかけて構わない。うちには一人、居候が居る。時々うろうろしているが、気にしないでくれ』

 居候というのは遊撃隊のホープにして江戸有数の道場の跡取り息子、伊庭八介。一緒に真撰組へ尋問にも来ていて、美形の新人秘書とも顔見知りだ。外では屋敷の主人のことを『隊長』と呼んでいたが、屋敷の中ではそれが「おじさん」に変化する。別居中の妻の甥っ子にあたる、ということを、本人から聞いた。

 

 その居候は、今日も。

「押忍」

 台所で会った「おじさん」の秘書に、湯上り姿でそう声を掛ける。歳は若い。真撰組の沖田よりは一つ二つ上だが。体育会系というか、いかにも道場育ちです、という感じの立ち居振る舞いは秘書にとっては慣れた肌合いで、悪い感じはしない。

「おじさんは?」

「自室で休まれた」

「なら、あんたこれからフリーだな。俺も非番なんだ。俺の部屋に来ない?」

「行かない」

「怖いなら、ココでも構わないけど」

 パックのまま一気飲みしていた牛乳を空にして、ゴミ箱へ放り投げながら、若い男が笑う。頬はいかにも健康そうで、ツヤツヤとしている。その顔立ちは、女の子のように優しい総悟とは違って野性味が強く、吊り上った眉と下り気味の目尻に少し険がある。が、そこがまた、危険な感じで魅力的だと、言えないことはない。

「寝る前にちょっと遊ぼうぜ。イケるクチなんだろ?」

 距離をつめる迫り方は強引だが、本人に無理じいの意識がないからか自然で、気付いた時には胸が重なりそうな近くに立たれていた。背は少し若い男の方が高い。それが気に入らなくて見上げるとにっこり、ひどく可愛く、笑いかけられる。

「お前」

 立場の上下は微妙だが年齢が上ならそんな呼び方をしてもいい、体育会系の流儀。

「ムリするとあとひくぞ」

 言いながら、右手をそっと上げて、間近な位置の若者の左の脇腹に、触れた。

「……ッ」

 軽くかすかに指先で押しただけ。なのに若者は高圧の電流に触れたかのようにびくっとして、自分から詰めた距離をさっと離れる。

「やっと椅子に座れるようになったんだろ?」

 気づいていた。屯所に尋問に、最初にやって来た日から。アバラをやられていて、それで座るのが痛くて、立ちっぱなしだということ。

「あいつに、やられたか?」

 美形の秘書の、昔の情人が遊撃隊を訪れた、最初は出頭ではなく襲撃だった、話は耳に、なんとなく入っていた。踏み込んだ留置所に探している人間の姿は無く、紆余曲折の末に、身柄をそこへ預けることになったのだが。

 取引が成立するまでの過程で、この遊撃隊のエースが白髪頭の腕利きと遣り合って、遅れをとって、遺恨に思っていても不思議はない。

「仇を俺でとうってんなら、お門違いなんだ」

 言ってそのまま、台所から用意されていた自分の膳を持って自室へ引き取る、背中を若者は、脇腹を押さえながら見送る。

「……まぁ、隊一つ仕切ってだけのことはあるさ」

 廊下を曲がって見えなくなった後で、ほんの少し感嘆の口調でそう、呟いた。